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作品名:彼岸花 作者:悠々

第13回   1968年師走、その4
 僕はある日バリストが解除されたE光館内に入った。立ち入り禁止の建物内は数日前の勃々たる光景をよそに凄惨な状況だった。机の上に放水でしみだらけになった布団。ガラス窓は割られ、北風がパタパタと三億円強奪事件の大きな見出しのある新聞紙のうえを通り過ぎていった。美沙が漫才のために用意したスタンドマイクは壊れ、ヘルメット、ゲバ棒が散乱し、音にはぐれたように拡声器が転がっていた。すえた臭いとともにゴミ箱に食料品が溢れている。殺伐とした感情は放水により震え慄き、そこは修羅場の跡形をとどめている。千の理屈は催榴弾によって行き倒れ、あげく煙のように消滅してしまったかのようであった。残骸の山、亡骸の河、廃墟の海だ。高揚感のなれのはての佇まい、そんな哀れな空間となっていた。そして、誰も残っていないーー 彼らは無機質になってしまった。
 僕は階段の踊り場に出た。神尾と漫才のネタ合わせをした場所だ。そこで僕は立て看板用の刷毛と赤色のペンキを見つけた。僕は赤ペンキの缶の蓋をあける。アクティブな赤い液体だ。その中へ刷毛を突っ込む。刷毛を出す、血泥のような赤が滴り落ちる。刷毛はまるで殺ってきた凶器みたいだ。
それから、僕はグレイの壁に赤ペンキを継ぎ足し、継ぎ足し、≺ノーボディステイズ≻と斜めに大きく書き記した。その言葉は僕らが愛読していた詩の一節を英訳したものだ。ある時、
「誰も残っとらん? 英語で言えば? 」
「ノーボディステイズかな」
「さすが英文科、はっはっはっ」
神尾が言い、美沙が直訳し、僕が笑った。
それぞれのひとつの戦いが終わった。僕は喪失感を確かめるために書き記した。書かざるを得なかったのだ。
 どうやら美沙とナベは検挙されなかったようだ。地下に潜伏? 何処へいったのだろう。神尾もあれっきりだ。僕の前に姿を見せていない。
僕はサークルの部室で待つ。逆さ言葉のノモケマナではなく、ソファに寝そべって、ナマケモノの姿だ。神尾は何処へいったのだ。消えてしまった。サークル仲間に聞くと、「あて所に尋ねあたりまへん」と返戻ハガキのような言葉だった。サンドイッチマンのバイトもやめたらしい。
「博多へ帰った」
「撮影所でロングのバイト中」
「美沙を探している」
「彼岸花摘みにいった」
いろんな噂がながれたがいずれも定かでない。何処へ行ったのだろうか? 
 神尾、美沙が戻って来る処はここだ。彼らの心身の置き場所は今のところ此処しか無い筈だ。と思う反面、戻って来ないと。
パラダイムシフト? そう彼らは既に異色の空間で独自の時間軸を見つけたのだ。そんな疎外感も頭を掠めていく。
例えば神尾は白い色の新しい空間で潔くスタートを切ったのかもしれない。
例えば美沙はオレンジ色のエネルギッシュな空間で自由気儘に。そうだ、いつものように心のバランスを整えているのかもしれない。
グレイのコンクリート壁の殺風景な部室。ボードには誰が書いたのか? 
≺糞くらえ! ≻と殴り描きのリアルな文字。
 色褪せた雑誌、アポロ8号の文字が躍る新聞。ソフアの上に無造作に置かれた蒲団、ノモケマナのベッドだ。隣の釣研究会との間仕切り、その向うに天井から洗濯物のように吊り下げられた魚拓たち。浮浪の心を反映するかのよう微かな風にゆれている。寒い部屋で、僕はパラダイムシフトも出来ない。誰かが、
〈遅いことは牛でもするで〉を捩り、
「遅いことは司でもするで」と言えば、
「言いなはれ、言いなはれ」と、僕はナマケモノらしく寝そべっていた。
美沙よ、神尾よ、戻って来ておくれ。


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