20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:斎藤マリー ストーリー 作者:なおちー

第11回   「太盛様。おはようございます」

「太盛様。おはようございます」

エリカだ。太盛は個室として整備された仮眠室のベッドで
寝がえりを打った。まだまぶたが重く、いつまでも枕に
頭をうずめていたかった。

「太盛様ぁ」

細い指で肩をゆすられる。太盛は「うーん」とうねり、
エリカがいると思われる方向とは逆向きに頭をひねる。

「もう15時を過ぎていますから、
  そろそろ起きたほうがよろしいかと」

「え? 15時?」

布団をはいで太盛がベッドサイドの目覚まし時計を
取ろうとするが、ない。壁掛け時計の位置も違う。
それに部屋全体が狭い(4畳半。彼の自宅の部屋は20畳)

そこでようやくここが自室でないことに気づいた。

「そっか。俺は夜勤だったんだな。
 そしてここは収容所か」

「はい。この第四バラックは執行部の人達が
 寝泊まりするために使われているのですが、
 私たちのために空けてくれました」

「セリフが物語の説明みたいだな。エリカ」

「そうだったかしら」

「まあいいや。で、わざわざ俺を起こすために
 この部屋まで来てくれたのか。寝る時は
 お互い別々の部屋で寝ていたのに」

「夫を起こしに行くのは妻の役割ですから」

「ん?」

当然の違和感に気づいた。エリカが太盛を慕っているのは
今までの流れで分かっている。記憶喪失の太盛ではあるが、
エリカからの好意は悪く解釈していない。

「まるで結婚するのが前提みたいな言い方だ。婚約?」

「ええ。私たちは実際に婚約していましたから」

優しく微笑んで即答した。
太盛はさすがに嘘だろうと思った。だが口にはしない。

「それより寝起きで喉が渇いたんだが」

「これをどうぞ」

午後ティーのペットボトルを手渡された。
自販機で買った品のように暖まっている。

「今日は何日だっけ?」

「12月23日。冬休みまであと二日です」

「てことは明日がイブか。ボリシェビキでは
 キリスト教信仰はタブー。もしイブを祝ってしまうと」

「粛清対象になりますね」

「だな」

※ソ連のクリスマス

 ソ連では一切の宗教が禁止されている。
 そのためロシア帝国時代から続いた伝統的な
 キリスト教文化は徹底的に弾圧された。

 ソ連人たちは毎年この時期が来てもお祝いなど
 何もせず、ただ普通に過ごした。

 ボリシェビキは超現実主義者。科学と理性を重視し、
 祈りや奇跡など不確定な要素を嫌う。
 社会主義・共産主義の思想を全人類に広めることが
 真の平和に導くと信じていた。

「今日も20時から夜勤だ。エリカは疲れてないのか?」

「当然疲れていますわ。でも太盛様と一緒だから辛くないわ」

「俺たちが一緒なのは食事の時だけじゃないか」

「イワノフさんにお願いして太盛様と一緒にお仕事を
 することになりました」

「そうなのか? じゃあモチは?」

「モチオ君はサヤカさんとクロエと組むことにしたそうです。
 私がモチオ君にお願いしたらすぐに了解してくれたわ」

「へ、へえ」

モチオに無理強いしたのだろうと思った。
若干束縛の要素さえ感じさせる彼女の言い方に、
太盛は背筋に冷たいものを感じた。

第四バラックには洗面所からバスルームまで用意してある。
広いスペースを少人数で使い放題なため、快適である。

太盛は洗顔と歯磨きをしてから、身支度を整えた。
支給されていた洗い替えの看守服を着て、すっかり仕事モード。
といっても仕事開始までまだまだ時間が残っている。

「少しお話がしたいのだけど」

「いいよ」

他愛もないおしゃべりである。

エリカと太盛の学園での出会いから、美術部での思い出や
お互いの家のこと、両親のこと、エリカがボリシェビキに
なった経緯。エリカは太盛の前では良くしゃべる少女だった。
過去のことばかり話すのは、太盛に楽しかった頃の
記憶を取り戻してほしかったからだ。
もちろん自分に都合の良い脚色を大いに交えながらだ。

「そんなことがあったのか。
 なんとなく覚えているような、ないような」

太盛はときどき首をひねるのだった。

クロエたち五人組でいる時は一番口数が少なかったのに、
太盛の前ではよく笑い、たまに冗談を言い、次々に話題を
見つけては、会話の間を作らないようにしていた。

すっかり二人だけの世界に浸っていたら、
時計の針が夜の7時を指そうとしていた。

「そろそろ夕飯の時間だから行こうか」

太盛が何気なくエリカの手を繋いで歩きだしたので、
エリカは真っ赤になってうれしそうな顔をしたものだ。

さらに

「好きだ」

と言ってしまった。

(あれ? 俺今何でこんなこと…)

太盛は大した意味もないのに平気で
口説き文句が出てしまう困った男だった。
思い込みの激しいエリカは、
太盛が互いの婚約を認めたとものとして解釈してしまった。

「私も」と言い、エリカは太盛の手を力強く握った。

もう二度と離れ離れにならない、という強い意志が感じられる。

件の大食道には、モチオとサヤカがいた。

「新婚夫婦さん、チョリーッスwwww」

「はは……。なんかその言葉を
 聞き慣れている気がするのは気のせいか」

気恥ずかしさで赤面した太盛とエリカが並んで着席する。
向かい側にはモチサヤが座っているから、Wカップルである
サヤカはなぜか明後日の方を向いていて、
誰とも視線を合わせようとしない。

事情の分からないエリカは困っていたが、
空気を読まない太盛はどんどん質問する。

「サヤカさんは具合でも悪いの?」

「んー。ちょっとね」

頬図絵をついている様子から苛立ちが伝わってくる。

「クロエさんは来てないのね?」←エリカ

「あー、あいつは出勤時間ギリギリに来るそうっすよwww
 まあそうっすよねwwwあいつはチャンネル(ユーチューブ)
 を持っているから撮影とかで忙しいんでwww」

「モチオ君たちは家で食べてこなかったの?」

「いやいや、実は俺とサヤカも収容所に泊ったんすよww
 もちろんエリカさんたちとは別の部屋っすけどねww」

「なるほど」

聡いエリカはだいたいの事情を察した。
泊まり込みでモチオとサヤカが喧嘩したのだろうと。

「もしかしてモチオに浮気でもされたのかい?」

太盛のデリカシーのない質問に、
サヤカはテーブルをばしんと叩いた。

「うわぁ!!」

太盛は両手を上げて大げさに驚いてみせたので、
モチオは腹を抱えて笑い出した。
相変わらずテンションの高い男である。

サヤカがムッとした顔で声を張り上げた。

「ちょっと!!」

「させんwwwでも太盛の顔がマジ受けるからwwww
 サヤカもしかめ面ばかりしてないで、少しは笑いの
 センスを磨いたほうがいいと思うぜーw」

「もともとあんたが悪いんでしょうが!!」

喧嘩の理由は単純で、モチオがサヤカと2人きりの時に
エリカの話ばかりしたのが原因だった。新人のエリカは
ボリシェビキの中では清楚なお嬢様で有名であり、
校長を初め男子たちの注目を浴びていた。

『サヤカは堅苦しすぎるから、エリカさんを見習って
 おしとやかな感じにキャラチェンしたらどうっすかww』

などと軽々しく口にしたので地味に傷つけてしまったのだ。

(私だって分かってるわよ)

サヤカは、悪く言うと生真面目が過ぎた。
成績は大変に優秀だが、融通が利かないタイプの女子である。

例えばこういう人が組織のトップに立つと、
部下たちはミスが許されないため息苦しくなる。

いきなりどうでもいい話を始めるが、筆者はとんでもなく
神経質で猜疑心の強いクソ女上司の元で働いたことがあった。
仕事に関してどんな細かいことにもいちいち口を出してきた。
私をこき下ろすために、他部署の仕事の責任まで私に押し付けるなど、
でっちあげを繰り返した。

ある日、突然ストレスによる頭痛を発症し一ヵ月会社を
欠勤したことがある。

その女が明らかにクソだったので男性の上司に訴えたのだが、
私の訴えは一部を除いて認められず、最終的に私か奴の
どちらかが退職するしかない状況に追い込まれ、
やむを得ず私が退職するに至った。あの時の恨みは今でも忘れていない

その女が交通事故などで一刻も早く昇天することを祈っている。

「モチオはエリカさんみたいな綺麗でおとなしい人が好きなのね」

「いやいや」

「だってエリカさんのこと褒めてばっかりで…」

「そーじゃなくて、良い人を見習えばいいってことさ。
 人の言うことはポジティブに取らないと人生つまんねえっすよ? 
 サヤカはうっぷんが溜まるとすぐ校長に当たる悪い癖が
 あるんすから、もっと人生を前向きに行きないとダメだよ〜」

「あんな職場にいたら性格もギスギスするわよ。
 もっと人を入れてスムーズに仕事が進められるように
 会長殿にも何度もお願いしているのにさ」

「今は中央委員のことは忘れようぜ!!
 俺たちはここでは臨時派遣委員。言われたことだけ
 こなしていればいいいんすよ。ある意味気楽っしょ」

「え……。あんたまさか。今回の派遣に賛成したのは
 それが目的…?」

「サヤカを年末まであの部屋に缶詰めに
 しておきたくなったからだよ!! 
 たまには別の部署の仕事するのもいい経験だと思ってな!!
 まっ、夜勤なのは辛いけどな!!」

「あ、あんた……。バカなくせに色々考えてくれてるのね」

厨房から出て来た男性のシェフが、彼らのテーブルに
直接お皿を運ぼうとしていたのだが、タイミングを
見失っておろおろしていた。

サヤカは涙もろい性格だったので、モチオの肩にもたれながら
泣いていた。長年連れ添った夫婦が愛を再確認したかのような場面である。
そんな二人の様子を、セマエリは微笑ましく見守っていた。



夜の見回りの時間である。
モチサヤは男子の収容所。太盛とエリカは女子の収容所の担当となった。
時刻は消灯時間になったばかりの夜10時。
彼らの担当は第二バラックの見回りである。

太盛は懐中電灯を片手にエリカと並べて歩くのを楽しみにしていたのだが、

「ごめんなさい。ちょっと頭痛がするの。
 監視ルームに行って、座り仕事の方に回させてもらうから」

「エリカ……」

やっぱり寝不足だったのかと思った。
夜勤ではよくあるパターンだ。普段と生活リズムが
狂いすぎていて、なかなか寝付けなかったのだろう。
図太い神経をしている太盛は、疲れていたのでさっさと寝てしまったが。

(それでも俺には会いに来てくれたのか)

個室で話した時のエリカは元気そうだったが、
今考えると無理をしていたのかもしれない。
太盛は小型無線機を取り出し、イワノフに連絡した。

「そういう話でしたら、体調が良くなるまで
 無理はなさらないほうが良い」

イワノフは第四バラックで静養するよう指示した。
これは指示であるから、エリカには仕事を継続するいかなる
義務も存在しない。なのにエリカは、

「せめて監視だけでもしますわ。モニターをチェックするくらいのことは」

「そう言われましても、顔色が優れませんよ。同志エリカ殿。
 あなたの仕事熱心さは良く伝わりました。
 だからこそ疲れが出たのでしょう。
 これからの仕事のためにも、尚更今は休んだほうが良い」

「そうだよエリカ。ここはイワノフさんのお言葉に甘えさせてもらおう。
 見回りなら俺一人でも大丈夫だから」

エリカはうなずき、イワノフに付き添われてその場を後にした。

一人残された太盛は、決められたルートを通り、
囚人たちの眠るベッドルームの見回りをした。

(囚人とはいえ、女子の部屋か)

女の子たちは行儀良く寝ていた。
寝る時間なので当たり前だが、物音ひとつ立てていない。
かすかに寝息が聞こえる程度の静寂。
収容所の夜はとにかく異常に空気が緊張する。

太盛はベッドルームを通り過ぎて、
トイレのある廊下をすたすたと歩いていた。
歩き時はできるだけ足音をたてるようにと決められている。
恐怖心を煽るためかと思ったが、いかにも看守が近づいているのが
バレバレなので逆効果ではないかとも思った。

「看守様ぁ」

太盛は心臓が止まるほどびっくり仰天した。
高圧電流の流れるスタンガンを片手に急いで振り返ると、
何もいない。

おかしいと思って足元を見ると、いた。
太盛の足首に手を伸ばして床を這っている女子の姿が。

「――――っ!!」

太盛は思いっきり叫びたかったが、不思議と声が出ない。
ついに幽霊を見てしまったショックは大きかった。
幽霊は、一度見てしまうとその後も一生見続ける運命になるという。

確かにここは収容所であり、囚人が脱走に失敗し拷問死すること
など日常であるから幽霊の一人や二人いてもおかしくはない。

「しー」

幽霊が唇に指を当てている。
その子はよく見ると人間だった。
斎藤マリーによく似たセミロングの髪で、
囚人にしてはよく手入れされている。

「地べたを張っていれば、監視カメラに映りませんの。
 看守様はそのまま動かないで」

かなりの美少女だ。
切れ長で少し足れた目つき。薄ピンク色の唇が愛らしい。
ほっそりした体形で、囚人服の上からでも手足の細さが伝わるほどだ。
声だけが残念で、アニメ声のため無駄に音程が高かった。

「こっちへ来て」

少女は、廊下をそのまま這い続けて物置に太盛を案内した。
『物置』には監視業務に使う機器などが満載されている。

通常ボリシェビキ以外の者が入ることは厳禁である。
そもそも施錠されているはずのその扉は簡単に開いてしまった。

「堀太盛様にお願いがありますの」
「なんで俺も名前を…」
「堀様は有名人でありますから」
「ああ、そうかい。で、何が言いたいの?」
「私を一日だけでいいから外に出してほしいのです」
「あん?」

彼女の言い分を要約すると、この学園で付き合っていた男子生徒がいる。
その男子は一般生徒のため、もう三か月以上連絡を取っていないが、
なんとかして再開したい。せめてクリスマスイブの日だけでも彼の顔を見てみたい。

太盛は生徒会から支給された手帳の規則に、

・囚人に声を掛けられても、必要のないことは絶対に応じないこと。

と書いてあったのを思い出した。

「君は馬鹿だな」
「は…」
「俺がそんなこと認めると思うのか?」

太盛の顔は冷徹な共産主義者そのもの。
この顔の恐ろしさを少女は熟知していたから、
思わず震えそうになった。

新人として派遣された堀看守ならもしかしたら
と思って話しかけたのが、どうやらうまくいきそうになかった。
その証拠に

「君のことを同志(本部)に通報する」

と言われてしまい、ついに血の気を失って顔面蒼白となった。
脱走の企てがばれた場合は尋問室で拷問。
あるいは男性の看守に囲まれて眠れない夜を過ごすことになる。
旧日本軍的な表現では辱めを受けることになるのだ。

「堀さんぁ……お願いします……お願いします……。
 通報だけは勘弁してください……今日のことはなかったことに
 してくだされば、おとなしく部屋に戻ります……」

「なかったこと? そんな都合の良い話があるもんか。
 僕は誇り高きボリシェビキの一員であり、君は規則に違反して
 脱走しようとした。しかも恋人に会うため? 
まったく認められるわけがない」

太盛は小型無線機をポケットから取り出し、スイッチを押そうとしたが

「だめぇ!!」

囚人の女の子によって払われてしまう。
ガタッと音を立てて無線機が転がった。

これは大きな音だった。
不気味な静寂に包まれている収容所において、
たとえ物置の中であっても良く響いた。

「往生際がわる…」
「拷問だけは嫌です!! 後生ですから。後生ですからぁ!!」
「君たち囚人には人権がないんだよ。諦めろ」
「なんでもしますから!! 私、なんでもします!!」
「そんなに拷問が嫌か?」
「いやですよぉぉ!! 彼に一生会えない体にされちゃうんですぅ!!」

無線機を落としたとか、もはやそういう次元ではなくなった。
廊下に仕掛けられている盗聴器にまで声が聞こえるほどだった。

これでは誰かが駆けつけるのは時間の問題。

「ちょっとー。夜なのにうっさいんだけどー?」

ご丁寧にノックまでしてから入って来たのは、クロエであった。
彼女は出勤時間ギリギリにやって来たところだったのだ。

太盛はまず彼女の見た目に驚いた。まさかのイメチェンである。
今まで黒い髪の毛だったのが金髪に変わっている。
小顔でブルーの瞳をしたクロエだからよく似合っている。

今まで鼻をわざと低く見せるよう厚塗りをしたり、
目元を平たんに見せるメイクをしていた彼女とは別人。
なんというか、普通に西洋白人の美少女がそこにいた。

「なんだ太盛じゃん。あっ、呼び名は太盛でいいよね?
 あたしら仲間だし。それより囚人とそこで何やってるの?」

「この子が彼氏に会うために脱走したいとか言っててさ。
 これって粛清対象だよな?」

「うん。粛清対象だね」

「やっぱりな」

女子の囚人は何を思ったのか、
今度はクロエの足にしがみついて懇願を始めた。

「看守様ぁ。お願います。お慈悲を下さい。
 看守様も女性の方なら好きな男性を
 想う気持ちはお分かりになると思います」

すすり泣いているため、ほとんど呂律が回っていない。
クロエは囚人の言っていることなど全く無視して、太盛に問いかけた。

「エリカは一緒じゃないの?」
「あいつは具合が悪いから別室で休んでるそうだ」
「そうなんだ。心配だね」
「正直仕事に手が付かないほどだ」
「あとで様子見に行かないとね」
「もちろんだ」

女子の囚人は声を上げて泣き始めた。
この看守二人は自分のお願いなど全く聞くつもりがないのだ。

非常なボリシェビキにとっては、自分が尋問室行きになる
ことなど、これっぽっちも重要なことじゃないのだ。

「クロエ。髪の色変わった? かわいいね」

「あはっ。ありがと。今回はいかにしてリカちゃん人形に
 なり切るかってタイトル(英語)で動画を作っているのね。
 あたし本当は東アジア風のファッションに憧れているんだけど、
 たまには白人っぽいメイクもしておかないと自分が何人なのか
 分からなくなってくるじゃない? 実は私の知り合いで
 ドイツ系スイス人の女の子がいてね。その子が両親と喧嘩して…」

「さて。この囚人をどうしようか」

「ちょ。そっちから話題振って来たんだから
 最後まで聞いてよぉ」

太盛は、物置の隅でうずくまって震えている囚人へ近づいた。
太盛が顔を上げるように言うと、女の子は悲鳴を上げてさらに震えた。

「ご、拷問されるくらいだったら、いっそ舌を噛み切って死にます」

「大人しくしろ。囚人には自殺する権利すらないんだ」

「ならこれで!!」

なんと。囚人の女の子は食事の際に出されたフォークを
隠し持っていた。それで自分の首を指して死のうとしたのである。

「ばーか」

クロエは何を思ったのか。囚人を拳で殴り始めた。
早い。肘を下に構えるのはボクシングに特有であり、無駄がない。
すごい勢いで拳の雨が振り下ろされる。

「う……ぐ……いたっ……やめて……」

ガードした腕の皮膚から血が流れるほどだった。
黒江の瞳からは完全に人間らしい感情が失われていた。
狂ったように囚人を殴り続けている。

「その辺でやめておけよ」

太盛がクロエの肩に優しく触れると、ようやく暴走は止まった。
全身に打撲を負った囚人は、ただ泣き続けていた。
彼女の嗚咽は物置内にむなしく響いた。

「クロエ。ちょっと熱くなり過ぎだぞ」

「分かってる。でもこう言う奴ってムカつくんだよ。
 どうせ死ぬ勇気もない癖に自殺とか簡単に口にしてさ」

「暴行するのは執行部の人たちの仕事だからな。
 あんまり好き勝手やってるとイワノフさんたちに
 迷惑がかかるから、ほどほどにな」

「うん…」

太盛には理由が分からなかったが、クロエは見たこともないほど
暗い表情をしていた。まるで過去の不愉快な記憶を
思い出してしまったかのように。

日本人の女子とは比較にならぬほどおしゃべりで感情の起伏の
激しいクロエ。一般的に仏人は感情を隠すことを悪徳と感じる。
この時もクロエは、日本育ちの太盛には
到底分からない反応を示すのだった。

「人を殴ると複雑な気持ちになるの」

「どういう意味だ?」

「たまにこう考えることがあるの。私が逆の立場だったら
 どう思うだろうって。たぶんこの女と同じで
 泣きわめいて許しを請うのかなって」

「そりゃそうだろう。一方的に虐待される側なんだから」

「だからなのかな。私は今の地位であることをうれしく思うの。
 だってこいつらは犯罪者だから、好きなように痛めつけられる。
 そう。気のすむまでね。これは正義のためにやっていること。
 だから罪悪感はない。私たちがこいつらを取り締まる法律を作って、
 保安委員部が実行して、学内から反乱分子を一掃する。
 これが私たちの仕事でしょ?」

「君は何が言いたいんだ?」

「太盛は人を殴ったことはある?」

「どうだろうな…」

太盛は考えるしぐさをしてから

「3号室にいた時はあったと思うよ。あの時は、確か
 山登りの訓練をしてた時だったか。偉く太った2号室の
 囚人をボコボコにしたことがあった。カナも一緒に…。
 ん…? カナ? カナってどんな顔してたのかな。
 名前は思い出せるけど、靄がかるように顔が思い出せない」

「本当に記憶喪失なのね。諜報広報委員から聞いてはいたけどさ。
 まさかミウ閣下のことまで忘れてないでしょうね?」

「忘れるわけないだろ。俺はミウの部下だったんだから」

(部下じゃなくて彼氏でしょ)

と思ったが、細かいことまで指摘しないことにした。

「ミウと言えば」

太盛が食いついた。

「最近ミウを見ないな」

(は?)とクロエは口に出しそうになった。

太盛がおかしいのは記憶の件だけではなさそうだ。
ミウの粛清は学内でほぼ周知されているはずだ。

返答に困っているクロエをよそに、
太盛は囚人に声をかけた。

「君は最近7号室でミウを見たか?」

「い、いいえ」

「本当に見てないのか? ミウはここを定期的に
 見回っているはずなんだけどな。体育の授業も
 積極的に関わっていると同僚からは聞いているんだけど」

彼はこのように意味不明なことを言うことがよくあった。
諜報広報委員で勤務していてミウの粛清を
知らないなど、常識的に考えられないことだ。
これにはさすがの黒江も驚愕して言葉もなかった。

皮肉にも太盛に真実を教えたのは囚人であった。

「あの」
「ん?」
「もしかして堀様はご存じないのですか?」
「なにを?」
「高野ミウ副会長閣下は内部粛清されましたけど」

ガーン。
太盛は鉄のハンマーで頭を叩かれた。気がした。
それほどショックは大きかった。

疑い深い今の太盛なら、女子の言っていることをすぐに
信じようとはしないはずであった。だがすぐそばにいるクロエも
深刻な顔をしているから、状況からして事実なのを察してしまった。

「なんで」
「え」
「なんで教えてくれなかったんだよ」

太盛はクロエの肩を激しく揺さぶり、息を大きく吸った。

「ミウが死んだなんて俺は知らなかったぞ!!」
「……諜報部で聞いてないの?」
「誰もそんなこと言ってないぞ。話題にすらあがったことがない!!」
「へ、変ねぇ。トモハル委員から全員に通知されたとばかり…」
「いやいや!! だから何も言われてねえって言ってんだろ!!」

太盛の取り乱しようはすごかった。
黒江が悪いわけでもないのに、八つ当たりに近い。
黒江はただ太盛の豹変と迫力に圧倒され、
顔にかかる唾さえ拭き取ろうとしなかった。

「うわあああああああ!! なんでだあああああああああ!!」

太盛は物置から危険な香りのする四角い箱を取り出した。
鉄製である。ふたを空けてみると、どう見ても手りゅう弾としか
思えない代物が複数入っていた。太盛はさっそく三個ほど手に取ってみて、
ずっしりくる重さを確認した。安全ピンをためらいなく外そうとしたので、
さすがにクロエの拳が飛んだ。

「ぐはっ」

顔に強烈な左ストレートを食らい、鼻血が宙を舞う。
黒江は左利きだった。
拳を振り切った態勢で、口元が「ごめん」と動いた。

「いや、クロエが謝ることじゃない。
 俺バカだからガチでショックな時は死にたくなるんだ。
 君が止めてくれなかったら手りゅう弾を
 自分の胸元に当てるところだった」

そう言って握手を求めて来た。

これにはクロエも苦笑する。
新手の日本風ジョークかと思ったが、
やはり彼はどこかおかしい。

単純な記憶喪失の範囲を超えている。
統合失調症などの精神疾患を疑ってしまう。

「大丈夫だ」

太盛がさわやかに言う。

「俺はもう冷静だよ。ちょっと夜勤とかエリカが倒れたこととか、
 色々あって頭が疲れていたんだ。クロエにはみっともないところを
 見られてしまったね。今はただ恥ずかしい」

「パ・ドゥ・プロブレム(気にしないで)
日本は恥の文化って聞いたことがある」

「昔マッカーサー元帥がそう言ってたんだよな。
 戦後間もない頃に」

茶番は終わり、通常業務に戻った。

規則に準じて女子の囚人は保安委員会の上司に引き渡した。
太盛は大したことをしてないつもりだったのに、
イワノフから大いに称賛された。

「早速お手柄ですな!!」

イワノフの言葉に部下たちも続き、拍手が沸き起こる。
夜の監視ルームはにわかに騒がしくなった。

「この囚人は明朝、尋問室に連れて行きます。
 尋問によって他に仲間や先導者がいないかを確かめるのです。
 おそらく連帯責任であと数名が逮捕出来ることでしょう」

イワノフのごつごつした手と握手しながら太盛はこう思った。

(この子はどう見ても単独犯だと思うけど、あえて言うまい。
 拷問に耐え切れなくて他の囚人の名前も適当に言ってしまうんだろうな。
 尋問室では水責めが定番らしい)

イワノフはわざわざクロエにはたどたどしい仏語で対応し、
握手した手を上下に何度も振った。
黒江も太盛同様に恐縮してしまったが、とにかく
褒められてうれしくないわけがない。

クロエは冗談でカロリーメイトをくださいと言ったら、
本当にくれた。都合の良いことに彼女の好むフルーツ味だった。

その後、二人は監視ルームで過ごした。
割り当てられた監視カメラのモニターをチェックしたが、
特に変化はない。クロエは勤務中だというのに、
たまに手鏡を取り出しては、自分の前髪の形を気にしていた。

それに比べたらハンドクリームやリップを
取り出すのは可愛い方である。

「おい。怒られるぞ」
「でもこの時期乾燥がヤバいのよ」

イワノフら偉い人たちは見て見ぬふりである。
黒江もそれが分かっているから大胆な行動に出るのだ。
彼女の肌は化粧水でしっかり保湿されて美しかった。
男子も女子も10代の美しさは永遠に戻ることがないのである。

そして時刻は23時。見回りの時間がやって来た。

「それじゃ、行ってきまーす」

黒江が元気に手を振ると、屈強な男たちが
照れくさそうな顔をしていた。
イワノフが勇気を出して手を振ると、部下らも習う。

保安委員部の男たちは、クロエの笑顔で
普段の仕事疲れをすっかり
癒されていることに気づいていた。

都会的で洗練された振る舞いをするクロエは
密かに保安委員部や執行部の中で噂される存在になっていた。
彼女のユーチューブのサイトを見ている人もいるという。
ネット世界での彼女は、一種の国際的アイドルであった。

ライトを片手に決められたルートを通る太盛とクロエ。

「太盛もカロリーメイト食べる?」
「……そうだな。もらっておくか」

のんきなものだと太盛は思った。

仕事に対する熱意がないわけではないのだろうが、
黒江のノリは軽い。トモハル委員の指導の元、
ガチガチのボリシェビキとして教育された太盛とは
色々と温度差があった。

(それにしても。俺が取り乱したこと、全然気にしてないのか)

彼女はあっけからんとしている。
昔のことは気にしないタイプの性格なのだろうと思った。
まるで行楽に行くような足取りで廊下を歩いている。

まさか鼻歌を歌うわけじゃないだろうなと思っていたが、
さすがにそれはなかった。

ベッドルームを見回った。異常はない。
黒江はトイレにも入っていった。さすがに
太盛が遠慮するのだが、見回りは絶対に
ペアで行うというルールを説明し、手を繋いで中へ入っていった。

太盛は、女子トイレに入ったことよりも、クロエと手を繋いだことの
方に驚いていた。クロエの指は細くて冷たくて、少し力を入れたら
折れてしまいそうだった。

「太盛の手、熱いね。暖かいというより熱い」
「むしろ君が冷たすぎるのかもね」

身長は日本人の女子とそんなに変わらない。
おそらく158センチである。なぜ具体的に分かるのかというと、
太盛は一瞬で目の前の人の身長を見抜く力があるのだ。

さらに初対面の人の顔、服装、声、話し方のくせなどは
一瞬で記憶するよう諜報広報委員で訓練されている。
これは、将来国際スパイになることを視野に入れた訓練である。

だから、太盛は休みの日にお店に買い物に行く時も、
さりげなく人々の特徴を確認する癖をつけている。

女子トイレにも異常はなかった。
ついでに尋問室に現在軟禁されている例の女子を見に行った。

彼女はパイプイスに座らされていた。
鉄の足かせをはめられているから、下半身の自由はない。
それに加えて自殺防止のためにモニターで監視されているから、
本当に何もできないのだ。

上下の囚人服はそのままに、素足である。
エアコンは効いていないので12月末の寒さで凍えるほどだろう。

「堀様ぁ」

この部屋は声がよく響いた。

「なんだ? 今更命乞いしても無駄なのは知っているだろう」
「生前のミウ閣下のことをもっと知りたくないですか?」
「なに?」
「どうですか?」
「確かに気にはなるが」

太盛が食いついたので、囚人は一気にまくし立てた。

「ミウ様は、それはもう堀様のことを愛しておられました。
 堀様の前では猫をかぶっていたんでしょうけど、
 本当は冷酷なサディストでした

 あの方は私たち囚人の前ではよく感情を表に出していました。
 私たちの前を歩いては、理由もなく順番に平手打ちをしたり、
 お腹を殴ったり。あれはひどいものでした。私の友達に
 裸で寒風の吹き荒れる校庭に3時間放置されたものがおりました。

 どんな執行部員よりもひどい。副会長に地位にあるものが
 私たちを直接虐待することがまず異常です。私たち囚人は
 奴の死を一刻も早く願ってしました。だから死んでほっとしています」

まさかの暴言。自分が拷問死することが分かっているからか、
舌が良く回る。これにはさすがの黒江も黙っていられない。

「それ以上続けたら、あんたの拷問内容がもっと過酷になるよ」
「そんなの知ったことではありません。どうせ死ぬんですから、
 好きなだけ話させてください。堀さんも聞きたいでしょう?」

太盛はうなずいた。

「じゃあ続けますね。私は堀さんのことも殺したいほど恨んでいます。
 だって、あなたミウと付き合ってるのに他の女と浮気してたんでしょ?
 エリカ先輩とか、野球部のマネージャーとか。あとあの子。
 斎藤マリー。ミウのクズはあなたに冷たくされると私たちに
 八つ当たりして最低でした。あなたがちゃんとミウの彼氏を
 やっていれば、もう少しましだったかもしれないのに。

 あんたもサイテー。浮気癖のある男は死ねよ。
  散っていった私の仲間のためにも
 責任取って死んでくださいよ堀太盛さん。いや死ねよ」

堀太盛は放心した。なぜか。斎藤マリーのくだりで
頭をこん棒で殴られたかのような衝撃を受けたのだ。

あるいは、彼の記憶の渦が静かな水面だとすると、
そこに大きな石がどすんと落とされた状態である。

「死ね。死ね。堀。おまえの彼女が死んだならおまえも地獄へ行け。
 私が死んでもむしろ呪い殺してやる。生徒会よりも
 お前が憎い。生まれ変わってもお前を殺す。
 ミウは地獄に行ってから殺す」
 
「あんた。言いたい放題言ってくれたわね」

黒江が囚人の腕を握る。骨が折れるほどの力が
込められていたので、囚人は耐え切れず絶叫した。

「諜報広報委員の堀太盛君に暴言吐くなんて
 あんたの方が最低よ。いっそイワノフさんに
頼んで今すぐ拷問してやろうか?」

「けっ」

つばが、クロエの顔に飛んできた。

黒江はよく手入れされた肌が汚されたのでカッとなり、
ボディブローの構えを取るが、

「まあまあ」太盛に優しく肩を抱かれると、なえてしまう。

(あ、あれ? おかしいな。なんであたし抱き締められてるの)

ずっと彼氏が欲しかったクロエには感動的なシーンであった。
太盛のことは嫌いではないが、異性としては意識してなかった。
それに友達のエリカの彼氏だから、もちろん手出しするつもりはない。

なのに心臓がどきどきしている。

「クロエの気持ちは分かるけど。今は少しだけ耐えてくれ。
 どうせこいつは明日死ぬんだからさ。その前にちょっとだけ
 情報を聞き出したいんだけど、いいかな?」

「うん…」

太盛は抱擁を解いた。そして囚人の方に向き直ると、
彼のぬくもりが少しだけ恋しくなった。

「君は斎藤マリーを知っているのか?」
「知っているも何も、有名人ですから」
「俺はその子のことを知っている気がする」
「何言ってるの? 彼女の一人だったんでしょ?」
「え?」
「えっ」
「斎藤さんは俺の彼女だったのか?」
「彼女じゃなかったら、愛人とかですか?」
「え?」
「は?」

囚人はイライラしながら太盛の質問に答えた。
マリーの顔や性格などを伝えたが、どうも太盛には
しっくりこないようだった。すでに解放されたばかりの
マリーと自分の職場で再開しているのに、ひどいものである。

「斎藤マリエも死ねばいい」

恨めしそうに声で言った。
老女か魔女を思わせる声である。
紹介が遅れたが、この囚人の名前は船越ヒトミである

「ねえ執行部員さん。最後だからこっちからも質問させてよ。
あいつだけなんで釈放されたの? 
納得できないし殺意しかわかないんだけど」

太盛がかぶりを振ってクロエに視線をやる。
クロエにも理由が分からなかった。

「あんたらも知らないってことは、会長のエコひいきか。
 あの人紳士だって言われているけど意外と女たらしで有名だし、
 斉藤に自分の秘書でもやらせたいんでしょ。
 けっ。顔が良い女はなんでも得しやがって。死ね」

毒を履く船越もまつ毛の長い童顔で容姿は十分に整っていた。
だが、それを今さら指摘しても意味はない。

黒江はこの二人がいつまでもおしゃべりしているのが
我慢ならなくなって来た。本当はそんなはずはないのに、
年の近い兄と妹が口げんかしているように見えてしまった。
控えめに太盛に耳打ちする。

「もうすぐ休憩時間だから、エリカの様子見に行こうよ」
「おう。悪いね。すっかり話し込んでしまった」

立ち去る際に、クロエは囚人の顔にパンチを食らわせた。
囚人はバランスを崩して椅子ごと倒れ込んでしまう。
足枷のせいで、自分で起き上がることはできない。

「痛い!! クソ女。外人。おまえも死ねえええええ!!」
「はいはい。せいぜい吠えてろ」

本当はもっと痛めつけたかったが、太盛に嫌われたくなくて
手加減してあげた。クロエは至って冷静なふりをして
部屋を去るのだった。

エリカの部屋に行くと、彼女はベッドでぐったりしていた。
彼女は保安員部の休憩室から、第四バラックの仮眠室へと
移動していた。風邪が治るまで職務から離れてよいという
話しになったのだ。つまり家に帰るべきなのである。

それなのに彼女は
「太盛君が働いているから、私も学校にいる」と言って聞かなかった。
しかし収容所にい続けたら病院に行けない。
一応学園には保険の教師がいるので明日以降に診療してもらうことは
できるのだが、ちゃんとした病院で見てもらうのが一番だ。

「エリカ。寝てるのか?」

太盛がそっと彼女のおでこに触れると、相当に熱かった。
前髪が汗で湿っている。
かなりの高熱が出ているのであろう。

寝たり起きたりを繰り返しているエリカは、意識がはっきりしていない。
太盛が近くにいることを察したのか、それとも夢だと思っているのか、
「んー」と絞り出したかのような声を発するのだった。


「このままじゃ死んじまうよ」
「病院の緊急外来に頼んだほうが」
「おう。救急車でも呼ぶか」

太盛の腕をエリカが握った。

「だめ」
「え?」
「寝れば、治るから、大丈夫」

「でもかなり辛そうじゃないか。
 6号室でもインフルが流行っているっていうし、
 早めに病院で見てもらった方が」

「いいの。いいから今は寝させて。
 太盛君たちの話声、少しだけうるさい」

どうするべきか悩んだが、とにかく明日の朝に病院へ
連れて行くことにし、太盛とクロエは仮眠室から出て行くことにした。

黒江と太盛は執行部員の休憩室へ入った。
ベッドがあるので仮眠をとることができる。
もちろん男子と女子は別々なのだが、
そういう細かいことは気にしない性格の黒江は
女子の部屋へ太盛を招待した。

一人では寂しいからと言われたので、太盛は断らなかった。

休憩室は収容所内にいくつも用意されている。
クロエに用意された部屋は6個のベッドが置かれているが、
彼らの他には誰もいない。

執行部員が人材不足なので休憩室は
ほとんど使い放題になっていた。
二人はそれぞれベッドに横になり、天井を見つめる。
太盛は深いため息を吐いてから言った

「だめだ。エリカのことが気になって眠れないよ」
「あたしも心配だよ。それにしてもなぁ」
「ん?」
「あちゃー、あの子は初勤務の日からやられたか」
「どういう意味だ?」
「日本風に表現すると、たたり」
「たたり?」
「実はね。うちの執行部員がなかなか定着しないのは理由があるのよ」

黒江は恐るべき内容を語るのだった。

収容所7号室の敷地には、非業の死を遂げた囚人たちの怨念が宿っている。
彼女(彼)らの霊が執行部員たちに夜な夜な悪さをする。
実際に幽霊の目撃例は多数ある。数日前に霊に憑りつかれて
発狂し、自分から鉄条網にダイブしたのは、なんと囚人だったという。

「ちょっと待ってくれ。エリカはたぶん風邪だぞ?」
「そうとも言い切れないのよ」

黒江は太盛の顔を正面から見据えた。
話し中に目をそらさないのは欧州人の特徴である。
数多くの異文化がひしめく欧州大陸では、日本人男性のように
照れ臭くて目をそらす人は、嘘つきだと疑われてしまう。

心理学によると
相手のウソを見破るには爪先を見ればいいらしい。
誠意のない相手はまず爪先が明後日の方を向くという。

「これも生徒会の極秘情報なんだけどね。
執行部は初勤務から一週間以内に体調不良になる人が
続出しているの。エリカみたいに高熱を出す人もいるけど、
見回り中に泡吹いて倒れている奴もいた。
手足がしびれていたから癲癇(てんかん)みたいな症状ね」

太盛の顔がみるみるうちに青白く染まっていく。

「まじかよ……。じゃあエリカもヤバいのか?」

「たぶん死ぬことはないと思うけど、当分の間
 収容所から離れたほうが良いと思う」

「この収容所がそこまでヤバいのを知っているなら
 生徒会の偉い人たちはなんで廃止しないんだよ?」

「それはあたしら中央委員部でもさんざん話し合ったんだけどね。
 収容所の撤去と収容されている全囚人の抹殺を提案した女子が、
 心臓発作で死んでしまったの…」

「死んだ…?」

「そうよ。原因は不明。彼女が夜遅くまで自宅のPCで立案書を
 作成していたら、そのままデスクの上で死んでいた。
 翌朝母親が娘の遺体を発見したそうよ。その時の死に顔といったら。
何者かに首を絞められ、叫んでいる途中で息絶えているように見えた」

「た、たたりだってのか……。バ、バカらしい。
 俺はボリシェビキだ。非科学的なことは信じないぞ」

「あたしだって最初はそう思った。けどここまで話が
深刻化しているから信じるしかないね。うちの部では
校長を含めて全員が霊の存在を信じているよ」

太盛は背筋が冷たくなり、無性に恐ろしくなった。
この狭い部屋の中で、天井から何者かに見張られているような気がした。
いや。壁の裏にも何かが潜んでいるのかもしれない。
この部屋には窓もカーテンもない。
部屋の色は上から下まで白で統一されている。

この無機質さが、余計に恐怖を煽るのだった。

いつもは明るい黒江の口調が淡々としている。
ふと彼女も怖くないのだろうかと太盛は思った。
クロエは太盛から見ても立派なボリシェビキの一員だが、
同じ高校生であることに変わりはない。
この勤務はある意味自殺行為に等しいものがある。

「あたしは必要とされる場所にいるだけよ。
 人手不足の部署があったらそこへ手伝いに行く。
 日本に来たのもそうよ。たまたまこの学園が国外の
 ボリシェビキを募集してたから来てみたの。
 ま、日本の秋葉原に一度行ってみたかったのもあるんだけど」

「そうか。君は考え方が大人だね。
大人の女性って感じがする」

「そんなことないって。
あたしはただ好き放題やってるだけだから」

太盛はベッドから起き上がり、クロエの隣に座った。
そしてクロエの手をギュッと握る。

「いやだったらごめん。普通にしてると怖くてさ」
「いやじゃないよ。全然」

人の肌の暖かさ。太盛は長い時間忘れていたような気がした。
エリカと手を繋いだ時とはやはり違う。
太盛にとってクロエは何もかも新鮮に感じられた。

一度この娘のことを知りたいと思うと、
どんどん近くに寄りたくなってしまう。

一方で美人の割にオタクだったからか恋愛経験のない
クロエは、心臓がうるさく鳴り響いてそれどころではなかった。
顔は真っ赤であるが、鈍感な太盛には悟られていない。

現時点で恋愛感情が強いのは太盛よりもクロエの方であった。
天然の女たらしの太盛が持つ、不思議な魅力のなせる業である。

居心地の良い沈黙の間を太盛が破った。

「あの船越って子さ」
「うん」
「あの子も幽霊だったんじゃ…」
「それはないね。普通に殴れたし。そもそも幽霊だったら触れないって」
「それもそうか……」

今は人間でも、死んだあと呪い殺すとあの子は言っていた。

「私たちはペアだから心配しないで。 
 あたしは君のそばを離れないようにする」

確かにそうだ。見回り業務はペアが原則。
当初はモチオが太盛のペアであったはずなのだが、
サヤカと組んで男子の収容所の担当になっている。

クロエは本来なら監視ルームの固定勤務の予定だったが、
太盛の本来のペアのエリカは欠勤中。
そのため太盛と組んでいる。

「こ、これからもよろしくな。俺臆病だから
 いざとなった時に役に立たないかもしれないけど」

「誰だって幽霊は怖いわ。私はここの心霊事件を
報告書に書いて中央委員部に提出するつもり。
何が起きても大丈夫なように心構えだけは
しておこうね。お互い頑張りましょう」


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 1305