(姫君の怯え) 私はその見聞きした事を若殿様が西洞院の御屋形へ御通いになりました時に中御門の姫君と御一しょの所で御話し申し上げました。 「成程、あの沙門はやはり唐の地に行って居ったのじゃな。じゃが如何にして唐土に渡ったのじゃ。唐国に遣(つか)わす大舟は、もう疾うの昔になくなったに。爺、その事は何か云っては居らなんだか。」 「海を渡った法でございますか。それは何も申しては居りませんでした。ただ私には難しい事は解し兼ねますが海を渡る覚悟と申しますよりも沙門は世捨人(よすてびと)になったのではございますまいか。」私は思うた通りの事を若殿様に申し上げました。 「世捨人とな。爺は面白い事を云う。で、なぜそう思うたのじゃ。」 「はい。殿様。以前噂にもあったと存じます。あの沙門は教化を施す時は大天狗のように自信に満ち溢れて居りますが、唐土の地に辿り着いた話といい、荒野を彷徨い歩いた話といい、行き倒れても構わぬ、もうこの世に未練はないと申して居るように私には弱々しく聞こえたのでございます。」 「ほう。予は益々直(じか)に沙門の話を聞いてみとうなった。その四条河原の小屋に出向いて参るか。」 その時でございます。中御門の姫君が透かさず仰有いました。 「何を申されます。殿様、きっと御止め下さいまし。私はあの沙門がとても恐ろしゅうございます。」 中御門の姫君が直ぐに若殿様を御止め下さって私はたいそう安堵致しました。ただ沙門の教化に平太夫が現れた事を申すべきかどうか迷いましたが隠し事の御嫌いな若殿様でございますから私は御話し申し上げたのでございます。 「殿様、姫君、御聞き下さいませ。私の甥が灌頂の儀式とやらを施された事は申し上げたと存じます。その時もそうでございましたが、先日私が摩利の教化を聞きに参った時も何とあの平太夫が来て居ったのでございます。御承知になって居られたでございましょうか。」私は若殿様と姫君を交互に見ながら御話申し上げました。 「成程。何時ぞやも五条の橋であの沙門が平太夫に御身との対面を取り計ってくれと申して居ったはずじゃな。姫。」 若殿様は姫君の肩にやさしく御手を置いて御尋ねになりました。 「はい、さようでございます。嘗(かつ)て申しました通り私は逢う心算は毛頭ございませんでしたから私の袿を持てば遇ったことになるでしょう。と云って返しました。」 「そうじゃったな。してその後、平太夫は御身に何も云っては来なんだか。それとあの沙門の教化を聞きに行くと申しては居らなんだか。」 今度は若殿様が御両手で姫君の御手を包むように御握りになりながら御尋ねになりました。 「はい。私は兎に角あの沙門が恐ろしゅうございますから。それからは何も聞いて居りませんし平太夫が何処に出掛けるのか聞いた事も問うた事もございません。」 姫君はあの沙門が余程御嫌いで名前すら云いたくも聞きたくもないといった御容子で若殿様の御手を握り返して居られたのでございます。 私はその時にこれから如何したものかと思案の挙句、若殿様に申し上げました。 「殿様。姫君もこのように怯えて居られます。殿様自らあの沙門に御逢いなさるのは御遠慮して頂きたく存じます。さりとて今のままでは何の進展もなく日が経(ふ)るに従って益々摩利の教の信者が増えてしまうに相違ございません。また庚申待の夜も近づいて参りましたので今日の話を非人小屋の甥に投げ文を致して居き、その返事次第で事の顛末を御考え頂くと云う算段に致すのは如何でございましょうか。」私は深々と頭を下げました所、姫君も頷きながら若殿様の御涼しい眼を見つめ御手を強く握って居られました。 「御意。爺の云う通りに致そう。庚申待の夜には爺の甥も予によき返事を持たらせてくれるであろう。」 若殿様も私の話に御納得された御容子でございましたから事の仔細が間違いなく伝わるように記した文を私は忍んで四条河原へ行き甥の小屋に投げ込んで来たのでございます。
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