20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:邪宗門あれから 作者:村瀬"Happy"明弘

第10回   沙門との正対
(沙門との正対)
 
 その夜は少し冷たい風が吹き空を流れる雲の隙間から時折弓張月(ゆみはりづき)が足元を僅かに照らすと云った私どもの心もちそのままで往来する者は居りませんが、先を行く甥の跡を若殿様と私は漫(すず)ろ歩くように見えた事でございましょう。
 非人小屋に着いた甥は沙門の小屋を指差し音を立てぬように自分の小屋に入って行きました。若殿様と私はしばらくの間、沙門の小屋の前に立ち尽くして居りましたが、若殿様が二三歩前に御出になられてその場に御座りになったのでございます。辺りはしんと静まり返って私は如何したものかと思案して居りましたが、若殿様の後ろに太刀の柄を握り跪きました。それからの間、私には長くもあり短くもある妙な心もちでございました。そうして居りました所、沙門の小屋からまるで地獄の底から罪人がつく僅かな嘆息(たんそく)のように心細くそれでいて重々しい声が聞こえて来たのでございます。
 「何用じゃ。」
どう云う訳か摩利信乃法師は若殿様が小屋の前に御座りになって居られると解かったようでございます。
「予はちと御主と話してみとうなって来たまでじゃ。」
若殿様は正面を向いたまま厳かにそう仰有いました。
「わしはその方と話しよる心算はない。」
「遅くなってしもうたが、予は摩利の教えとやらを聞きに来たのじゃ。」
またそう仰有った若殿様は姿勢を崩す御容子は全くございません。
「その方に教化を施す心算はない。その方の御内(みうち)の者であろうそこの小屋に住まわる若侍には施しておるが。」
その言葉に私はたいそう驚いたのでございます。始めから沙門は甥の素性を知っていたのでございましょうか。それとも後に気付いたのでございましょうか。しかし私にそれを知る術が解かるはずもございません。
「有無。それを知りおいても尚(なお)、御主はここの小屋に住まわしたのじゃな。」
若殿様は一切心乱す事ない御容子で仰有いました。
「わしは誰彼にかかわりなく教化を施す摩利信乃法師じゃ。ただその方だけは違うのじゃ。中御門の姫君を伴って来た訳でもなかろう。」
沙門の言葉に僅かばかり身を乗り出した若殿様でございましたが、直ぐに元の姿勢に御戻りになりました。
「それはなぜじゃ。なぜ予だけは違うと云うのじゃ」
若殿様がそう御聞きになっても沙門の小屋からもう何も聞こえて来なくなってしまい、小屋がくら暗からぼんやり浮き上って加茂川の微かな川音が聞こえるばかりでございました。それでも若殿様はじっとその場に御座りになって居られましたが、次第に東の空が白み始めて来たのでございます。
 その移り変わる気色に応じて水鳥たちが二羽三羽と徐々に騒がしくなり、ようやく御立ち上がりになった若殿様は少し悲しそうな御顔をなさりながら御歩きになり始めました。その跡を私は付いて参るしかございませんでしたが、振り返りますと甥が小屋の前でこちらを向いて頭を下げる姿が見えて居りました。
「殿様。あの沙門が雅平様とするならば、未だ中御門の姫君に恋をされているのではございますまいか。」とぼとぼ歩きながら私が若殿様に申し上げますとこう仰有いました。
「恋。恋か。いや爺。あの沙門は恋と申すより乞(こい)じゃ。」


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 108