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作品名:斎藤マリー ストーリー 作者:なおちー

第1回   1
1918年3月3日

時は第一次世界大戦。
列強各国が膨大な数の犠牲者を出している最中、
生まれたばかりのソビエト社会主義連邦共和国は、
国内での革命に専念するためにドイツと講和した。

ソ連とドイツ帝国の間に、休戦条約である
『ブレスト=リトフスク条約』が結ばれた。

この条約により、ソ連はロシア帝国時代から所有していた
総人口の1/4、領土の1/4、工業生産、資源地帯の1/3を失った。
これに加えて多額の賠償金の支払いを命じられた。

世界で最も訓練され組織化されたドイツ軍の強さに
連合国軍は終始圧倒された。連合国筆頭の仏英軍でさえ
戦争が終結するまで連合国側の領土での戦闘に終始し、
ドイツ領に侵攻することはかなわなかった。

フランスは国土の三分の一が廃墟となった。

言ってみればドイツの敗因は、戦争後半からの米国の参戦による
200万の敵兵の増加、英海軍による海上封鎖による物資の欠如が原因だ。
同盟国軍側で筆頭のドイツ軍は、世界のいかなる軍隊よりも戦闘に優れており、
まさに世界の覇者と呼ぶにふさわしい軍隊だった。だが戦争には敗れた。

フランスやベルギー本土で行われた欧州西部戦線の激戦は、
数字で見ても今までの戦争とは次元が違う。

ヴェルダンを巡る攻防(ヴェルダン攻防戦、史上最大規模の要塞戦)
を例にすると、日露戦争で日露両軍が一年半の戦争期間を通じて砲弾数を、
仏独軍はたったのニ週間で使用してしまった。

フランス軍は強かった。敢闘精神にあふれ、良く訓練された兵隊を保有していた。
フランスとは世界で初めて民主主義が制定された国家であり、
資本主義が高度に発展した世界有数の工業大国だった。

仏軍は、砲弾生産力を背景にした砲兵の運用が巧みであり、
要塞建築の技術において世界のトップだった。日露戦争で一万を
超える日本兵を虐殺した旅順要塞のモデルとなったのは、フランス式の環状型要塞だった。

そのフランスでさえ第一次大戦でドイツの強さを思い知る。
戦後のフランス政府には「ドイツ恐怖症」が染み付いた。

敗れたドイツがヴァイマール共和国として生まれ変わった後も、
フランスはいずれ復活するであろうドイツ帝国による報復を恐れ、
独仏国境沿いに全長100キロを超えるマジノ要塞を構築するに至る。


第一次大戦の西部戦線では、戦車が実用化されていた。
フランスのルノー戦車は、その当時すでにキャタピラー付きで
砲塔部が全集回転する近代的な戦車だった。

戦後、レーニンはソ連に輸入したフランス製の戦車の実物を見た。
部下の報告によると、フランスでは2000両の戦車が
実戦配備されているという。レーニンは部下にこう言った。

「我が国の工業生産力はフランス、ドイツに
 比べ50年ないし100年遅れている」

ロシア帝国は、ドイツと戦争を開始してその数か月後には武器、
弾薬の備蓄がつき生産が追い付かなくなった。 
欧州で近代戦争を遂行するための工業基盤があまりにも脆弱だったのだ。
ドイツ帝国軍は、極東アジアで戦った日本帝国軍とは次元の違う強さだった。

そもそも日露戦争での満州平野での戦闘を見ても、ロシア軍は
戦術的には日本に優位に立つことはなかったといえる。
(敗北主義者のクロパトキンが司令官だったことが大きな要因とされる)

それも当然で、当時の満州司令部で頭脳となった参謀の児玉源太郎は、
ドイツ式の用兵術を学んだ人物だった。児玉参謀の師にあたる
ドイツ人のメッケルにしても「児玉が要ればロシアに勝てる」とまで言わしめた。

つまり日本陸軍の戦術の師匠であるドイツ陸軍と正面から戦ったところで、
ロシア陸軍が勝てる道理など初めからなかったと考えることができる。

『勝てない相手に戦争を挑んだから負けた。当然の結果だ』

ドイツの主戦場は対仏英戦であり、戦力の7割は西部戦線へ展開した。
ロシアが戦ったのは、ドイツ陸軍の3割である。一方、ロシア帝国軍は
圧倒的な兵力を誇り。最大動員数は500万。局地的にはドイツに対し
3倍の兵力を展開することができた。それでもドイツは戦術面の優位に立ち
巨砲の数で勝り、超人的な鉄道輸送により兵を移動させ、ロシア軍を撃破した。

逆にロシア帝国領にドイツ軍がなだれ込み、モスクワにほど近いリガの港が陥落した。

『ドイツ軍が攻めてくるぞ!!』
『もう何もかも終わりだ!!』
『俺達みたいな田舎者が、ドイツに勝てるわけがない』

本土防衛戦の最前線でのロシア軍の脱走兵、実に100万を超えたという。
兵にとって、初戦から敗戦を続ける帝国への忠義などない。皇帝の権威は地に落ちた。

当時、ドイツの参謀本部は世界で最高の軍事的頭脳と呼ばれ、
仮に同数の同条件で戦った場合、地上のすべての軍隊に対して
ドイツは優位に立つことができた。そのためドイツ帝国では
参謀本部が軍を主導し、政治家を押さえて国家の戦争すら主導する
立場になり、帝国では参謀本部による独裁が行われていた。

このような事例は、古今東西の歴史を調べても当時のドイツの他に例がない。
ドイツ帝国軍の強さは、天才的な作戦術に依存していたと言っても過言ではない。

レーニンらソ連側代表は、講和会議の際にドイツの提示する条件を
すべて認めた。これは外交の世界でドイツ人の靴の裏を舐めたといっていい。
ロシアの歴史でこれほど圧倒的な敗北を喫したのは、中世のタタール族、
モンゴル軍への敗北以来であった。

『ブレスト=リトフスク条約』の結果、
ソビエトに住む全ての人民はドイツとの奴隷契約にサインしたことになった。

政治思想の右と左を問わず、老若男女問わず、
あらゆる勢力がレーニン率いる共産党左派を罵倒した。

「レーニンの大バカ野郎!! やっぱり奴はドイツのスパイだったんだ!!」

「私たちの前ではいばってるくせに、ドイツには逆らえないんだ!!
 ボリシェビキはドイツの言いなりなのね!!」

「ワシらの孫の代までドイツの奴隷になれというのか!!」

その一方で得られたものもあった。
ロシアは列強の中でいち早く第一次世界大戦から
脱出することに成功し、国内の革命に専念することができた。

またレーニンの予想も当たった。彼は、英米仏に包囲されたドイツは、
長期的には必ず補給が欠乏し敗北するとみており、実際にドイツは戦争には負けた。
戦争中に結ばれた独ソ間の講和条約も無効となり破棄された。

大戦が終わったあともソ連は平和ではなかった。
共産主義革命の自国への波及を恐れた列強各国が干渉戦争を起こしたのだ。
同じ時期にボリシェビキの反対勢力による内乱が発生。
ユデニッチ、ウランゲリ、デニーキンら反革命軍である。

外にも中にも敵がいる。

『我々は常に敵に包囲されている』

血と鉄の混沌の中、抵抗を続けるボリシェビキは最後まで革命を守り切った。

西の国境では強力なポーランド軍が睨みをきかせている。
レニングラードの先にはフィンランド軍が存在する。
トルコ艦隊がソビエト黒海艦隊の出口を塞ぎ、
南部国境のアフガニスタンにはイギリスの戦車部隊が、
極東のシベリアの先では満州の日本陸軍の主力部隊と国境を面する。
ソ連最大の油田地帯、カフカース地方に対して
仏英軍による悪魔的な空爆が計画されたこともあった。

ソ連は常に周囲を敵に囲まれていた。
『干渉戦争』の際は列強各国によって国土が荒らしまわされ、
さらに反乱分子との内戦も継続していた時期だけに
国家は破滅する直前の状態まで落ち詰められていた。
日本もシベリア出兵をし、全ソ連人から凶悪な侵略国家と認識された。

『世界は常にソ連を攻撃しようとしている。
 世界はソ連を地上から消し去ろうとしている』

ソ連人が伝統的に持つ危機意識である。
この危機意識の強さが、のちにソ連の強さとなる。

レーニンからスターリンへと指導者が移行した後、
ソ連はさらなる重工業化を推進した。
そして偉大なるロシア革命の成果を守り続けた。

『二度と我が国土を敵国に蹂躙されないために』

ソ連は軍拡をした。
ソビエトに存在するあらゆる資源と労働者を動員して「五か年計画」を始動。
二度にわたる五か年計画の結果、奇跡に近い工業発展を告げた。
第二次大戦が始まる頃には、工業生産力であのドイツを凌駕するほどになる。

保有戦車は4倍以上。動員可能兵力数でも圧倒。
穀物生産など資源保有量も非にならない。

それでもソビエト軍の最高頭脳たちは先の大戦でドイツの強さを
よく知っていたから、ドイツに勝てるなど夢にも思ってなかった。
ところが結果は違った。

1945年5月9日 対独戦勝記念日。

ヒトラーのドイツ第三帝国。
強大なファシズム国家を撃破するのに
ソ連は2700万人の犠牲を必要とした。

結婚適齢期の男性の7割が死んだ。
兵力不足のため女性兵を多数動員し、
世界初の女子のみで編成された爆撃機連隊も存在した。

ドイツの軍事力撃破にソ連は世界で最大の貢献をした。
世界の支配者となった米英からもそのように認められた。

それは30数年に及ぶロシア革命の成果が、
ついにソビエトを超大国へと推し進めたことを意味していた。


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