(巨椋の入江) その後、若殿様は巨椋(おほくら)の入り江の別殿で中御門の姫君と御過ごしになりましたが、あの日以来、私はもう片時も若殿様の御傍を離れまいと固く決めて居りました。勿論、姫君に先日沙門と正対なされた事を若殿様が仰有ったのは云うまでもございますまい。 「まあ何と恐ろしい。殿様にもしもの事があればどう致しましょう。そうならば私はもう生きて居られません。」 それを御聞きになり夕景に蒼ざめた御顔の姫君は尚の事御美しく若殿様の御手を強く御握りになりました。 「もうよい。もうよい。予はあの沙門の小屋の前まで行き少々話をしたまでじゃ。そう怯えずとも予は沙門の顔すら見て居らぬ。」 若殿様は爽やかに微笑んで姫君に握られた御手を一度ほどいてから優しく右手を肩に置き、左手でそっと包むように重ねた姫君の両手に添えられたのでございます。 「殿様。あの方とはもう二度と逢わぬときっと御約束下さいまし。」 「解かって居る。心配には及ばぬ。彼奴にその心算がないじゃによって予が逢う事はもはやなかろう。それより平太夫が御身と沙門が逢う算段をして居ると申すではないか。平太夫からその話を聞いては居らぬか。」 若殿様は姫君の御顔を窺いながら仰有いました。 「はい。私はここしばらく平太夫とは話どころか姿すら見て居りません。」 「さようか。姿も見ては居らぬか。甥の話では沙門が姫に逢う算段を立てると平太夫が申して居ったはずじゃな。爺。」 「殿様の仰有る通りでございます。確かに甥が申して居りました。」若殿様にそう申し上げた時に私はなぜか妙な胸騒ぎを覚えたのでございます。 やがて辺りは暮れ始めましたが、若殿様も姫君、女房たちも敢えて沙門の事に触れまいとしていたのでございましょう。巨椋の池でざわざわと鳴り響いている雁(かり)が伏見の方角に飛び立って行く姿を眺めながら若殿様が一首詠じなさりました。 巨椋の入江響むなり射目人(いめひと)の伏見が田居に雁わたるらし
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