「懺悔したいと思って参りました。」
色々と後で知り得た情報を考えあわせると、今更ながらおかしくなります。頓珍漢にもほどがありました。
懺悔したいと、そう神父様に申し出たのでした。今のようになる前のテレジアが通った教会、それから今も伯母さんが通う教会を訪ねて、そこの神父様に向かって要望を伝えた昨年秋の頃です。
アポなしで平日の午前に行きました。教会の中を覗いたらがらんどう、隣にたったビルへ入ると受け付けがいて、神父様にお目にかかれますかと言う。ちょうどいらっしゃるとの事で、階段を掛け降りて来た神父が会議室のような所へ招きいれる。白衣を身にほほ笑むレオ14世ローマ法王の額縁が掛かっています。どうぞと斜交いに席をすすめながら、
「主任司祭の△△です。今日はどのような。」
「はじめまして。お忙しいところありがとうございます。福祉関係の仕事をしております、◇◇と申す者です。」
「はいはい。」
「わたくし、お宅様の信者の方に対して申し訳ない事を致しました。罪ほろぼしと申しますか、懺悔したいと思って参りました。」
「◇◇さんは洗礼を受けておられますか?」
「いいえ。実はわたくし、クリスチャンではありません。今日初めて参りました。」
「なるほどはいはい。」
といったふうに始まって、その日は10分ばかりカウンセリングして頂きました。
△△主任司祭いわく、カトリック教会には“ゆるしの秘跡”があるけれども、懺悔というようなものはない。“ゆるしの秘跡”とは、カトリック信者が神と和解し、また教会と和解することである。よって、通常の場合、洗礼を受けたカトリック信者でなければ、“ゆるしの秘跡”の対象とはならない、と。(←主任司祭が左のごとくに説明したか、自信がありませんゆえ、伯母さんが授けくれた知識で書いております。)
最初の考えだと、わたしは教会堂に磔られたキリスト像のもとへ跪いて、神父立ち合いで自白すれば心の荷がおりる、半年のあいだ重くなる一方だった荷が軽くなるかも知れない、良心が解放されるかもしれない。そういう計画をもって教会の門をたたいたのでした。
カウンセリングの中で、「本人に謝罪しましたか?」の質問を向けられた時、返答に迷いました。はや意思の疎通もかなわず、こちらからの問いかけが分かるかといった段階にあって、本人はうんともすんとも発しない重い認知症である事実を、隠しました。懺悔するつもりでいる間は、洗いざらいしゃべる覚悟だったのに、懺悔も“ゆるしの秘跡”もさせてもらえず、洗礼を受けた者でないと告白を聞いてくれないとなれば、話は別でした。相手が認知症なのだと明かせば、いったい誰のことなのか分かってしまわないか。相手がテレジアだとばれまいか。
答えました。「はい。ご本人には面と向かって謝罪いたしました。」
「それならば問題ないでしょう。する事はした。これ以上、私から言える事はありません。」
わたしは嘘をついたのでもありませんでした。再会してほどなく、面と向かって自分がしたことを言いました。本人も微笑んでいるようでした。
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