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作品名:彼岸花 作者:悠々

最終回   1970年それから
 僕は嵐電に乗っていた。大きな、大きな憂鬱を持って乗っていた。ガタゴト、ガタゴト、電車が慟哭するようにいく。哀しみを引っ張りだすように、僕も泣いてみた。役者のように泣いてみた。不審者! 人々の眼差しはそう言っていた。君たちのほうがよっぽど不審者だよ。僕は言ってみた。誰も何も言わなかった。そのかわり、電車が大きく曲がった。僕は人々よりも電車の揺れが怖かった。
 どろどろとしたものがこみ上げてきた。熱病、ーー 僕は熱病そのものだった。だからキリギリスのように歩き、河童のようにさ迷っていた。
バーチャルな世界で、彼岸花が真っ赤な嘘のように咲いた。どんぐりがお道化るように転がった。何が始まった? 僕のアクションさえ、そうだ。ちょっと異なるところで、事象は具象にならない、こそばゆい感覚に似ている。目に見えないところに真実、さぐりあてることの出来ない真実、無音、無味無臭の真実、五感で認識出来ない真実なのだ。
 この町は何という町? 撮影所の町だ。神尾が過ごした町だ。嵐電を降りると、電車の音が寒空に木魂(こだま)して聞こえてくる。その音は悲しく響く。すべてを明白にしていく。
美沙、神尾がいなくなってから心に空洞ができてしまった。三枚の羽根、それが一枚だけになった。何にも出来ない。トライアングルが崩れた。心にぽっかりと空いた穴、埋めようがなかった。
「死んで花実が咲く」
「今は前世、そして来世」
「現実って、前世と来世の賜物だ」幾つもの神尾の言葉が甦ってくる。
さらに、彼は、
「自己肯定の行きつくところは自己否定、そこから始まるもんもあっけん」そんなことも言った。
道路沿いに雪をかぶった一台の自動車が雪天の車庫よろしく放り出されている。フロントガラスの雪は凍っている。そうして何者かの悪戯らしく、そのガラスの雪盤の上にくっきりと三文字の女性器の俗称がリアルに刻まれている。
ナンセンス! 神尾の口癖のように、以前の僕ならそう思ったはずだ。今は何の感慨もなく通り過ぎ、古い駅前通りへ入る。
 草臥れたアーケードの下、居酒屋、スナックが乱立する通り、今朝は薄暗く裏ぶれた通路のようだ。昨夜の残骸は路上の汚物となってゴミ箱にあふれ、一夜の残夢は嘔吐物となって敷石に汚れた影をとどめている。夜の皮膜が剥がれるとすべてが化粧を落とした醜女の顔のよう露骨に下卑たまま息づいてしまう。現実の姿そのものだ。
 通りの尽きる処、真正面に古い大きな駅が見えた。彼岸花が有名なK駅だ。夢のなか、昨年の秋分の日、神尾はその駅に立った。今、遠くから見る駅は仮眠を貪る怪物のように構えている。人の気配もなく光の片隅に落ち込んでしまっている。陰の正体みたいだ。
「エネルギーを奪われ、冗談みたいに孤立している」神尾ならそう言うに違いない。京都タワーは天空に向かい孤高、その駅は地球の穴ぼこのように孤立している。まるで落とし穴? 僕はそう思った。
「老女の胎盤みたい」美沙ならそう言うだろう。
 あれは夏の暑い日だった。僕らは絵画展へ行った。その時『老女の胎盤』という作品を見たのだ。その絵の前で、僕は不可解な意識の大洪水に惑わされた。美沙、神尾もそうだっただろう。

 朽ちかけた胎盤の懐に息づく人間輩の気配、彼らが繰り成す陰惨なからくり。血管に富んだ海綿様から人間輩が連続的に吐き出されていく。ある者は胎盤より急転直下で奈落の底へ、ある者は首の皮一枚で縋りつくのに必死の態、またある者は貪欲にそれを喰い潰していく。それでも、その胎盤は、何者をも無視するかのように、鷹揚な寛大さで構えている。

「人生もこうだね」
「首の皮一枚で繋がって、、、」
「醜いばってん生きるんだ」
美沙が言い、僕が形容し、神尾が締めた。
 その作品は闇と光の相克模様によって人間輩の救われえぬ絶対的不幸を赤裸々に告白しているかのように思えた。僕らは首の皮一枚で現実とつながっている。僕はいまあの時と同じような不可解な意識の真っ只中にいた。そして、何かに取り憑かれたように駅へ向かった。
 その駅には古い大きな柱時計があった。それはまだ動いていた。僕は疲れた身体を長椅子に預けた。柱時計の文字盤は時間を貪り喰った疲労感で汚れていた。長い振り子は正確ゆえに怠惰な往復運動を繰り返している。
「いち、にぃ、さん、しぃ」僕は振り子に合わせて数えた。
時間を確かめようとすれば一分間が物凄く長いように感じられる。それは苦痛だ。僕らはそのような苦痛を伴った時間の中で生きている。
外は小雪がヒラヒラヒラとちらつき始めていた。その時、柱時計の長針が一目盛り動いた。救われたような気持になる。
「ハッアッーー 、ーー、クション」不器用なリズムで大きなくしゃみが出た。僕の身体からエネルギーが奪われていく。頭の風船が突き放され一瞬にして破れたような錯覚に陥った。
 僕は現実に戻る。今まで何処にいたのだろうか。独り善がりの甘美な虚構の世界、そのような処で安易に呼吸をしていた。
〈もういい、もういい、もうやめよう〉
神尾は何処? 残された僕、そして美沙は何処へ? 過酷な現実は容赦なく刃物を突き付けて来る。生きること、それは至難の業だ。
〈それでもいい、それでもいい、それでもいいじゃないか〉
ある時、「生も死もナンセンス」、「ナンセンスが理性によってコントロールされるなら、俺は死を感情によってコントロールする」神尾は続けて言った。
僕は、自分の尺度が正義だ、と傲慢不羈な処で生きて来た。理屈、屁理屈が先行する、きわめて異様であり狭隘な処で生きて来た。〈もうやめよう、やめよう〉日常という行列のなかで、首の皮一枚でも現実に繋がろう。
 僕はK駅のホームに立った。特急電車が通過する。身体が宙に舞い、吸い込まれそうな感覚に陥る。僕は身震いしながら現実の淵で首の皮一枚踏みとどまる。彼岸花が真っ盛りの頃、神尾はこのホームに立った。彼は彼岸花に対峙した。その時、無味無臭の彼岸花の佇まいのなかに、何を見た? 何を聴いた? そして何に触れた? あぁ、彼は五感の凝縮体になって、研ぎ澄まされ、さらに研ぎ澄まされーー ミニマムになるような感覚に陥った筈だ。それから神尾は吸い込まれる潔い感覚に攫われたけれど、、、僕同様に踏みとどまったのだ。彼は人生を木っ端微塵するかのようにマキシマムに弾けた? それはバーチャルな世界の話だ。悪夢のストーリー? 引き換えに、神尾も絶対どこかで首の皮一枚でも繋がっている。確信! そう思った
線路脇の彼岸花は積雪の下、今はその影さえない。「生は死に裏打ちされたもの、死は生に裏打ちされたもの」そんな言葉を残して、硬貨の表を裏にと、否、裏を表にと半回転するかのように、神尾は潔く電車へ飛び込んだ? 線路脇の彼岸花に向かって飛び込んだ? 彼の心のなかはそうだったのだろう。でも、彼は「醜いばってん生きるんだ」と、何処かで新しいスタートを切っているはずだ。
 僕は空腹感を思い出した。そう言えば、昨日の昼から煙草以外、何んにも口にしていない。熱い珈琲が飲みたい。
僕は神話から脱け出すようにその古い駅からさまよい出た。そうして迷路のような裏通りに入り、その片隅に喫茶店を見つけ、『商い中』の踊った文字看板のドアを引いた。
 カランカランと音が鳴る。僕は入る、店内に聞きなれた音楽、美沙がよく口ずさんでいた曲だ。撮影所が近いので結構な客がいた。サイフォンコーヒーの泡がぷくぷくと、それらの息づかいは僕の眼鏡を曇らせた。僕は席に着く。すぐにウエイトレスがやってきた。彼女は僕の曇った眼鏡をみて少し笑った。
「熱い珈琲、トースト、卵」僕は微笑み返しで言う。
 その席から、裏通りの雑多な風景が見えた。無造作に置かれたラーメン屋台、駐車禁止の大きな看板の横に数台の自動車が駐車している。その横の銭湯の入り口には『朝風呂あります』と稚拙な文字がゆれていた。そしてその先に、真っ赤な花が見えた。鉢植えの寒ボタンだ。それは藁で拵えた雪除け帽子を被り、雪の暖に包まれるように花を咲かせている。僕の身体に熱病とは異なる熱い血が流れた。
「死んで生まれ変わる」神尾は冬の蛾を見ながらそう言った。
〈生きて生まれ変わる〉
「その選択もありかな、人それぞれ」美沙の声が聞こえたような気がした。
          ☆
僕はそれから大学を中退し地元へ帰った。その時、地元の駅で美沙とナベに出会った。僕は、「よぉ〜、久しぶり」とは言えなかった。
その駅の伝言板の横に貼られた手配のチラシ『リンチ殺人の犯人たちです』と五名の顔写真、そのなかに美沙とナベがいた。


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