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作品名:邪宗門あれから 作者:村瀬"Happy"明弘

最終回   女菩薩の幢
(女菩薩の幢)
 
 それからもうすっかり暮夜の事でございます。雁ではなく門の方から矢庭に大きく叫ぶ声と「どた、どた」と床が波打つ程屋形中に響き渡る音が聞こえて来たではございませんか。
 「殿様。大事です。大事にございます。門を閉めてください。出入りを塞いで下さい。」
見ればそこには髪を振り乱し濡れ鼠になった甥の姿がございました。
「如何致したのじゃ。ずぶ濡れではないか。」私は驚きと先程覚えた胸騒ぎはこれに違いないと直ぐに思うたのでございます。
「ああ、申し訳ございません。一大事です。」
息も絶え絶えに口だけは魚があぎとうように甥はやっとこれだけ申しました。
「おい、こりゃ御主は何を慌てて居るのじゃ。落ち着いて話してみよ」甥のただならぬ容子を見て私自身も慌てて申したに違いございません。
「まあ二人とも落ち着くのじゃ。確かに召し物が濡れて居るな。拭うものを持って来てやってくれぬか。」
若殿様は女房たちに穏やかに仰有いました。
「して、どうしたのじゃ。慌てずともよい。如何致したか申してみよ。」
若殿様は私と甥に御向きになり交互に御顔を傾けながら仰有いました。
「はい。しかし先ず門を閉めて出入りを塞いで下さい。」
なぜか屋形に来てからしきりに戸締りの事を申す甥を私は不思議な面持ちで眺めて居りました事でございましょう。
「御意。皆の者。出入りを検(あらた)めよ。」
透かさず若殿様が仰有いました。そして若殿様に御酒を注いで頂いた甥はようやく落ち着きを取り戻して行ったようでございます。
「それでは申し上げます。今日の朝方の事です。また平太夫が沙門の小屋に現れたのです。」
私は甥とは逆にとても落ち着いて居られませんでしたが、その話の続きを聞くほか出来る事はございません。
「いつものように洛中に沙門が摩利の教化を施しに行く時でした。いつもと違ったのは始めから平太夫が付いて来た事です。教化に赴く間も沙門と平太夫は何やら話をして居りましたが、先日殿様が御見えになってからどうやら沙門は私を避けているようで仕方なく後ろに下がっていたものですから私には何も聞こえなかったのです。」
確かに若殿様の御内だと知った沙門が甥を遠ざけたのは無理もない事だと私は思いました。
「それから四条河原の小屋に戻り、また二人で話をして居りましたので私は気になって仕方がありませんでしたから傍まで近付いて聞いていると今から平太夫に灌頂の儀式を施してそのまま姫君に逢いに行くと云うではありませんか。」
私はその話を聞いてまた叫んでしまったのでございます。
「何とした事じゃ。まさかここに向かって居るのではなかろうな。」しかも私は甥ではなく若殿様と姫君に向かって嘆いて居りました。
「解かりません。まあ聞いてください。確かにあの沙門と平太夫はこの巨椋の入り江まで来たのです。」
それを御聞きになられて姫君は若殿様に縋(すが)り付いて居られたのでございますが、甥はそのまま話を続けました。
「そうして先ず沙門が平太夫に灌頂の儀式を施しその後、用意していたのでしょう。篝火(かがりび)を灯した舟を漕ぎ出しました。私は如何したものかと辺りを見渡しますと一艘の小舟を見付けましたので極力音を立てぬように跡を追って漕ぎました。すると池の真中で舟が大きく揺れ何か叫び声が聞こえたかと思いますと篝火が倒れた途端に平太夫が沙門を抱えるように二人して池に落ちたのです。」
「して。どうしたのじゃ。」
さすがに若殿様も唯事ではないとたいそう驚かれたのでございましょう。思わず御声を御上げになりました。
「はい。私も何が起きたのか解りませんでしたから兎に角残った微かな篝火を頼りに舟を漕いで行ったのです。しかし沙門も平太夫も姿が見当たりません。まだゆらゆらと揺れている舟と黒い水面に種々の泡が浮いているばかりでした。ただ沙門と平太夫が泳いでこの屋形に来る事も考えられますから私は急いで舟を漕ぎ、岸の間近から舟を降りて浅瀬を走って来たのです。」
そう云った次第で私は甥が濡れ鼠で慌てていた訳が解かりました。しかしこの後、沙門と平太夫が現れないとも限りません。
「よいか皆の者。重ねて申す。出入りを検めよ。」
若殿様がもう一度仰有いました。
 それから私と甥、雑色(ぞうしき)たちも出入り口を固めて見張って居りましたが沙門も平太夫も現れる気色はなく、とうとうそのまま朝を迎えたのでございます。
 そして池の真中に静かに佇むように浮かんだ舟を私と甥が屋形の岸まで曳いて来たのでございます。
 「残ったのはこれだけか。」
若殿様がそっとその舟から女菩薩の幢を御取りになって旭光(きょっこう)に翳(かざ)して仰有いました。
「成程。あの沙門も平太夫も思うたのであろう。御身によく似て居る。」
「御止め下さいまし。殿様。」
 
 その後、摩利信乃法師も平太夫もその姿を見た者は誰一人なかったそうでございます。また女菩薩の幢は太秦にある社に納められ、三柱(みはしら)の鳥居が建てられたのでございます。

(完)


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