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作品名:バックネットの君よ、永遠なれ! 作者:鷺町一平

最終回   1


信じられなかった。あの我那覇が死んだ。|我那覇雅之《がなはまさゆき》がもうこの世にいない。その事実を、|高末《たかすえ》あずさは受け入れたくなかった。まだ三十七歳ではないか! しばらく連絡していなかったけれど、あずさは我那覇雅之を忘れたことはなかった。心の奥の大切な場所の観音開きの桐の抽斗に|恭《うやうや》しくきれいに畳んだふくさに包んで仕舞ってある名前、それがあずさにとっての我那覇雅之の位置づけであった。
 我那覇雅之という日本人ジャーナリストが、米大統領選の結果を確定する連邦議会上下両院合同会議の取材中に、連邦議会の議事堂になだれ込んだ乱入者のあおりを受けて亡くなったというニュースが報じられてから四日が過ぎていた。
 まだ、気持ちの整理がついていない高末あずさの携帯に高校時代の演劇部の後輩である|栗本美智璃《くりもとみちり》から連絡が入ったのは、北陸で大雪警報が出て、クルマが何十台も立ち往生していると伝えられたどんよりと空が重たい冷たい雨の降る日のことだった。
 あずさがタクシーで駆けつけた葬儀場には、こういうご時世なのでまばらな弔問客しかいなかった。玄関前で待っていてくれた栗本美智璃と共に、あずさは棺の中の我那覇と最後のお別れをした。安らかな顔だった。よく「眠っているかのような」と表現されるが、それは本当だなとあずさは思った。銃で撃たれたと聞いていたが、顔には傷ひとつなかった。年老いた我那覇のお母さんにお悔みを言った。彼女はもう心の整理がついているのか、無言で頭を下げた。
「議事堂になだれ込んだ先頭集団で取材していたんだって。一部が暴徒と化して、それを止める警察とのもみ合いになって……、中には手引きしていた集団もいてぐちゃぐちゃになった中で誰かが発砲したみたい。犯人はわからないんだって……」
 栗本美智璃が自分にも言い聞かせるようにそう言った。
 我那覇は立派にジャーリストとして最後まで最前線に立って、米大統領選を取材している最中に凶弾に倒れた。ジャーナリストの仕事を全うしたのだ。倒れるときは前を向いて死にたいと言っていた我那覇。彼は不本意だっただろうが、言葉通りに前のめりで死んだのだ。その意味では本望だったのかもしれないとあずさは思った。
「おかしいと思ったことには、徹底的に戦う姿勢はあの頃とちっとも変わらないね。我那覇らしいよ」
 美智璃の手前、感情を押し殺して、極めてドライに言ったつもりだったが、言葉とは裏腹に、涙がこぼれ出てしまった。美智璃はなにか言おうとしたようだが、何も言わなかった。
 告別式が終わり、我那覇を乗せた霊柩車が最後のクラクションを鳴らして走り去ったのを見送った後、底冷えする寒さの中、曇天からは案の定、雨粒が落ちてきた。
「降ってきちゃったわね」
 あずさが手にしていたコートを着ようとした時、空を見あげたまま、美智璃がつぶやいた。
「私、あずさ先輩に謝らなくちゃいけないことがあるんです……」
「ちょっとぉ、卒業してもう二十年も経ってるんだから、先輩はやめてよ」
「ずっと、言わなくちゃと思ってたんですけど、言えなくて……」



 二〇〇一年九月、アメリカ同時多発テロ事件が起こり、ワールドトレードセンタービルに旅客機が突っ込みビル全体が崩れ落ちて、世界が騒然としていた頃、演劇部の高末あずさは、文化祭に向けて「更級日記」をモチーフにした作品を上演しようと張り切っていた。
台本はあずさが書いて、演出は我那覇雅之が担当、主演は栗本美智璃だった。この日は演劇部の有志で、市原の|上総国分尼寺《かずさこくぶんにじ》跡に見学がてら文化祭での演劇の成功を祈念しにやってきたのだが、あいにくの雨だった。
「やっぱり、ここに来ると違うなぁ。平安時代を感じる気がするよ」
「あら、ここは最近復元されたばっかりよ。平安時代じゃなくて平成の香りがする、の間違いじゃないの?」
 我那覇がしたり顔でつぶやくと、あずさがまぜっかえす。
一面の緑の芝生が九月の雨に濡れて光っていた。広大な敷地の中に建つ朱色も鮮やかな復元回廊を前に四人は立っていた。
二人のやりとりを後ろから見ていた一年後輩の美智璃が同級生の谷垣一郎に向かって口を尖らせた。
「絶対、我那覇先輩とあずさ先輩って両想いよね〜。雰囲気よすぎるもの。妬けるわぁ」
「だって、演劇部の部長と副部長だし、同時に台本担当と演出家でもあるわけだし、第一お似合いじゃないの。僕はいいと思うよ」
「ふ〜ん、あんたは気楽でいいわね。アタシは嫌。我那覇先輩とお似合いなのはアタシなのよ。わかる?」
「小学校からの付き合いだけど、ほんと、自分が欲しいものにはどん欲だよなぁ、美智璃は。高校生になっても変わってないなぁ、その性格!」
「あったり前でしょ。性格なんてそう簡単に変わってたまるもんですかっ。いつかきっと我那覇先輩をふり向かせてやるんだから! ほらっ、ちゃんと傘持ってなさいよ。アタシが濡れちゃうでしょ。ぐずイチ!」
「ちょっとぉ、その呼び方やめてくんないかな。小学校の時のあだ名だよ、それ」
「しかたないでしょ。だってぐずなんだから。全くなんでアンタなんかと小中高までずっと一緒なのよ」
 そういって、美智璃はまるで谷垣を舎弟扱いしていた。
「ほらぁ、美智璃! あんたは主演女優なんだから、せっかく上総国分尼寺の復元回廊に来たんだから、しっかり役作りしなさいよ!」
 振り向いたあずさがそういうと、美智璃は口を尖らせた。
「だって先輩、先輩の書いた台本は現代劇じゃないですかぁ!」
「そうよ。だから何? 友達と旅行に行く途中の新幹線の中で中年になった|菅原《すがわら》|孝標女《たかすえのむすめ》が|源資道《みなもとすけみち》と出会って、春と秋のどちらが好きか春秋比べをするっていう、サイコーにいかしたサイバーパンクじゃないの!」
「どこが、サイバーパンクですかっ! 我那覇先輩っ、なんか言ってやってくださいよぉ!」
「更級日記人気ナンバーワンの源資通登場場面を現代風にアレンジしてるから、なかなか面白い設定だと思うぜ。あとは演出の俺の腕に任せろ」
 そう言って、我那覇は二の腕をポンとたたいてウィンクした。
「その素敵な殿方役が、よりによってこのぐずイチですよ。も〜っ、全くやる気出ませ〜ん」
 ぐずイチはプッとふくれた。だが目は笑っている。
「文句言わないっ! 他に適当な男子いないんだから我慢しなさいよ」
「じゃあ、じゃあ、我那覇先輩が源資通もやって演出もすればいいじゃないですか! それならアタシ俄然やる気出しちゃいますぅ」
美智璃は胸の前で指を組んで、目がハートマークになっている。苦笑しながら、あずさは我那覇を見た。今はクラスが別になってしまったが我那覇とは高校一年の時に同じクラスだった。
始業式の日にあずさは後ろの席だった我那覇に、背中からつつかれた。筆箱忘れたからシャーペン貸してくれと頼まれたのだ。初日から筆箱忘れるかぁと呆れたが、渋々貸してやった。それからぽつぽつ話し出して仲良くなった。
中二の春に我那覇は一家で沖縄から千葉に引っ越してきたのだという。最初は気候も言葉も合わず、野球部に入っていたが、肩を痛めて部活を辞めてからは、あまり友達も出来なったことからひとりぼっちで本ばかり読んでいたのだそうだ。
我那覇は色黒で手足が長く、ぶっきらぼうなしゃべり方をするし、普段は不機嫌そうな顔をしているので、ちょっと近寄りがたいところがあった。だから周囲は様子をみていたに違いなかった。だが打ち解けてみると、話は面白いし、何より笑うと笑顔が普段のいかつい感じとは打って変わって子供のように優しくなる。あずさも読書が好きなので好きな作家や作品で盛り上がった。
 あずさは当初、文芸部に入部していたが、一学期の半ばに我那覇に引っ張られる形で演劇部に鞍替えした。いい台本を書ける奴がいないからと拝み倒されたのだった。
 それからいつの間にか、あずさと我那覇は演劇部の名コンビといわれるようになった。あずさの台本を我那覇が演出した。部室での根をつめた台本作りに行き詰まるとグラウンドに出て、気晴らしに二人でよくキャッチボールをした。元野球部の我那覇はグラブを演劇部の部室に置いてあった。思いきりボールを投げていると、いい台詞がポッと浮かんできたりした。チェーホフの「桜の園」や、ドフトエフスキーの「白痴」を脚色した作品は評判をとった。あずさオリジナルの「楽天家の一生」も大好評だった。気をよくしたあずさは今回、更科日記をモチーフにした台本を書いて文化祭での上演を決めたのだった。
 だが、あずさには気がかりなことがあった。生徒会の書記を務める我那覇は来るべき生徒会長選のことに入れ込み過ぎて、演劇部の練習にはあまり身が入ってないように感じられるのだ。生徒会長選など、形骸化している学校が多い中で、あずさの通っている千葉|要害台《ようがいだい》高校は珍しく対立候補が立候補して競争選挙を行うことが伝統のようになっている学校である。
今年は二人の生徒会長立候補者がいた。現生徒会副会長である二年B組松本尚樹と生徒評議会の二年F組冬川カミーラだ。下馬評では松本尚樹の圧勝だろうと言われていた。何故ならば、対立候補の冬川カミーラは日本人の母とサウジアラビア人の父を持つハーフであり、イスラム教徒である彼女は、掲げている公約が過激すぎて一般の生徒の支持はとても得られそうもなかったのである。
 松本尚樹の推薦者でもある我那覇は、十月四日の投票前に全校生徒を集めて行われる立会演説会で、応援演説をすることになっている。結構、いろいろと忙しい日程だった。
「生徒会役員選挙が十月四日で、文化祭が十月二十日ですよぉ。大丈夫なんですか?」
 まるで、あずさの内心を見透かしたように、美智璃が生徒会長選の話題を出してきた。
「余裕だね! もともと松本は人気あるし俺が応援演説すれば、全校生徒の八割の票はかたいね」 
 余裕しゃくしゃくの顔で我那覇はうそぶいた。
「でも、カミーラを支持するグループがいろんな裏工作してるって話もありますよね。僕、HRで選管委員になったんで、そういうのチェックしますね」
 谷垣一郎は、復元回廊の赤い柱を撫でながら言った。
「おお、そっか。頑張れ。だけどカミーラの公約って、全校集会での君が代斉唱禁止とか、校内にムスリムの礼拝室を設置するとか、給食のハラール食導入とかそんなのばっかりだぜ。そんな要求通るわけないって!」
我那覇はそう言うと谷垣の肩をポンと叩いた。
「ハラール食ってなんですか?」
 小首をかしげながら思いっきり、可愛い自分アピールをしながら美智璃が聞いた。あずさは内心、そういう「なんにも知らない馬鹿な私演出」は我那覇には逆効果だと思うとおかしくてたまらなかった。「イスラム教の戒律で口にしちゃいけないものが決まってるんだ。なかでもアルコールと豚肉。イスラム教で食べていいのがハラール食ってことになってる。逆に言うと禁じられているのがハラムっていってこれの代表が豚肉とアルコールなんだ」
「豚肉とアルコールだったらそんなに難しくないんじゃないですか? うちら、高校生だからアルコール飲めないしぃ……」
「ところがそれがそんな単純じゃないんだなぁ〜」
 横からぐずイチが、二人の会話に口を挟んできたので、美智璃は露骨に嫌な顔をした。
「豚からとったエキスを使った調味料や出汁の入ったスープ類、豚を調理した道具で調理された食材、豚が配合された餌を食べた家畜ですらNGなんだ。アルコールにしたって、飲まなきゃいいってもんじゃない。料理に使われる酒はだめだし、厳密にいえば醤油やみりんだってアウトなんだよなぁ」
 したり顔で説明するぐずイチに、美智璃は首をすくめた。
「でも、冬川カミーラってハーフでゴージャスなルックスだからそれだけで投票するペラッペラッの男子がかなり出てくるんじゃないですかぁ?」
 自分を可愛いと思っている美智璃は、どうやら冬川カミーラに対してライバル心を持っているらしい。
「まぁ、一部にそういう男子もいるかもしれないけど、もともと何年も前からうちの学校は多様性を尊重するっていう校長の配慮で、いろんな国の人たちに門戸を開放してるけど、それにしたって、留学生やら国籍の違う国の生徒たちを全部含めても、微々たるものだから、どんな工作してもなかなか難しいんじゃないの?」
 高末あずさは、思いがけず冬川カミーラの話題になってしまって焦った。今日はせっかく、更級日記の雰囲気を少しでも味わおうとわざわざバスに乗って上総国分尼寺に来たのに、どうして関係のない生徒会長選の話をしながら復元回廊を歩かねばならないのか、と少々面白くなかった。
あずさは、もともと生徒会の活動には興味がない。
我那覇が応援している現副会長の松本尚樹とは一言二言、言葉を交わしたことがあるくらいのものだったし、冬川カミーラに至っては、話したこともなく廊下で何度かすれ違った程度であった。彼女は非常に自尊心が強く、熱心なムスリムだった。学生の多様化を進める学校側の意向もあり外国籍の生徒たちから熱狂的な支持を受けて生徒評議会入りした。そして力を蓄えたのちの、今回の生徒会長選への立候補だということはひとづてに聞いてはいた。
四年前に赴任してきた橘耕三校長は、「教育における多様性の尊重」ということを前面に押し出し、多国籍の学生に門戸を開放する方針を打ち出した。それによって県立要害台高校は、千葉県随一といわれるほど、中国、韓国を筆頭に中東など多国籍の生徒を受け入れているのだ。その総数は今や全校生徒一千五十五人中、八十三人に登っていた。この人数をどう見るかは、人それぞれであり、ある人間にとっては脅威なのかもしれないが、あずさは、全校生徒の一割にも満たないではないかと思っていた。
とにかく、目下のあずさの頭の中は、文化祭における演劇部の公演のことでいっぱいだった。彼女はまだ台本にも、満足していなかった。手直しが必要な部分があるのではないかとずっと感じていた。そのきっかけをつかみに公演を一か月後に控えたこの時期に、あずさの発案で上総国分尼寺を有志で訪れているのだった。
結局、この日は市原市役所にも行き、七重の塔の二十分の一の模型を見学した後、近くの上総国分寺にも訪れて、七重の塔の礎石も見学したのだった。 
 降り続いていた雨も上がって陽が差してきていた。国分寺跡は手入れが行き届き、きれいに刈り上げられて広い空き地になっていた。みんなで礎石の周りに集まった時、ここにかつては域内全域を睥睨(へいげい)するような圧倒的な威容で、天を突くような巨大な七重の塔が建っていたのかと思うと、あずさは心が震えるような感動を覚えた。
それは他の三人も同様であった。よほどの鈍い感性の持ち主でない限り、並みの想像力があれば、往時の国分寺の七重の塔を瞼の裏に建立することは造作もないことだ。
「すげえなぁ。ここに六十メートルを超える七重の塔が建ってたのかよぉ。威風堂々だったんだろうなぁ。見たかったなぁ。なんで残ってないんだよぉ!」
 ぐずイチが感嘆の声を上げた。
「国を護る寺だったから結局民衆の支持を得られなかったみたいだな。聖武天皇の詔(みことのり)により全国に六十余り作られた国分寺と国分尼寺はあっという間に廃れて、律令国家と運命を共にしたってある」
 説明板を食い入るように読んでいた我那覇は、茜色に染まった九月の空を見上げた。
「やっぱり、いつの時代にも民衆の支持を得られないものは消えゆく運命なのね」
 あずさがため息交じりに呟くと、即座に美智璃が反応した。
「ですね〜。アタシたち、良い舞台にしたいですよね! 先輩」
 そういってあずさの肩をポンと叩いた。全くこれじゃあ、どっちが先輩だか、わからない。美智璃はあざとさもあるけど、憎めない後輩だった。



 投票日の十月四日は快晴だった。全校生徒が体育館兼講堂に集められた。それぞれの候補の演説があり、推薦者の応援演説があった。松本尚樹は流石に立て板に水だった。我那覇の応援演説も的を射たもので、いちいち頷いている生徒が多かった。対して冬川カミーラは肩に力が入りすぎ、学校改革という強すぎる自己主張を繰り返すのみだった。
 演説後、すぐに投票は行われた。講堂の舞台の前にしつらえられた投票箱に粛々と投票してゆく。受付で自分の名前が書かれた名簿にチェックを入れ、投票用紙をもらい、候補者の名前を書き投票する、これだけだ。
 開票と集計は選挙管理委員会によって行われる。結果は、翌日校内放送で発表された。 
誰もが松本尚樹の圧勝だろうと思っていた結果は、予想外のものだった。冬川カミーラが勝ったのだ。これには学校全体が騒然となった。あらゆるクラスから、おかしいのではないかとの声が瞬く間に上がった。
この結果は、さほど生徒会長選に興味がなかったあずさにとっても思いもよらぬものだった。あずさは一日も早く、生徒会長選が終わって我那覇が演劇部の練習に本腰を入れてくれることを願っていた。案の定、この結果は「受け入れがたい」として松本尚樹陣営は猛反発した。そしてその松本尚樹陣営の筆頭格といえるのが我那覇雅之なのである。
松本尚樹陣営はすぐさま、選挙管理委員会に乗り込んだ。選挙管理委員長は二年A組の田中友和という新聞部部長だった。選挙管理委員会は臨時なので部室というものは持たず、新聞部と兼用となっていた。我那覇がさっきの放送はどういうことだと詰問すると、田中は悪びれずに答えた。
「どうもこうも、あのままだよ。生徒会長選は、開票の結果、冬川カミーラの勝ちと決定した。ゆえに規定により校内放送で発表したまでだ」
「投票数を発表しろっ!」
「落選者への配慮としてそれは発表しない。これまでも通例でもそうなっている」
「お前ら、冬川陣営に買収されたな!」
「なに、寝言、言ってんだよ。開票は公正かつ中立に行われたよ。下馬評で圧倒的有利だったのを覆されて悔しいのはわかるけど、選挙管理委員会を侮辱することは許されない」
 けんもほろろだった。我那覇たちは不正のエビデンスを集めることにした。確固たる証拠を集めれば、この結果を覆せると考えたからだ。証拠はどんどん集まってきた。やはり一番多いのは買収工作だった。冬川陣営から高額の商品券をもらった者、冬川カミーラに入れれば部費を増額すると言われた弱小クラブ、彼女に投票すれば美人を紹介すると言われた非モテ男子たち……、大小数え上げればきりがなかった。
 だが、最も重大な証言は、HRで選挙管理委員会に選ばれた、ぐずイチこと谷垣一郎のものだった。
 彼の証言によると、選挙管理委員会は投票日当日、体育館兼講堂で、午後七時過ぎまで開票作業と集計作業に追われていたそうである。開票が七割ほど進んだ段階で、松本尚樹の優勢は明らかだった。すると選挙管理委員長の田中は、携帯電話を取り出しどこかに電話するとあわてて部屋を飛び出していった。   しばらくして戻ってきた田中は、学校の水道管が破裂した、漏水していて修理が来るから今日は解散するといったのだそうだ。谷垣がまだ集計の途中ですけどと疑問を呈したが、後は選挙管理委員会の幹部数名でやるからと、強引に帰宅させられた。
 いったんは校門を出かかった谷垣だったが、忘れ物をしたことに気づいて体育館に引き返すと、選挙管理委員会幹部の数人がどこからか段ボールを運び込んでおり、その中から大量の投票用紙を机の上に並べて集計を始めていたという。
戻ってきた谷垣に驚いた田中は、これは誤字脱字などのある疑問票を隔離選別するための段ボール箱だと、不自然な言い訳をしたという。谷垣が忘れ物の筆箱をバッグパックに入れる際に、ちらっと見えた机の上の新しい投票用紙には、全て冬川カミーラの名前が記入されていたそうだ。
 これらの証言を受けて、我那覇を中心とした松本陣営は選挙管理委員会に票の再集計と両候補の獲得票数を公表すると共に、投票日当日の不可解な水道管破裂に関する公式調査を要求した。
 当初、選挙管理委員会は渋っていたが、再集計と獲得票数の公表には、異例中の異例という注釈付きで応じた。だが、すでに投票用紙がすりかえられているかもしれないものをいくら再集計したところで不正が明らかになるはずもなく、全校生徒一〇五五名中、無効票その他を除く有効投票数九百八十七票、冬川カミーラ五〇二票、松本尚樹四八五票が明らかになっただけだった。そして選挙管理委員長の田中友和は生徒長選挙に明確な不正はなかったと高らかに宣言してしまった。水道管破裂については、単に誤報だったと言い逃れた。 
 そんなことはないだろう、多数の買収や不正の証言があるではないかと、松本陣営は食い下がった。だが選挙管理委員会は、多少の買収等はあったかもしれないが、それは今回に限ったことではなく過去の生徒会長選挙でもあった。しかし、選挙結果を覆すような不正はなかったと結論付けた。いくら我那覇たちが冗談じゃない、大規模な不正が行われていると訴えても、それ以上選挙管理員会は取り合わなかった。
 演劇部の部室は我那覇たち松本陣営の対策本部と化した。松本尚樹が遠巻きに見つめるほかの演劇部員たち、つまりあずさや美智璃たちに済まなそうにあいさつに来た。
「悪いね。これはこれからのわが校の運命を左右する戦いだから、しばらく我那覇を借りるよ」
 そう言われて、ただでさえ、演劇の練習が我那覇がいないことで滞っているあずさは、返事をせず、そっぽを向いていた。
「美智璃! 谷垣! カラオケボックス行くよ」
 腹立ちまぎれだったので、声にとげが出た。部室を明け渡し、カラオケボックスで台詞の練習をするのだ。文化祭の舞台となる講堂は、体育館と兼用なので普段は運動部が使っているので月,木しか使えないことになっているのだった。
 


 我那覇たちは、独自で校内アンケートを行った。設問内容は「今回の生徒会長選に不正はあったと思うか?」というストレートなものだった。全校生徒の七割が不正はあったと思う、と回答した。
 この結果に激怒したのは、冬川陣営だった。対策本部としている演劇部の部室に一同が乗り込んできた。
「松本くん、なんなの。勝手におかしなアンケートなんてして! 結果はもう出たのよ。素直に自分たちの負けを認めたらどうなの」
「冬川、お前らが汚い手を使って、生徒会長選を盗んだってみんな思っているぞ。大体お前の公約で五百票も獲れるはずがないんだ」
 松本は金縁メガネの鼻当ての辺りを指でやや持ち上げた。
「おあいにく様。選挙管理委員会が不正はなかったって結論を出してるわ。いいがかりはやめてもらいましょうか!」
 冬川カミーラは傲慢に腕組みをして、松本らの前に立ちふさがった。
「お前らが選挙管理委員会まで抱き込んだんだろう! それだけじゃねえ。新聞部もそうだ。このアンケート結果を校内新聞に載せてくれって言ったらにべもなく断られた。なんであんなに部活の連中がお前らに遠慮してるんだ? 組織的になにかやってるだろ! 絶対暴いてやるからな! この学校をお前らの好き放題にはさせない」
 我那覇は絞り出すような声でいうと、立ち上がって真っすぐカミーラを見据えた。その眼は怒りに満ちていた。我那覇が全身から発する殺気に気圧されたのか、冬川カミーラたちは、それ以上なにも言わずに去っていった。
 我那覇たちは、ついに最終手段として、学校に訴えることにした。今回の生徒会長選の結果に同情的な教師を味方に引き入れて校長室に談判に行った。 不正の状況証拠や証言者の供述を全てレポートにまとめて校長の橘耕三に手渡そうとした。ところが橘校長は受け取りを拒否した。生徒会長選に学校側が関与することは、生徒の自主性を重んじる当校の校風に合わないし、第一、選挙管理委員会を信用しないことになるというものであった。一応筋は通っているが、明らかな不正が認められるのにそれに対して、学校側が動こうとしないのは、生徒会長選といえども選挙である以上、民主主義の否定ではないかと我那覇たちは粘ったが、校長の橘は聞く耳を持たなかった。
 これにより、正式に冬川カミーラの生徒会長就任が決定した。我那覇は悔しさを隠そうともしなかった。その眼には、涙が浮かんでいた。その肩を松本尚樹が優しく抱いた。
「無理だよ、我那覇。校長までもあっち側だ」
「これじゃあ、この学校はのっとられてしまう。一体、どれだけのバックが冬川カミーラの背後についてるんだ? 相当大きな勢力なのか。選挙は開票者が決めるって言ったのはスターリンだっけか。選挙ってのは、民主主義の根幹をなすものだろう? こんなことがまかり通っちゃいけないんだ……」
 ようやく、演劇部の練習に戻ってきた我那覇だったが、全く精彩を欠いていた。演出にまるで身が入っていないのは誰の目にも明らかだった。美智璃が台詞に詰まった。だが我那覇は注意もせずに考え事にふけっていて、「心ここにあらず」だった。
「ちょっと我那覇、いい加減にしてよ!」
「ん? ああ、ごめん」
「また生徒会長選のこと、考えてたでしょ。もう終わったんだよ。どうにもならないよ。生徒会長は冬川カミーラに決まった。それでいいじゃない!」
 しばらくの沈黙があった。
「……高末、本当にそれでいいのか? 明らかな不正が行われたんだ。選挙っていう絶対的に公正中立でなければならないものに外部勢力が手を突っ込んできて結果を捻じ曲げたんだぞ! 選挙が盗まれたんだ。民主主義の根幹が揺らいでるんだぞ!」
「なに、大袈裟なこと言ってるのよ。たかが生徒会長選だよ」
「ああ、たしかに地方高校の生徒会長選に過ぎないよ。だけど、こういう不正を許すと次々に広がっていって、今にとんでもないことになるんだよ。ダムの水漏れは小さい時に補修しておかなくちゃ、穴はどんどん大きくなってゆき、やがてダムは決壊する。取返しのつかないことになっちまうんだよ!」
「高校の生徒会だよ。気に入らない人がトップになったとしてもあと一年ちょっと我慢すれば卒業しちゃうジャン。そこまで躍起にならなくてもいいでしょ。もうちょっと真剣にこの舞台のこと、考えてほしいよ!」
「学校が乗っ取られるかどうかの瀬戸際だぞ! のんきに演劇のことなんて考えてられっかよ!」
 カチンときた。あずさはブチ切れてしまった。
「そんな了見で演出してほしくないわっ! 今すぐ出ていって!」
 我那覇は、持っていた台本を床に叩きつけると、乱暴に椅子から立ち上がって部室を出て行ってしまった。このやりとりをひきつった顔でみていた美智璃と谷垣は固まっていた。
「せ、先輩。いいんですか。あんなこと言っちゃって……」
 美智璃の声を無視するかのように、あずさは台本の台詞の続きを美智璃に促した。

 売り言葉に買い言葉とはいえ、我那覇に酷い言葉を言ってしまった事を、あずさは後悔していた。芝居の演出はどうも勝手が違い、上手くいっているとは言い難かった。我那覇と二人で作り上げていくというスタイルに慣れ親しんでしまったので、自分ひとりの演出は何かが足りなかった。
数日後の放課後、美智璃がおずおずとノートを差し出してきた。我那覇の演出ノートだった。演出に苦しんでいるあずさのことを心配した我那覇が気を遣ってくれたのだろうというのはすぐにわかった。だが、それを美智璃経由で渡されるということが、あずさは面白くなかった。すぐに受け取りはしなかった。変な間が空いた。引っ込めるわけにもいかず美智璃は、ノートを差し出したままだった。
「先輩も頑固ですね〜」
 妙に明るく元気よく言われたので、それが合図ででもあったかのように、渋々を装い、あずさはノートを受け取った。そのときはパラパラとめくっただけで普通に稽古に入った。美智璃はあずさの反応に不満そうだった。
家に帰ってから、あずさはようやくノートを開いた。実に綿密な演出プランが書き込んであった。さらに、美智璃や谷垣ぐずイチの芝居や滑舌に対する注意点や演出の方向性が示してあった。決してうまいとは言えない金釘流の文字だったが、読みやすかった。こんな字を書くのか……と、いつの間にか、あずさは自室のベッドの上でつぶやいていた。
ノートの片隅にでも我那覇のメッセージが書き記されているのではないかと、あずさはノートの隅から隅までめくって探してみたが、ついぞ見つからなかったので少々、落胆した。



 十月二十日、文化祭当日を迎えた。天気はあいにく快晴とはいかず、朝から空には重苦しい鉛色の雲が低く垂れこめていた。あずさは我那覇の演出ノートも読み込み、万全ではないにしろ、それなりに芝居を仕上げたつもりであった。
我那覇はあれから、ネットやメールを使ってこの日に合わせて大規模なデモを計画しているのではないかと言われていた。
新生徒会長の冬川カミーラはなんとしても、この文化祭を成功させることで権威を見せつけたいと考えていた。
 我那覇たちは、駅前広場に集まった松本支持派の生徒たち二百五十人を前に、生徒会長選の不正を糾弾するアジテーション演説を行っていた。「不正許すまじ」のプラカードを持った一団のデモ行進はこうして県立要害台高校に向かっていった。学校側にいくら訴えても埒があかないことを思い知った我那覇たちは、外部のメディアを巻き込む戦略をとり、保守系の新聞社に連絡して取材に来てくれるように申し入れていた。
 冬川派が密かに偵察に来ていた。その様子を逐次、新生徒会並びに学校側に報告していた。
 デモ隊が到着した際には、すでに門は閉ざされていて中に入れないようになっていた。門を開けろという声と文化祭の進行を邪魔するなという声がこだましていた。そのうちに怒号に変わり、誰かが門を開けたのでデモ隊は校内に入り、文化祭の飾りつけで華やかになっている校内で「不正を許すな」「学校に外国勢力は要らない」の大シュプレヒコールが起こった。
それを阻止しようとする学校側ともみ合い状態になった。いつの間にか学校の正門前には右翼の街宣車が止まり、拡声器で「軍艦マーチ」を流しながら、「北方領土返還!」とか「天皇陛下万歳!」とか書かれたのぼりを掲げて学校のっとり断固反対! とか叫んでいる。血気にはやった若い体育教師が部外者は帰れとか怒鳴っている。「神風」の文字が入った旭日旗のハチマキをして、特攻服を着た若い男が体育教師につかみかかり乱闘になった。あちこちで小競り合いが起こっていた。その揉み合いの中で悲鳴が上がった。女生徒が切りつられたのだった。旭日旗のハチマキの男が刃物を持って暴れていると誰かが通報したらしい。パトカーのサイレンの音が近づいてきた……。
 体育館の講堂は観客で溢れんばかりで、舞台の袖からそれを見たあずさは身震いしていた。さぁ、もうすぐ幕が上がるというその直前にパトカーのサイレンが鳴り響いた……。直後、学校側から文化祭中止の緊急アナウンスが流れた。

 文化祭は大混乱をきたし、警察が介入したこともありやむを得ず中止になった。あずさが賭けていた「更級日記異聞・新幹線編」は結局幕が上がることはなく、オクラ入りになった。文化祭は部外者が乱入して刃物を振り回すという、有り得べからざるテロリズムにより続行不可能となった。だがそのテロリストを校内に入れるように仕向けたのは、松本たち生徒会選挙落選組ではないかと新聞部に書き立てられ、さらにその首謀者と学校側に決めつけられたことで一気に我那覇たちの立場は悪くなった。もちろん、我那覇たちは右翼街宣車を手引きしたのは自分たちではなく、これは自分たちを陥れようとする陰謀であると主張したが、全く聞き入れられることはなかった。
 冬川カミーラら、新生徒会は、学校行事の中でももっとも華やかであるべき文化祭で、女生徒が乱入してきた外部勢力のテロ行為で負傷したことを重くみて、学校側に松本支持派たちの処分を要求した。   当初、学校側は、部外者が校内に入ったことを手引きしたという証拠がないということで渋っていたが、校長のツルの一声で首謀者とされた我那覇と松本は退学処分となった。これには彼等の両親も猛反発して校長室に乗り込み直談判したが、処分は覆らなかった。処分を不服とした我那覇は両親とも相談の上、父親の知人の英国人のツテで急遽イギリスに留学することになり、この街を去ることになったのだった。



 その別れの朝、駅のプラットフォームは寂しかった。巧みな新生徒会の宣伝と学校側の発表により、多くの生徒たちは、本当に文化祭に部外者を引き入れて騒動を起こしたのは、松本支持派だと思い込まされていたからだ。それまでは我那覇たちの主張に耳を傾けていたものの、あの文化祭乱入と警察介入以降、我那覇たちから離れていったものも多くいた。そういう意味では、冬川カミーラ率いる新生徒会・学校側連合の一大勝利と言ってよかった。
さらに追い打ちをかけるように、学校側は駅に見送りに行った者は大きな代償を払うだろうということを事前に通告していた。そういう脅しをかけられては、数は減ったとはいえまだまだ多いはずの支援者も見送りには二の足を踏まざるを得なかったという事情もある。だれもが最早、学校側の高圧的な態度に屈服しかかっていた。そんな中、美智璃とぐずイチこと谷垣一郎は、同じ演劇部の後輩として、けなげに見送りに来ていた。
では、高末あずさはどうしていたのであろうか。実はあずさはずっと腹を立てていた。文化祭が中止になり、幕が上がる直前だった自分の芝居が出来なかったことにずっと納得していなかったのだ。それに、あんな言い争いをした後でどんな顔をして我那覇に会えばいいのか分からなかった。
むろん学校側が言うように、我那覇たちが部外者を引き入れる手引きをしたなどということは、最初から信じてはいなかった。だが、文化祭が中止になった責任の一端は我那覇にもあると感じていた。
元々、あずさが台本を書いて我那覇が演出をするという、いわば二人はクルマの両輪だった。それが突然、生徒会長選の不正を糾弾することに熱中して、本来するべき仕事であるはずの芝居の演出を放り出したことにそもそもの原因があるとあずさは思っていた。我那覇が舞台の演出よりも、生徒会長選のごたごたを優先させたことが、どうにも納得できなかった。
だがそれは突き詰めて言えば、私よりも生徒会のことが大事なの? という日頃、彼女が忌み嫌っている心理にどうしてもたどり着いてしまうことにも気づいていた。それを認めることは、自分の中に内在する乙女心をも認めることになるので、余計、苛立ちは高まっていた。
なぜなら、あずさは自らのことを、普通の女子高生とは違っていると考えていた。今風の言葉でいえば、いわゆる「意識高い」系だったのである。自らは恋に恋する、例えば栗本美智璃のようなミーハーな女子高生とは違うと思いたかった。だからこそ、芝居の演出をないがしろにしている我那覇に苛立つことは、その辺にいくらでもいる、ありきたりな女子高生と同じであると認めることに他ならなかった。それだけは、どうしても耐えられなかったのである。
あずさは、制服のまま寝っ転がった自室のベッドの上で、自分の左腕を制服の袖越しに嗅いでみた。
「うわぁぁぁ、乙女の臭いがする。くっさい!」
 自虐的にそうつぶやいたまま、ぼんやりと天井を眺めていた。そういいながら、制服にはちゃんと着替えているというのが、この娘の相反する感情を表していた。要するに見送りに行こうかどうか迷っているのであった。見送りに行かないのであれば、学校に行けばいいだけだが、それも出来ずにこうして家で悶々としているあずさであった。
 我那覇が乗る列車は午前十時三十七分発である。今は午前十時十五分。駅までは優に自転車で十五分はかかる。

 我那覇は見送りに来てくれた美智璃と谷垣に別れの挨拶をした。
「ずっと、演劇部の練習に出られなくて悪かったな」
「いいえ、結局、文化祭中止になって幕は上がらなったので、かえって下手なところ見られなくてよかったかなぁ…なんて」
 ぐずイチが、言い訳にもならない言い訳をした。我那覇は、ちょっと複雑な表情を見せた。
「我那覇先輩、メールしますね。イギリスへ行ってもアタシのこと、忘れちゃいやですよ。あっちへ行っても元気でいてくださいね」
 先刻、この機を逃すまじと我那覇とアドレス交換した美智璃は、満面の笑顔をみせた。我那覇はしきりと美智璃の頭越しにプラットフォームの隅々にまで目を配っていた。美智璃には分かっていた。我那覇はずっとあずさが来ていないか目で探しているのに違いなかった。
「高末先輩なら来ていませんよ。誘ったんですけど、なんか拗ねてる感じで。文化祭中止で舞台出来なかったことを、ずっとねちねち恨んでるじゃないんですか。なんか先輩のああいうところ、アタシ苦手なんですよね〜」
 美智璃は容赦がなかった。
「そうか。来てないのか、あいつ……」
 我那覇は小さく唇を噛んだ。
「栗本、悪いけどことづてを頼むよ……」
 
 あずさはシャカリキで自転車を漕いでいた。立ち漕ぎで力いっぱいペダルを踏みこむことに全集中していた。ギリギリまで見送りに行くか行くまいか逡巡した末、やっぱり行くことにしたのだった。イギリスに行ってしまう我那覇とは、もしかしたらこれっきりになるかもしれないと思ったとき、こんな別れ方はイヤだと強く思った。
お互い、同志だと思っていたから、我那覇とはその辺の女の子がするようなメールのやり取りはおろか、携帯の番号すら知らないままだ。自分が意地を張ったままでは、連絡する術すらなくなってしまうという危機感が頭をもたげた。だったらもっと早く家を出ればいいじゃないかというのは結果論だ。息が切れ、額からは玉の汗が滴って、自転車のオレンジのフレーム部分に落ちて弾けて後方に飛んでいく。
駅に着いた。自転車を止めるのももどかしく横倒しにしたまま、駅の階段を二段飛ばしで駆け上る。ホームとホームを繋ぐ跨線橋を駆けていく途中で、無常にも列車は動き出してしまった。
間に合わなかった。あずさは跨線橋の窓から動き出した列車を見送るほかはなかった。ばかみたい。自分の決断の遅さが忌々(いまいま)しかった。通り過ぎていく電車が見えなくなるまで跨線橋の窓から見送った。わけのわからない感情が押し寄せてきた。溢れ出る涙を拭うことも忘れてあずさは立ち尽くしていた。



「あの時、我那覇から先輩にことづて預かっていたんです。でも私、先輩に言わなかったんです……」
 あずさは驚きを隠せなかった。だが出来るだけ表情には出さないようにした。美智璃と我那覇はかつて結婚していたことがあった。一年半で破局してしまったのだけれど。だから今でも美智璃は我那覇とぞんざいに苗字で呼ぶ。二十年前にそんなことがあったなんて! 
「本当にごめんなさい。あの頃は、アタシ、先輩と我那覇の仲をずっと疑っていて……。せっかく自分が仲良くなれるチャンスを逃したくなかったんです」
 一時、我那覇美智璃という画数が多すぎていかめしすぎる名前だった高校の後輩は、我那覇がこの世を去ってから頭を下げてきた。あれから二十年も経ってしまったではないか! この後輩がどうも好きになれなかった理由はまさにこれだった。あまりにも女子臭が強すぎるのだった。
「で、彼はなんて?」
 自分でも思いもよらないほど、優しい声が出た。笑みさえ浮かべることが出来た。美智璃は子犬のような表情であずさをみていた。言外に、てっきり怒られるかと思っていたのに意外……、とでも言いたげに。
「グラウンドのバックネット裏…、これだけいえばわかるって……」
 あずさはもう回れ右をしていた。葬儀場前からタクシーを拾って母校の野球グラウンドに急いだ。美智璃の前では冷静を装っていたが、心の中は荒れ狂っていた。悔恨と憤怒と諦観が折り重なって、心が千々に乱れ、心拍数が上がっていた。着きましたよ、というタクシーの運転手の声すら聞こえていなかった。我に返り料金を支払って、二十年振りに母校の門をくぐり、野球グラウンドに急いだ。顔が燃えるように熱い。心臓も早鐘のように鳴っている。
 グラウンド。台本作りに疲れた時、よく我那覇とキャッチボールをした。元野球部とキャッチボールなんて無理だよと断ったが、我那覇は肩を壊したから女子とやるくらいがちょうどいいんだと言ってきかなかった。
 バックネット裏……。我那覇が一番気に入っていた場所だ。野球を見るならここからと言っていた場所。審判と同様に偏らず球筋が全て公平にわかる場所。
 二十年前の記憶では、我那覇とキャッチボールをした日はたいてい晴れていた。でも今日は冷たい雨が降っている。なにかを言いたかっただけならば手紙を書けばいい。わざわざ美智璃にことづてしたということは、なんらかのなぞかけがあったに違いない。だがもう二十年も経っている。何かに憑かれるようにグラウンドに来たが、今更何も残っているはずないじゃないか。傘を片手にバックネット裏に来てみた。
 当時はバックネット裏にプレハブの建物があった。ちゃんとした球場なら放送席にあたるものだが、ただの練習グラウンドなので関係者席とでもいうべきものであった。当時、共学だった母校は、今は女子高になってしまって、このグラウンドもあまり使われていないのか、荒れていた。プレハブの関係者席も扉は朽ちて、天井も雨漏りしていた。あずさはその廃れようにびっくりしていた。
 壊れかけのパイプ椅子に雨だれが落ちている。古ぼけたボールが一個、隅に転がっていた。あずさはそっと手に取ってみた。
 目をつぶる。二十年前のあの頃、我那覇とキャッチボールをした思い出がまざまざと蘇ってきた。

「どお? マウンドに立った気分は? 懐かしい?」
「ちょっと切ない。今はこんなボールしか投げられない。でも楽しい」
「私じゃ物足りないでしょ?」
「そんなことないさ。野球はさ、審判次第なんだよね」
「ほとんどのスポーツがそうじゃないの?」
「まぁ、そうなんだけど、特に野球は審判の匙加減が大きいスポーツじゃないかな。主審がストライクって言わないと試合にならない。投手がいいコースに決まった!と思っても、主審がボールと言ったらボールになっちゃう」
「よくテレビで投手が納得できない顔しているのをみることあるよ」
「でしょ。極端な話、審判が公正じゃなくどっちかのチームに勝たせようとしたらきわどいコースはみんなボールにしちゃえばいい。もう押し出しの連続で試合は確実に壊れる」
「まぁ、そうでしょうね」
 いくら肩を壊したといっても、こんな山なりな球しか投げられないはずはないので、気を遣ってくれているんだな、とあずさは思う。あずさは決して運動神経が鈍いほうではないと自負しているが、子供の頃、近所の悪ガキとした時以来のキャッチボールなので多少緊張していた。
「審判が公正かどうか見るには、観客もやっぱりバックネット裏で観るのが一番いい。贔屓のチームを応援するなら一塁側とか三塁側のベンチ裏がいいかもしれないけど、公平に観たいならバックネット裏に限る」
 ふと、あずさは我那覇が野球を通して違うことを言ってるのだなと感じた。きっとこれは我那覇の生き方のモットーなのだ。あの時は何も感じなかったけど、我那覇は野球を通してもっともっと大切な「偏らないものの見方」ということを語っていたのだとようやく気付いた。あまりに遅かったけど。
 不意に思い出した。国分尼寺に行った時、タイムカプセルの話になった。子供の頃、タイムカプセル埋めたよねって話。我那覇はそんなことしていないって言ってたけど、私たち千葉県の小学校ではみんな埋めたという話をした。我那覇は羨ましがった。あのとき最後に我那覇が投げた球をわたしは受けられなかった。
こんな山なりじゃなくて本気で投げてみてって言ったら、我那覇の顔つきが変わった。ホームベースに座ってみてっていうので、そうしたら本気で投げた球は大きく外れてバックネット左の柱に直接あたる大暴投だった。
「こんなもんさ。だから野球は辞めたんだ」
 我那覇は淋しそうに笑ったんだった。

 いつの間にか雨は上がっていた。傘を閉じてバックネットにひっかけた。
そうだ! あの柱! マウンドからみて左側だったんだから、ここよね。あずさはその柱の前に立ってみた。バックネット裏に立っている四本の柱の右から二本目だ。あの頃と違ってだいぶくたびれてはいるが、コンクリート製なので腐ってはいない。
 もしかしたら……。あずさはその辺に落ちていた角材のきれはしでその柱の根元を掘ってみた。我ながら馬鹿々々しいことをしていると思った。さっきまで雨が降っていたとはいえ、砂地なので水たまりになっていないので、割と掘りやすかった。
二十年も経って、なにも出てくるはずないじゃないの……。口のなかで小さくつぶやきながら、もう一掘りしたらやめようと思ったその時、角材のきれはしの先端が何かに当たった。
 四角いブリキ缶だった。大きさは十五センチ角くらいだ。信じられなかった。二十年前に我那覇が埋めたタイムカプセルだ。掘り出したブリキ缶を朽ちかけたベンチの上にのせて、湿った土をもどかし気に払った。心臓が口から飛び出しそうなほどドキドキしていた。こんなことがあるだろうか。なにが入っているのか。あずさはマニュキュアの爪が折れそうになるのも、厭わずに蓋を開けた。
 ミニディスクと四つ折りの手紙が入っていた。手紙によると、ミニディスクには校長と不正派の癒着を示す金銭の流れの証拠となる音声データが入っているらしい。手紙には生徒会と学校側の監視が厳しくデータを闇に葬られる恐れがあるから、あずさに託すとあった。手紙の最後は、「俺は不正を許すことは出来ない。俺はジャーナリストを目指すから、高末も小説家を目指せ!」と結ばれていた。
 黄色くなって文字も薄くなり、かろうじて判読できたその手紙を胸にかき抱き、あずさは慟哭(どうこく)した。すでにミニディスクは再生機器が滅亡しているし、そもそもデータがボロボロで再生することすら不可能だろう。仮にもし再生できたとしても、一体いまさら何ほどの意味があろうか。
 我那覇は本人の望み通り、ジャーナリストとなって二十年後にアメリカで凶弾に倒れた。では、わたしは? あずさは自分自身に問いかけた。小説家になる夢など、とうの昔に捨て去って、平凡な主婦に甘んじる毎日……。我那覇、あんたは夢を実現したんだね。
 あずさは、もう一度、小説を書こうと強く、強く思った。そう、夢を追いかけるのに遅すぎることなんてない。家に帰ったら、パソコンの電源を入れて、長らく使っていなかったワープロソフトを起ち上げて、こう入力しよう。

「ありがとう! 我那覇!」
                     完


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