(摩利の教化) それから年も明け春色にわかに増しました頃でございましょう。巷(ちまた)の風聞に聞き及び益々摩利の教の信者が増え遂に帝(みかど)の御耳に聞こし召すまでになったのでございます。ある日、若殿様が清涼殿から御戻りになった時の事でございます。 「爺、帝が小蔀(こじとみ)より予に御心を宣(のたま)われた。近頃何やら怪しげな教が流行りよるらしい。其方(そち)はそれを知りよるか。とな。」 「殿様は何と仰有ったのでございますか。」私と致しましては、摩利の教などと云う怪しげなものは消え失せて欲しいと願うばかりでございました。 「予は阿弥陀堂の供養の事と摩利信乃法師が四条河原の小屋に住んで居る事とを申し上げただけじゃ。」 「それで帝は何と仰せになりましたか。」 「便なき事あらばその沙汰は其方に預ける。と宣旨(せんじ)を賜(たまわ)った。」 私はそう仰有った若殿様の御顔を見て覚悟を御決めになったように存じました。 「爺、道理ならば予が自らあの沙門の教化を聞くがよいが、これ程人が多くばそうもいくまい。ならば爺が聞きに行ってはくれまいか。」 「成程さようでございますな。殿様御自身を行かせる訳には参りませぬ。この爺めが行って参りましょう。」 私は早速、次の日の夜明け前に御屋形を出立したのでございます。そして若殿様の御言葉を甥の小屋に投げ文をした後、また河原蓬に身を隠して辺りの容子を窺って居りました。しばらく致しますとまたもや「しゃんしゃん」という音が聞こえ強い香の器物と女菩薩の幢を持った摩利信乃法師が姿を見せて、それと共に甥を含めた者たちが小屋から出て参ったのでございます。その日も四条河原を西へ向かい何処からともなく人が集まって来ますと沙門の後に続き、西洞院を折れて上がった二条辺りで何とあの平太夫が夥しい人だかりに混じったのです。それからさらに上がった後、西へ行った先にある船岡(ふなおか)の麓の磐でようやく沙門は立ち止まり香の器物は小屋住まいの一人に持たせて女菩薩の幢を立て人だかりの方に向き直りました。 そうして沙門が摩利の教化を施し始めたのでございます。ただ私には解し兼ねることばかりでございましたが、成るべく聞きました通り御話し申し上げたいと存じます。 先ず天上皇帝が世の初めに造った天地(あめつち)を光照らし草木や動物、鳥、魚といった生き物、そして自らをかたどって人間をこしらえたのだそうでございます。またこの話には私も納得致しましたが、人間どもが数々の過ちを犯し天上皇帝を怒らせてしまったのだと申して居りました。そして長らくの間大雨を降らせたり、疫病を流行らせたり、大火事を起こしたりと人々に神罰を与えたのだそうでございます。ただ私には到底信じられませんでしたが、日の本に住む私たちと唐人たちの言葉が違うのも神罰の類だったのだそうでございます。その後、摩利信乃法師がこう申しました。 「そして唯一不二(ふじ)の大御神(おおみかみ)である天上皇帝の御子として救い主が生まれたのじゃ。その御母君がこの摩利亜様じゃ。この御顔をとくと拝むがよい。何と御美しい。荘厳の輝きじゃ」 しばらくの間、沙門は眼に涙さえ浮かべながら女菩薩をじっと見つめて居りました。そして更にこうも申して居りました。最初の男と女が天上皇帝の教えに背いたため元来人間は生まれながらにして罪を背負って居るのだとかいう事でございました。しかし唯一救い主の母君だけはその罪を免れて居るがゆえに誠に美しく光り輝いているのはそのためだそうでございます。 また別の日にはこのような事もございました。 「今日はわしが如何にして摩利の御教えを給わったのか。なぜに摩利信乃法師となったのかを申し伝えたいと思う。」 そう申して沙門が今までの経緯(いきさつ)を語り始めたのでございます。 「わしは仔細あって唐土の地に辿り着いたのじゃが、行く当てもなく四十日間荒野を彷徨い歩き精も根も尽き果てた時に紅毛碧眼(こうもうへきがん)の胡僧(こそう)に助けられ天上皇帝の御教しえを聴聞したのじゃ。それこそが摩利の御教えであり、そして教化を施すためにわしは日の本に戻って来たのじゃ。よいか皆の者唯一の天上皇帝を信ぜずば必ずや禍が起き、阿弥陀如来なんぞと申す天魔外道の類の信仰を捨てねばやがて命終の期に臨んで、永劫消えぬ地獄の火に焼かれるに相違ないぞよ。」 それを黙して聞いていた衆者たちの中には合掌する者やひれ伏す者、涙を流す者さえもあり、数人があの怪しげな歌を唄い出しのでございます。
|
|