正直に言えば、わたしは自分の目の前に立つこの疲れきった惨めな男をどうしていいか分からない。 わたしもまたかなり疲れていた。 一体、どのくらいこの男を尋問していたのだろう? だが、この男には今のところ何の罪も見出せなかった。
「名前は、何と言うのだ?」わたしは最初に男にそう尋ねた。 「ナザレのイエスです」男は静かに答えた。 確かに見た目はかなり惨めそうだが、男の顔はそうではなかった。 特にその目はリンとしていて鋭く、それでいて落ち着いていてどこかその意思の強さが伺えた。 しかも、何だか妙に挑戦的だった。だから何となくそこにいけ好かなさを感じたのも正直な気持ちだった。 「で、お前は一体、何をやったのだ?」 「・・・」男は何も答えなかった。 口を開いて今さら、説明する必要もないと言わんばかりにその顔を上げただけだった。 わたしは何だか、男から逆に責められているような気がして、その顔から目を背けた。 「今朝、お前を連れてきたお前と同じ仲間のユダヤ人共はお前を磔にしろと言ってきている。何でもお前が自分はユダヤ人の王だとか何とかほざいたからだそうだ」 その時のことが頭に浮かんできてわたしは苦笑した。
馬鹿馬鹿しい。奴らは何で、ああも頭がいかれてるんだ? ここに総督として赴任してきて以来、奴らが起こす紛争って言うのはこんなくだらないことばかりだ。 しかも、あのユダヤ教の坊主共は何かと面倒を起こしたがる。 それもこれもサンヘドリン(長老会)とか何とか言う、あの頭の固い連中がやらしていることだ。 奴らはいつまでも古臭い律法書やら伝統儀式やらを引っ張り出してきては何かと文句をつけてくる。
今朝だってそうだ。 朝っぱらから大勢でやって来て人をたたき起こした挙句、 「ペサハ(過ぎ越しの祭り)の前は“|穢《けが》れている”異教徒のローマ人の屋敷には入れない」とか何とか言い出した。 そうまでしてわたしを玄関の前まで引っ張り出そうとするから何事かと思えば、寺で連中に向かって説教しただけの男を連れてきてすぐに|磔《はりつけ》にしろ、などと言う。
「この男の罪状は一体、何なのだ?」とこっちが尋ねても、坊主も長老の連中も、ただ口さがなく男を罵倒するだけで何の罪かさっぱり要領を得ない。 「サンヘドリンの法で判決が出てるんならそっちで解決したらいいだろう。わたしにはその男を裁く理由がない」面倒臭くなってそう言ってやった。
ユダヤ人の寺の中で論争が起きたぐらいで何をわざわざローマ法を引っ張り出すほどのことがあろうか。それでなくともこっちは勝手な連中を取り締まるのに忙しいと言うのに。 それも元々は奴らのせいじゃないか。
何がこのユダヤはヘロデ大王が再建したエルサレム神殿を抱く聖なる土地だ? この国を全部、見渡してみるがいい。
私が住むカエサリア・パレスティナ(現在のテルアビブの近く)だって、実際には盗人と殺し屋がうろつきまわり、地元役人は賄賂で買収されているようないい加減な港街じゃないか。 わたしが来る前からひどい有様だったのに、何を今さらローマ兵が来たせいで治安が悪くなったと言えるんだ? あの街を見るだけでも十分だ。あっちこっちに、盲だ、片足だ、と出任せを言っては人から金をせしめようとする物乞いが出没し、欲の皮の突っ張ったギリシャ商人とこれまた同じユダヤ商人とが街と地中海交易の利権を我先にと奪い合う。 一方でそんな|擦《す》れた連中ばかりが街にあふれ返っているのを見て見ぬ振りしながら、自分達はラビ、ラビ(先生)と称されて|賽銭《さいせん》を懐に入れ、寺でただ、ふんぞり返っているだけじゃないか。 どっちの方が“|穢《けが》れて”いるんだか・・・。
それに、そういった連中を何とか近代都市並の分別あるローマ市民にしてくれと泣きついてきたのは、一体、どっちの方なんだ? これまたユダヤ人のヘロデの方じゃないか。 全く訳のわからん連中だ。 年がら年中、ファリサイ派だ、サドカイ派だ、エッセネ派だ、と自分達ユダヤ人同士で争いごとばかり起こしては血を流し合う。 今日、連れてきた男もどうせそんなつまらんケンカの一つに過ぎんだろうに。
そんなことをあれこれ考えているうちにわたしは無性に腹が立ってきた。 大体、わたしにこの男の何を問いただせ、と言うのだ? 何もないじゃないか。 ユダヤ人達のくだらない言いがかりは何も今日に始まった事じゃない。 だが、奴らはますます図に乗ってこんなくだらない論争までこのポンテオ・ピラトに振ってくるとは。馬鹿にするにも程がある。 だから、何とか奴らをギャフンと言わせてやりたいが・・・。
そうは言っても、また下手に放っておいたりすると、この前の時と同じようにうだうだ言い出して突然、|蜂起《ほうき》してくるに決まっている。 こっちがローマに頭が上がらないことを知っていてそれを逆手に取って攻撃してくるような連中だ。 こいつは慎重に事を進めておかないと、こっちの首がますます危なくなるというものだ。
この前の時というのは、それまでに二度ほどピラトはユダヤ人達といざこざを起こしていた。 一度目はローマの紋章をエルサレムに持ち込んだ時のことだった。 ローマ兵達には一応、ユダヤ教の狂信者が多いからと言い聞かせ、夜の間に皇帝の絵のついた紋章をエルサレムに持ち込ませたのだが、案の定、ユダヤ人達はそれを嗅ぎつけた。 「聖なる神の町にローマ皇帝の紋章を掲げるとは!」と興奮したユダヤ人達がカエサリアにいるピラトのところに大勢、抗議に詰め掛けた。 最初、ピラトは大した事でもないだろうと思って放っておいた。 そのうち、ここで自分が出て行っていい顔を見せたら、ユダヤ人達が図に乗るだろうとわざと法廷に姿を現さなかった。 だが、その抗議があまりにも長く続くので、とうとう6日目にピラトは表に出ざるを得なくなった。 そこで彼はちょいとユダヤ人達を脅してやろうと、処刑の話をちらつかせて見た。 ところが、それを聞くとますます興奮したユダヤ人達は服を引っ張って首の部分を露出させ、「さぁ、やれるもんなら、この首をはねてみろ」と逆にピラトを脅す始末だった。
二度目の時は、ピラトの方もちょっと下手に出てみた。 亡きヘロデ大王の息子で、今ではローマ属州地ガリレーを統括するテトラーク(属州知事)のヘロデ・アンティパスに|金箔《きんぱく》の盾をいくつか贈ってやった。 ユダヤ人の長(リーダー)にローマ帝国皇帝からの贈り物でも贈っておけば、祭りを名目に何かと治安を乱したがるユダヤ人達を強く取り締まってくれるだろうと計算してのことだった。 もちろん、贈り主としてその盾にローマ皇帝ティベリウスと自分の名前も一緒に刻んでおいた。 ところが、それにまたユダヤ教徒達は反発してきた。 「盾に刻んである、異教徒達の名前を取り除け」と文句を言ってきたのである。 こうなればピラトの方も意地になった。そこで彼はすぐさまこれを拒否したが、今度はユダヤ人達の方がピラトを脅してきた。 彼らは直接、皇帝ティベリウスにこのことを訴え、結局、ティベリウスはピラトに自分達の名前を盾から削るように命じてきた。 それでなくても治安の悪い地中海沿岸地域に冷や冷やしているティベリウスは、何かと問題を起こされるのを嫌がっているようだった。 しかも、ヘロデ・アンティパスには何くれとなく目をかけている皇帝にとって、ユダヤとのいざこざを深めさせているのはどちらかといえばピラトの方ではないだろうかと疑っているようだった。
もちろん、ピラトにしてみれば面白くない。
ローマから地中海沿岸地域でも一番その治安が問題となっているこのユダの地に送り込まれ、孤軍奮闘していると言うのに、全くその成果を認めてもらっていないような気がしたからだった。 しかし、ピラトがユダヤ総督に就任できたのはそれなりにその仕事の腕をティベリウスに見込まれてのことでもあった。 だから、皇帝ティベリウスの下、少しでもこのパックス・ロマーナ(ローマ帝国における平和)を維持していこうと、彼なりに努力するつもりだった。 また、それをしていた。 だが、彼がすることは今のところ、ことごとく裏目に出ていた。
「で、お前は本当にユダヤ人達の王なのか?」 わたしは問題をこじらせまいと、本当はせせら笑いたくなるような気持ちを抑えてわざと真面目な顔つきをして男に尋ねた。 「はい。あなたがそうおっしゃるのならそうなんでしょう」 そんなわたしの気持ちを見透かしているのか、男は目元に微笑さえにじませながら軽く冗談を返すようにして答えた。 わたしはその余裕のある態度に一瞬、ひるんだ。
この男はいつものユダヤ人達とは違う。 自分が訴えられているのにそんなことを気にしている様子もない。 まるで当たり前だと言わんばかりにここに立っている。その割には少しも悪びれたところもない。 変な奴だ。 何だか気味が悪くなってわたしは男をそれ以上、問い詰める気にならなくなった。 仕方なしにこれまでの経緯を訴えている方の当のユダヤ人達に話をしに行くことにした。 「あの男は一体、どんな罪だと言うのだ?どう尋問しても何も出てこないじゃないか。こっちには該当する罪状はないから、そっちで何とか処理してくれないか?」 わたしはとりあえずユダヤ人達をなだめるつもりでそう頼んだ。 しかし、詰め掛けたユダヤ人達の多くは納得していないのか眉間に皺を寄せたまま、その中の一人がすぐさま言い返してきた。 「あの男に罪がないなら、こっちもわざわざ連れてくるわけはない。 あいつは散々、私達をなぶり者にした挙句、私達の神殿で勝手に嘘の説法を行い、自分は神から遣わされたのだ、とまで言い出し始めた。 最初のうちはどうせ悪霊にでもとり|憑《つ》かれたんだろう、可哀想に、と思って放っておいたらますますいい気になって人を集めだし、神殿の前の出店を壊すわ、神殿への供物にまで手を出すようになった。しかも、徴税人が行くと、自分は神の国に属しているのだから、ローマに税金を払う必要はないとまで言う。それと言うのも、自分はメシア(救い主)で神の息子であり、私達ユダヤ人の王なのだから、とまで言ってのけたのだ。 これを黙って見過ごしていたら、私達の地域の統合性というものが、脅かされる。これでは秩序も何もあったものじゃない」 サンヘドリンの一人が力んでそう言い終わると、他のユダヤ人達もこぞって、そうだ、そうだと口を揃え、これに同調した。
何を言ってるんだ。 わたしは内心、彼らの勝手な論法にあきれ果てていた。 自分達だってローマに税金を払うのにブーブー言っているくせに。
何を今さらそれを持ち出してくる必要があると言うのだ。 何かと言えば、説法に事寄せて徴税役人達を“|穢《けが》れている”として寺で吹聴してまわり、それに感化されたユダヤ教の信者共がその役人達を裏で妨害していることをこっちが知らないとでも思っているのだろうか? 全く、勝手な奴らだ。内心では|反吐《へど》が出そうな気分だったが、黙ってそれまでのいきさつに耳を傾けるしかなかった。
「では、サンヘドリンではあの男はそれについてどう証言したのだ?」 わたしはこの、訳の分からない審判について何か解決する糸口はないものかと突拍子もなくそう尋ねた。 「最初は何も答えなかった。それまで我々のいない場所では散々、いろいろなことを言っておきながら、いざとなると急に押し黙ったままだった。それでこっちはいろいろとあの男がこれまで言ってきたことを面と向かって繰り返してやった。 例えば、人の手で作った今の神殿を壊して、別の神殿を3日で作ってやるなんて大嘘を言ったとか。 そう言われてもあの男は何も反論しなかった。ところが、大僧正のカイアファ様が直接、男に向かって『お前はメシアか?神から祝福された一人か?』とお尋ねになった。 すると、あの男はキッとなって『そうだ、と言ったらあなたはどうする?わたしが寺でそれを言って説法している時は誰も捕らえようとしなかったくせに、今さらわたしを捕らえてどうしようというのだ?わたしは影で何かを言った覚えはないし、正直に本当のことを話したまでだ。彼らがそう聞いたんなら、そうなんだろう』などと大僧正様に向かって罵ったのだ。 しかも、それを聞いた寺の警備人が男の無礼を怒ってその頬を叩くと、あの男は『何をわたしが間違ったことを言ったと言うのだ?もし、わたしが間違っているのならそう言えばいい。なぜ、わたしの頬を叩く必要がある?』と、逆にこちらを責めて口答えしてきた。だから、我々みんな、あの男をこのまま放っておいたら危険だと思い、大僧正カイアファ様も、そのお|義父上《ちちうえ》のアンナス様も、そして我々、サンヘドリンの一同も全員があの男を処刑することに同意したのだ」 さっきとは別の僧侶の一人がそれまでの一部始終をこう説明した。 「だが、ローマ法ではあの男を裁くことはできない。なぜなら、起訴する理由さえ見当たらないのだから」わたしはさっきと同じことを彼らに言った。
だが、ユダヤ人達はなおも食い下がってきた。 「あなたもご存知の通り、私達には誰かを処刑することが許されていない。 だが、ローマ法ではそれが許される」
それを聞いて、わたしはこれほどまでにこの僧侶達の憎悪を買ったあの男の度胸に舌を巻いた。 それと同時に、あの男の意図がよく分からず、いっそう不気味に思えた。
このいかれた僧侶達と事を構えて一体、何をやらかそうと言うのだ? しかし、さっき見たあの男の目にはこの僧侶達のようなドロドロしたものは何も感じなかった。 どちらかと言うと、どこか夢見がちな、そう、何だか現実とは違う別の世界をさまよっているような、そんな風情をかもし出していた。 だが、それでも分別というものがあの男にもあるのなら、自分が置かれている状況ぐらいは判断がつくだろうに・・・。 何をわざわざ自分と同じユダヤ人、しかもこれほどまでに大きな組織と権威を誇るサンヘドリンの一派と言い争う必要があるのだろう? それほどまでにあの男を駆り立てているものとは一体、何なのだろう?
わたしは|怪訝《けげん》に思いながら今、僧侶達から聞いたことをもう一度、男に確かめてみようと中に戻った。
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