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作品名:邪宗門あれから 作者:村瀬"Happy"明弘

第1回   堀川の若殿様登場
邪宗門あれから

              (堀川の若殿様登場)
 
 堀川の若殿様の御生涯でたった一度の不思議な出来事の御話しの途中でございましたが、あれから随分と時が流れてしまいました。それでは、長尾(ながお)の律師(りっし)様が嵯峨(さが)に阿弥陀堂を御建てになってその供養をなすった時に摩利信乃(まりしの)法師(ほうし)の前に悠然と御庭へ御下りになりました若殿様の御話しの続きを致そうかと存じて居ります。
 その若殿様の御姿は眩(まばゆ)いくらい厳(おごそ)かだったのでございます。
 「応。久しいのう。」
その声に応じて徐(おもむろ)に摩利信乃法師が若殿様に向くなり申しました。
「その方は堀川の若殿と見受ける。じゃがわしは久しいとは思うて居らぬ。その方も見て居ったであろう。摩利の法門へ帰依しようと思(おぼ)立(した)たれずばそれも話は別じゃが」と十文字の護符をさしかざしながら、今度は大天狗のような形相で更に声も荒らかに呼ばわりました。その時の私(わたくし)の心もちと申しましたら、若殿様にもしもの事がございませぬよう命に代えても御守り致す覚悟を決めて居りました。
「待て。待て。予もその摩利の教とやらへ帰依して欲しくば、次第によってはならぬものでもないが、今日は長尾の僧都の阿弥陀堂供養と云う目出たき式じゃ。その方は久しゅうはないとは思うて居るかも知れぬ。じゃがここは予に免じて退散してはもらえまいか。いずれは予もその方の法門を聞きたいと思うて居るによって。」
その落ち着き払った若殿様の御言葉に私も固唾を呑んで居りました所、摩利信乃法師は女(にょ)菩薩(ぼさつ)の旗竿(はたざお)を掲げて罵(ののし)る声がいかめしく響き渡りました。
「その方は臆したようじゃ。横川(よかわ)の僧都(そうず)のようになりたくなくば今すぐ天上皇帝の神勅を賜わって灌頂(かんちょう)の儀式を受けよ。」
摩利信乃法師は若殿様が臆したと申しましたが、逆に御口元にちらりと御微笑を御浮べになりながら、あの大殿様の御威光が御移りになったように私には頼もしく思われた事でございましょう。
「横川の僧都は、老僧なれば悄(しお)たのじゃ。その方もそう誇らしげに胸を反らせても本望ではあるまい。また予は験(げん)比(くら)べ出来る程の法力は持たぬよって、この場に居る以上の者を予の屋形に集めるゆえここで魔術を奉じるより利があると申せぬか。よってこのまま退散してはくれまいか。それが予の望みじゃ。」
「その手には乗らぬわ。さあ今この場において灌頂の儀式を受けるか、さもなくば今一度天上皇帝の御威徳(ごいとく)を見せようぞ。」
その沙門は若殿様の御言葉には耳を貸さず傲(ごう)然(ぜん)と皆の方を睨(にら)めまわして申しました。
「如何にしても予の願いを聞き入れてはもらえぬか。今この場であのような所業で皆に恐れをなして摩利の教へ帰依させるより多勢にとくと聞かせるがその方も本望ではあるまいか。」
若殿様はそう悠然と御答えになりましたが摩利信乃法師は益々いきり立って若殿様を睨みつけたのでございます。
「くどい。さもあらば天上皇帝の御威徳を見るがよい。」
私も御庭をめぐっていた人々も若殿様と沙門を交互に眺める以外に出来る事はもはやございませんでした。そして沙門はまた十文字の護符を額に当てながら鋭い声で叫びましたが、若殿様が透かさず申されました。
「よいか皆の者。目を閉じて耳を塞ぎ頭(かしら)を下げ伏すのじゃ。」
私どもは若殿様の御言葉を聞くよりほか術(すべ)はございませんでしたから目を閉じ両耳を両手で塞ぎその場に額を地に擦り付けて出来る限り低く伏せたのでございます。しばらくの間、私には凄まじい音と風や眩い雷と思しきものと栴檀沈(せんだんちん)水(すい)の香(かおり)が消える程今まで嗅いだ事のない刺激が強い煙(けぶり)を感じましたが、目を閉じ耳を塞いで居りましたから見聞き出来るはずもございません。唯々身震いするばかりでございました。如何ほどの時が経ったのでございましょうか。私は耳は塞いだまま少し頭を上げ恐る恐る薄目で辺りを見渡したのでございます。すると沙門の姿はなく目を閉じ俯(うつむ)き加減に坐す若殿様の御姿が見えた途端に私は這(は)い蹲(つくば)って駆け寄りました。
「殿様。御大事はございませんか。」
「大事ない。」
その御言葉に私は心底安堵致しましたが。余りの恐ろしさに先程の若殿様を命に代えても御守り致す覚悟を何処(どこ)かに忘れていた事を思い出し恥ずかしく存じました。
「殿様。一体何があったのでございますか。あの沙門の姿も見当たりませぬが。」
「いや予にも解からぬ。予も目を閉じ耳を塞ぎ居ったに何が起こったのか解からぬ。」
「ならばなぜ、殿様は目を閉じ耳を塞ぎ伏せよと仰(おっ)有(しゃ)ったのでございますか。」私がこう御尋ね致しますと若殿様は少し照れを御隠しになりながら仰せになったのでございます。
「恐ろしいと思い見るから恐ろしく見え、恐ろしいと思い聞くから恐ろしく聞こえるのじゃ。されば始めから見ず聞かずがよかろう。そして女菩薩の旗竿など振り回されては難儀じゃによって念のために伏せよと申したまでじゃ。」


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