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作品名:魔の葉 作者:鷺町一平

最終回   1
序章

 その時すでに、母は僕の腕の中で虫の息だった。
母の身長程もある、あの巨大な塊が母を直撃したのだからひとたまりもなかった。
「アタシが馬鹿だったのよ……。あんな奴を信用したばっかりに……」
 それが最期の言葉だった。母は僕の腕の中で息をひきとった。
 あたり一面に咲いた曼殊沙華の花がそよ風に揺れる、穏やかな秋の日の午後だった。母は不慮の事故で天国に召された。
 とめどなく溢れる涙が頬を伝って草原に落ちた。
「絶対に許せない! 母さん、この仇は必ずとるよ!」
 僕は母の亡骸の前で天に誓った。

第一章「高い壁」



 下手を打った。何もかもが燃えるような緑だった。
 風薫る五月の新緑の季節、青々と繁った柿の木の枝葉の間を俺は滑るように移動していた。俺は若く、体中に力が漲(みなぎ)っていた。出来ないことは何一つないかのように感じていた。それが油断を生んだのかもしれない。
 俺は隣の枝に飛び移ろうとしていた。鎌首をもたげてその準備に取り掛かろうとしていたところだった。その、あまり太くない枝は、俺の体重を支え切れなかった。ボキッという鈍い音がしたかと思うと、なすすべなく俺は落下した。 
 それでも下が地面ならどうってことはなかった。ところがなんという不運であろうか。俺が落下した真下には、コンクリートで出来た円筒形の「サイロ」が大きく口を開けていた。なお悪いことに高さが一メートルくらいあるそのサイロは、半分くらいまで水が溜まっていた。俺はその中に折れた枝ごと落ちてしまったのだ。
 冷たく、濁った水の中でパニックになりながら、俺は必死で体をくねらせてもがいて、水面から顔を出した。
 垂直にそそり立ったコンクリートの壁はどう考えても、這い上がるのは無理に思われた。円筒の縁まで、優に五十センチメートルはありそうだった。
 俺は、沈まないようにするだけで精一杯だった。一体どうしたらこの窮地から逃れられるのか? ともすると口の中に入ってくるこの濁った茶色い水を出来るだけ飲まないように、溺れそうになりながらも必死に知恵を絞った。だがいい考えは何も浮かんでこなかった。
 もう一生、永遠にここから出られないのではないかと考えると、脳裏に絶望の二字が浮かんだ。必死にその不吉な考えを打ち消そうと努力する。どんな苦境に陥ったとしても決して諦めてはいけない。必ず道はあるはずだ。もう一人の自分が耳元で囁く。そうだ、何があっても希望を捨ててはいけない。
 その時、サイロの縁から不意に人間の顔がのぞいた。イガグリ頭に絣(かすり)の着物、肩から白いズック製の学生鞄を下げていた。そのイガグリ頭の少年は、俺を見つけるととても驚いたようで一瞬全身を硬直させた。その顔には恐怖の色も浮かんでいた。そして、すぐに顔を引っ込めた。
 しかし、しばらくすると、おずおずとまたそのイガグリ頭がのぞく。今度はじっと俺のことを凝視している。ひしひしと全身にその刺さるような視線を感じていた。少しの間、並々ならぬ興味を持って俺を観察していたイガグリは、去っていった。
 彼は次の日もやってきた。また昨日のようにしばらく俺をじっと見つめた後に、彼は意を決したようにどこからか、竹竿を持ってきた。イガグリはその竹竿の先端を上目使いでちらっと眺めると、先端をサイロの中に突き入れてきた。
 これはいったいどうした事なのだろうか? もしかしたら俺を救い出そうとしているのか? それとも全く別の意図があるのだろうか? 俺は訝(いぶか)った。だが躊躇っている時間はなかった。イガグリの真意がどこにあるか分からないにしても、これはここから脱出する千載一遇のチャンスであることは間違いなかった。俺は差し出された目の前の竹竿に縋(すが)りつくことにした。身体をくねらせ、竹竿に絡みついた。
 このままイガグリが竹竿をゆっくり持ち上げて、円筒形のサイロの縁の外まで移動させてくれれば、俺は確実にこの地獄から抜け出せる……そう思った刹那、俺の希望は打ち砕かれた。
 イガグリは、竹竿を勢いよく引っ込めたのだ。バランスを崩した俺は、再び水面に叩きつけられ派手な水しぶきを上げて、サイロの水たまりの中に水没した。夢中で水面に顔を出した俺が見たものは、サイロの縁から覗くイガグリの悪魔のような薄笑いだった。
 最初から少年は俺を助ける気などなかったに違いない。助けるようなふりをされて突き放された時の絶望は、なまじ助かるかもという期待が膨らむ分、余計に深くなる。イガグリは俺を助けるそぶりを見せて突き放すことで気まぐれで残酷なサディストのようにどす黒い欲望で俺を弄んで楽しんだのだ。サイロの茶色い水の中でなかば溺れそうになりながら、なすすべもなくジタバタする俺の様子をしばらく窺ったのちに、少年はイガグリ頭をぽりぽりとかきながら、黄色い歯をむき出して、ゾッとするような笑いを浮かべると踵を返して去っていった。
 俺がこのサイロに落ちてから、一週間が過ぎた。
 沈まないように水面を泳ぎ続けるというのは、恐ろしく体力を消耗する。元々空腹だった俺は、そろそろ限界を迎えつつあった。ちょっと気を許すと身体が水の中に沈んでいく。腹が減りすぎて、目の前が霞んできやがった。サイロの垂直の壁が普段より尋常でなく高く見える。
 イガグリ少年は、毎日決まった時刻になると俺の様子を覗きにきた。それはまるで、俺がこのサイロ地獄の池であと何日持ちこたえられるかを測っているかのような冷たい氷のような目だった。
 今日は、水面に落ちてきた葉の上にアメンボがのっているのを発見した。獲物だ。俺はゆっくり、アメンボに気づかれないように背後にまわり込むと、一気呵成に捕食にかかった。直前に俺の気配に気づいたアメンボは、その長い脚で水面の表面張力を利用して、滑るように逃走をはかったが、俺は必死にその脚に食らいついた。
 アメンボの脚は意外に丈夫だ。俺はそのまま一気に水中に引きずり込むと、夢中でアメンボを大量の水ごと飲みこんだ。久しぶりの獲物だった。これっぽっちで空腹が癒せる訳がない。一時しのぎに過ぎなかった。だがなにも口に出来ないよりはマシだ。
 アメンボを食した後は、本当にそう思った。ところが、空腹は少しでも食べ物が胃に入ったのちにより増幅されるものだということを初めて知った。気が狂いそうなほどの空腹が襲い掛かってきた。もはや瀕死状態の俺の顔にポツリポツリと雨粒が落ちてきた。
 やがて雨粒の勢いはたちまち大きくなり、まるで滝つぼをひっくり返したような豪雨となった。しばらくはぼーっと雨に打たれていたが、はっと気づいた。この勢いで雨が降り続いてくれれば、サイロが溢れることがあるかもしれないと思い至った時、胸が打ち震えた。
豪雨よ! 降り続いてくれ! と痛切に願った。事実、水位はどんどん上がっていった。俺の期待はどんどん膨らんでいった。だがある時点から土砂降りが続いているのにも関わらず水位は一向に上がらなくなった。俺の希望は打ち砕かれた。サイロに罅(ひび)が入っていたのだった。
 
 とうとう俺がこのサイロに落ちてから、二週間が過ぎた。もう限界だった。あれ以来全く獲物にはありつけない。ずっと水中にいるので、ウロコがふやけてきた。目の前が暗くなり視界が狭まってきた。
 俺は最後の力を振り絞り、鎌首をもたげて俺が落ちた柿の木の枝を仰ぎ見た。あそこから落ちさえしなければ……。痛恨の思いが胸を焼き焦がした。
 その柿の枝の中に、ひときわ青々と繁る大きな一枚の葉があった。周囲の葉たちよりもひとまわり、いやふたまわりも大きく、葉の色艶も周囲の葉たちを圧倒していた。俺は一度は助けるそぶりを見せたあのイガグリ頭の少年を思い浮かべた。
 なぜあの時彼は、救いの竹竿を直前になって引っ込めたのか……、恨みはつのる一方だった。俺が生きている最後にみたものは初夏の陽光に透けるきらきらとした葉っぱの葉脈だった。俺は意識を失い、ゆっくりと濁った茶色の水の中に静かに沈んでいった。



 少年の家には、槇(まき)の生け垣があった。家の敷地を囲っている槇塀(まきべい)は立派なもので、高さは優に二メートルを超えていた。手入れは主に父親と祖父が行っていた。槇塀は母屋に向かって回り込むように植えてあり、その槇塀の途切れた先には庭の入り口に向かって、そびえるような大きな梅の木があった。その梅の木の奥に作業場があり、脱穀機などの農機具を入れておく小屋があり、さらに奥には養蚕のまゆ箱などが置かれていた。
 その小屋の脇に柿の木があった。この家の家人はあまり柿が好きではなかったので収穫は家人たちも期待していなかったようだが、枝は自由奔放に四方に伸びていた。もちろん槇塀のほうにも際限なく枝は伸びていたが、さすがに美しいと評判の少年の家の槇塀の景観や見事な枝ぶりの梅の木に悪影響を与えかねないような枝は、少年の父親や祖父が神経質なくらいに剪定していた。
 だが、目立たない反対側の枝には無頓着だった。一本の枝が野放図にサイロの上まで伸び切っていた。表通りからは見えない槇塀の裏側にまるで隠れるように、すでに使われなくなった半地下式のサイロがふたつ、ひっそりとあった。半地下式なので地上から一メートルくらいまでコンクリートの円筒が出ている。
 直径一・五メートルほどのサイロには雨水が溜まっていた。奥のサイロは、ギリギリまで雨水が溜まっていたが、手前のサイロは満水にならずに半分ほどでとどまっていた。コンクリートに罅(ひび)でも入っているのか、いくら雨が降ってもそれ以上水位が上がることはなかった。
 五月のある日、学校から帰ってきた少年は、何の気なしに、この半地下式のサイロを覗いてみた。少年は驚愕した。なんとサイロの内側に溜まった雨水の中に青大将が落ちているではないか! 少年は蛇が大嫌いだったので、思わず首をすくめた。だが同時に好奇心も人一倍旺盛だった。少年は恐る恐るもう一度、首を伸ばしてサイロの中を覗いてみた。
 やや角ばった頭を持ち、くすんだ緑色で濃い褐色の縦縞があった。体長は一メートルくらいであろうか。まだ若い個体に違いなかった。青大将は円筒形のサイロの中をぐるぐる回るように泳いでいた。時々、鎌首をもたげて、恨めしげにこっちを見ているように少年には感じられた。しばらくサイロの内周を旋回しながら、くねくねと泳ぐ青大将を眺めていた少年は、急に踵を返すと母屋のほうに走り去っていった。
 縁側にズック製の白い学生鞄を放り投げると、駆けてきた勢いを全く殺さずに器用に三和土(たたき)に走りながら下駄を脱いで座敷に飛び込むと、奥の六畳で洗濯物を畳んでいた母親に息せき切って報告した。
「母ちゃん、母ちゃん! 作業場の柿の木の下のサイロに青大将がいるよ! サイロの内側をぐるぐる回りながら泳いでる。青大将って泳げるんだねぇ!」
「近寄るんじゃないよ。危ないからね」
 忙しそうに大量の洗濯物を畳んでいた母親は、さしたる興味も示さず月並みなことしか言わなかったので、少年はちょっと不満だった。もっと驚いて興味を持って欲しかったのだ。やはり大人はつまらないと、彼はその時思った。
 翌日、学校から帰ってくると少年は、縁側にズックの白い鞄を放り投げると、一目散にサイロに向かった。おっかなびっくりサイロの内側を覗き込むと、青大将は昨日と同じく、ぐるぐると回りながら泳いでいた。
しばらく見つめたのち、少年は昨日からずっと考えていたことを実行に移した。すなわち、この蛇を助けてやろうとすることであった。
少年はどこからか、竹竿を持ってきていた。その竹竿の先端をサイロの中に差し入れた。先端は青大将が周回している水面にもう届きそうだ。警戒しているのか、助けようとしている意図が伝わらないのか、なかなか竹竿に身をあずけようとしないことにじれて、少年はサイロの縁(ふち)に手をかけて身を乗り出した。青大将はようやく竹竿に乗り移ろうとしていた。そのとき少年の手が、サイロに近い部分の柿の葉に触れた。
突然、少年は気が変わった。蛇を助けずにこのままにしたらどうなるのだろうかという興味がわいたのだ。その残酷な結末を思い浮かべたとき、少年は口の端に張り付いた微かな笑みとともに、竹竿をサイロから引き抜いてしまった。まさにその瞬間に竹竿に飛びつこうとしていた青大将は、なすすべもなく派手な水しぶきをあげて、その身体を水面に打ちつけた。その飛沫がかかり、先ほど少年が触れたひときわ大きい柿の葉が揺れた。
それから、毎日、少年は学校から帰ってくると、まず最初にサイロを覗いた。最初の数日こそ、勢いよくサイロの中をせわしなく動き、泳ぎ回っていた青大将だったが、日がたつにつれ動きが緩慢になってきた。
 そして二週間が過ぎたある日、少年がいつものように学校から帰ってきて、ズックの鞄も肩から斜めがけしたままに、サイロを覗き込むと、青大将は消えていた。少年は焦った。青大将が逃げたと思ったのだ。蛇にとって垂直に切り立った壁からいったいどうやって脱出したのだろうか? 少年は周囲を見渡した。すでに六月に入っていたが、初夏の風にサイロの周りの樹木の葉がささやかにそよいでいるだけだった。
それからも少年は毎日、サイロを覗きに来た。さらに一週間が過ぎた。夏を迎えようとしていた。覗き込んだ少年の額にうっすらと汗が光る。いつものようにサイロを覗き込むと少年は身を固くした。全身が恐怖にとらわれ、身動き一つできない。サイロの縁にかけた手が小刻みに震えた。脇の下から冷たい汗が流れ出た。
薄茶色く濁ったサイロの水面には、白骨となった蛇の骨が漂っていたのだった。

第二章「ライバル」



 夢を見ていた。かおりはミュージカルスターになることが夢だった。青春をその夢に賭けてきたのだった。まさにその夢がかなう瞬間だった。
 舞台の幕が上がる。目の前には大勢の観客と鳴りやまない拍手。いくつものスポットライトに浮かび上がるかおり。ところが歌いだそうとするが、声が出ない。いやだ、どうしちゃったんだろう? 喉が焼けるように熱い。激痛が喉にはしる。舞台の袖をみると主役を争った妙子がほくそ笑んでいる。妙子! あなたね! スペシャルドリンクに何か入れたわね! 一向に主役が歌いださないので、観客はざわめきだす。かおりは顔面蒼白になる……。

「かおり! かおり!」
 どこかで誰かが呼んでいる。全身にあぶら汗をかいて、病院のベッドで安具楽屋(あぐらや)かおりは喉を抑え咳き込みながら目覚めた。傍らにはマネージャーの中村久美子が心配そうに、かおりの顔を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか? だいぶうなされていましたけど……」
「ごめんなさい……。夢をみていたらしいわ。やっとつかんだ大役を妙子に奪われそうになる夢をみるなんて、なんかおかしいわよね。私たち親友同士なのに」
 かおりは、力なく笑った。
「そうだったんですか。きっと神経が高ぶっているのかもしれませんね」
「でも、こうしてベッドに横たわっているわけだから、結局私の夢は潰(つい)えたのね……。そういえば、マネージャー、先生のお話はなんだったの?」
「あ、いえ、これからの治療方針の確認ですよ。最短でかおりさんが舞台に戻れるようにするためには、どういう治療方針でいくかという相談を院長の品井田先生としていました」
 中村久美子にとって、二人三脚で長年苦楽を共にしてきたいわば戦友ともいえる安具楽屋かおりに嘘をつくのはマネージャーとしても付き人としても心苦しかった。ましてや劇団シベリア座の看板女優に手が届きそうになったこのタイミングで、病に倒れたかおりを前にしてはなおさらだった。
 安具楽屋かおりは重い肺炎を患っていた。院長の品井田に呼ばれたのは事実だったが、その実情はずっと深刻なものであった。
「重い肺炎であることは間違いありません。それもかなり重篤です。ただ、我々も出来るだけの治療は行っている。問題は患者の生きようとする意欲なんですよ。私のみたところ、患者自身に生きようとする気力がどうにも認められない。本当に安具楽屋さんは生きたい、この病気に打ち勝ちたいと思っているのでしょうか? どんなに最新の画期的な治療や素晴らしい投薬を行ったとしても、患者本人に生きようとする意欲がみられないのでは、はかばかしい結果は得られるものではありません。このままでは長く持ちませんよ」
 こう言われてきたのだった。久美子は。それでもなんとかするのが医者の務めだろう。患者に責任転嫁するつもりなのかと心の中で悪態をついてはみたが、この場で医者と口論しても何も得るものはないと黙って院長の話を聞いていたのだった。
「ねえ、カーテンを開けて」
 久美子が病室のカーテンを開けると中庭が見えた。三階のかおりが入院しているこの個室からは、中庭に生えている見事な枝ぶりの柿の木の全景が見えた。その柿の木には、先日まではたわわに実った柿の実がなっていたはずだが、今日見ると見事に無くなっていた。
「かおりさん、いつの間にか柿の実が消えていますよ。きっと誰かがとっていったんだわ。そういえばこの中庭の柿の実は美味しいって、看護師長の仁科さんも言ってたもの。きっと毎年争奪戦になるのかもしれませんね。あとはもう葉っぱしか残っていないですね。私たちも食べたかったですよねぇ。そんなに美味しい柿だったら……」
 振り返ると、かおりは何かブツブツと言っていた。
「ああ、もう二十枚を切ってしまったわ……。昨日は三十枚以上あったというのに」
「なんのことです?」
「残りの柿の葉の数よ。昨日は三十二枚あったのに、今日はもう十四枚しか残っていないわ。あ、また落ちた。これで十三枚よ」
「数えていたんですか? それがなんだっていうんです?」
「天気予報では夕方から台風が来るっていうし、明日には葉っぱも全部無くなっているわね。あの柿の葉が全部落ちてしまったとき、きっと私の命の灯も消えるのよ。長い間私を支えてくれてありがとう、久美子。ずっとふたりで頑張ってきたわね、私たち……。でももう明日でお別れよ……」
「何、バカな事言ってるんですか! あの柿の葉とあなたの命と何の関係があるっていうのよ! そんな弱気なこと言い出すなんて全くあなたらしくもないわ。そんなこと言い出すんなら、台風も来ることだしカーテンは閉めさせてもらいますからね!」
 怒気をはらんだきつい言葉で言い放つと、久美子は乱暴にカーテンを閉めた。
 天気予報通りに午後からは雨になった。夕方に近づくにつれて、風もどんどん強くなってきていた。
 午後七時過ぎ、横殴りの雨の中、病院の玄関に黒塗りのハイヤーが横づけされた。降りてきたのは劇団シベリア座の二枚看板のひとり、那須妙子とそのマネージャー、六郷仁だった。那須妙子は、安具楽屋かおりのライバルにしてかつ親友でもあった。
 那須妙子は大げさな身振りと共に、かおりの病室に飛び込んできた。後に続いた六郷は大きな花束と果物バスケットを抱えていた。
「かおり! なかなか来られなくてゴメン!」
 芝居がかった声を張り上げて、個室に入ってきた妙子だったが、すぐさまかおりのマネージャー中村久美子が指を唇にあてて制したので、妙子は出鼻をくじかれた格好になった。
「かおりさんは、高熱が出てさっきまでとても苦しがっていて、解熱剤と鎮痛剤を打って今しがたようやく眠ったところなんです」
「そうだったの。ごめんなさい。次の舞台の『椿姫』の通し稽古(ゲネプロ)が押してこんな時間になってしまったの」
「妙子さん、少しお話があります。病室じゃなんだから、談話室に行きましょう。六郷マネージャーもどうぞ」

 久美子の話を聞き終えた妙子は著しい喉の渇きを覚え、六郷が自販機で買った目の前のコーヒーの紙コップに手を伸ばそうとしたが、その指先は小さく震えていた。
「……そんな。あのかおりが生きる気力を失っているだなんて信じられないわ。O・ヘンリーの『最後の一葉』じゃないんだから、柿の葉が全部落ちたら自分も死ぬ? なんでそんなこと考えるのかしら? そんな弱気はどこから湧いてくるのよ! 私が親友として絶対かおりを死なせはしないわ!」
「それは私も言ったんです。でもあの人、思い込んだら一途でしょう。なんであんな考えにとらわれてしまったのかしら」
「確かにかおりはそういうところがあるのは否定しないわ。あの子ちょっと神経質なところがあるの。感受性が強すぎるのかもしれない。役に入り込むと他になにも見えなくなったりするのよ。かおりと私はシベリア座に入ったのも同期。ずっとライバルとして切磋琢磨してきたのよ。だけどライバルだけどその前に親友なのよ。親友が生きる希望を見失いつつあるのなら、私が絶対にかおりを助けるわ!」
「ありがとう。妙子さん。かおりさんもきっと喜ぶと思います」
 無理に笑いを作ろうと力なく微笑んだ久美子の隣で、六郷は腕を組んで天井を見つめていた。
 談話室の一角のテレビでは、台風が接近しているので十分に注意して、警戒を怠らず、戸締りをしっかり行うようにとお天気キャスターが注意を促していた。
 久美子が病室に戻った後、取り出した煙草に火をつけようとして、妙子に病院は禁煙だよと注意され渋々ポケットに煙草を戻しながら、六郷はぽつりと言った。
「俺ぁ、あんたと安具楽屋かおりは仲良さそうにふるまってはいるけど、本当は仲が悪いんだとばかり思ってましたよ。あんたはライバルの前に親友だって言ってたけど、俺に言わせれば“ライバルに友情なし”だ。この世界は、いかに相手を出し抜くかだ。要は売れた者勝ち。人気が出た者の天下だ。そこに実力の有無は関係ない。ずっとそう思ってやってきた。俺は、こう見えてもあんたのマネージャーになってまだ日は浅いが、この業界はそれなりに長いんでね。事実、過去に仲が良かったはずなのに、役を争いだしたら途端に口も利かなくなっていがみ合う関係になったなんて話は、それこそ掃いて捨てるほど見聞きしてきた」
 椅子の背もたれに肩ひじをかけながら話していた六郷は手持ち無沙汰なのか、立ち上がって自販機でコーヒーを買っている。
「だから、あたしたちもそうなんじゃないかって疑っていたってわけ?」
 飲み干した紙コップを手の中で弄んでいた妙子の前に、六郷は二杯目のコーヒーの紙コップを置いた。
「まぁね。だからあんたと安具楽屋かおりの絆の強さに……というか、かおりを絶対守るってあんたの宣言がちょっと意外というか、ありていに言えばこころ打たれたんだ」
 再び自分の椅子に戻った六郷は、自分の分のコーヒーをゆっくりと口に運ぶ。
「言ったでしょう。アタシとかおりは劇団に入ったのが同期なの。その頃アタシは東北からスター目指して上京したばかりで、訛りが酷くてね。よくからかわれたりしてたの。そしたらかおり、かばってくれてね。それがキッカケで私たちはだんだん打ち解けていったわ。仲良くなってお互いのアパートにも行き来したわ。アタシはボロアパートだったけど、かおりはいいところに住んでいたわ。泊りに行っていろんなことを話したわ。演劇論とか将来の夢とか……。
ある時どういう流れか、子供の頃の話になったの。アタシの実家は貧しい農家で、子供の頃、口減らしのために父親に真冬の川で頭を押さえつけられて、あやうく死にかかったことがあるっていう話をしたら大泣きに泣いてくれた。アタシはアタシで、そこまで親身に話を聞いてくれる人なんていなかったから、感激してふたりでファミレスでわんわん泣いちゃってね。周りからみたら変な人だよね。若い娘が二人そろって、人目も気にせずわんわん大泣きしてるんだから。
 かおりは神戸の芦屋出身のお嬢様育ちで何一つ不自由なく育ったんだけど、アタシの話を聞いて、自分は恵まれすぎてるって言ってね、別に親との関係は悪くなかったんだけど、関係断ち切っちゃったんだ。とことん自分を追い込まないとアタシと勝負できないなんて言い出してね。変な子でしょう?

 だから、こんな状態になっても家族だれも来ないでしょう? 連絡してないんじゃないかな。つまりかおりの決心を物語っているんだよ。アタシに対する強烈な対抗心が根っこにあるのよ。それはアタシも同じ。アタシたちはお互いがお互いを必要としていて、より高い次元に自分たちを引っ張り上げようと手を差し伸べ合ってるんだ。だからどちらか一方がいなくなると困るんだよ。“絆”とかそんなきれいごとじゃないさ。アタシにとってもかおりに死なれると酷い痛手なんだよ。さぁ! 柿の葉を死守するよ!」
 妙子は残っていたコーヒーを一気に飲み干すと手の紙コップを一気に握りつぶした

「まさか、本当にやるのか? こんな台風の晩に?」
「当たり前じゃない。口先だけで親友ヅラするんだったら、誰でもできるっしょ! アタシたちの友情は違うの!」
「安具楽屋かおりを説得するほうが先なんじゃないのか?」
「六郷、あんたはまだかおりをよく知らないから、そんなことが言えるんだよ。かおりは思い込んだら後戻りできないんだよ。いつだったか恋人に振られて絶望する役に入り込み過ぎて、本当にリストカットして救急搬送されたことだってあるんだよ」
「マジか?」
「あの子が、ああいうこと言い出したらシャレにならないんだよ。だから真剣に心配してるんだよ、本当に葉っぱが全部落ちたら死にかねないんだよ。だから絶対アタシはかおりを守る!」
「分かった! 那須妙子の中には熱い血潮が流れてるんだなぁ! なんかムネアツ」
「とにかくその中庭の柿の木っていうのを見てみなくちゃわからないわね。この談話室から見えるの?」
 二人は窓際に行って覗いてみた。
「あれか……。でも暗くてよくわからないなぁ」
「ベランダに出てみるかい?」
「うん」
 二人はベランダに出てみた。横殴りの雨がまともに顔に吹き付ける。
「うわ〜っ、この風雨じゃあ、あっという間に柿の葉なんてとんでいっちゃうわね」
「これは無理かもな〜」
 たまらず談話室に戻ってくるとびしょ濡れになった髪や服を妙子と六郷は拭った。
「六郷、劇団の小道具係に電話して。ブルーシートと脚立持ってこさせて。できれば人も何人か」
「え〜っ。この台風のさなかにどうするんだい? まさか……」
「その、まさかよ。柿の木にブルーシートをかけて葉っぱが落ちるのを阻止するのよ」
「台風が来てるのにそんなことしたら、かえって危ないって!」
「早く電話して!」
「そこまでしなくたって、アンタの誠意は十分、かおりさんに届いてるって!」
「六郷、あんた、私のマネージャーでしょ。ごちゃごちゃ言わないでさっさとやりなさいよ」
「わかったよ〜。ほんと、人使い荒いなぁ……」
 ブツブツ言いながら、六郷は携帯を取り出した。

 実際、妙子にとっても、とてつもなく無謀なことは分かっていた。こんな台風のさなかに柿の木をブルーシートで被う? それも何のためかといえば、ライバルであり親友でもある同期の、柿の葉が散れば自分の命も尽きると信じているなんとも非科学的な言動が発端なのだ。馬鹿なことをしているのは理解していた。でも、かおりはやりかねないのだ。あの、エキセントリックなかおりなら! これは一種のヒロイズムに他ならなかった。こんな自分勝手なヒロイズムに六郷仁を突き合わせるのは、少々心苦しかったが、もう後には引けなかった。
 雨脚は断続的に強まったり弱まったりを繰り返していたが、やむ気配はなかった。
 数十分後、劇団から呼んだ小道具係がワゴンにブルーシートや脚立を積みこんで到着した。
「なんだ、高橋。お前ひとりか? 斎藤はどうしたんだよ。二人で来るって電話で言ってなかったか?」
「そうなんすけど、斎藤は家に電話したら、こんな台風の夜に何やってんのよって奥さんにどやされたらしくって、勘弁してくれって言われちゃって。まぁ俺、ひとりもんだし」
 悪びれずに高橋と呼ばれた青年ははにかんだ。
「そうか。こんな夜に済まないな」
 六郷が詫びると、高橋は照れながら言った。
「那須妙子さんに呼ばれたら来るっきゃないっしょ」
横殴りの雨と風の中、六郷マネージャーが小道具係の高橋と協力して持ってきたブルーシートを広げようとした途端にブルーシートは強風に煽られて、中庭の柿の木の幹に張り付いた。
 先ほどから雨脚も風も次第に凪いできていた。一時的に台風の目に入ったらしかった。
「凪いだわ。今よ。ブルーシートで柿の木全体を覆って粘着テープで固定するわよ!」
 妙子と六郷と劇団から呼ばれた小道具係の高橋は脚立を引っ張り出すと、引っかかっているブルーシートを再び広げて柿の木を覆いにかかった。三人でブルーシートを引っ張っていく。まだ柿の葉は十枚以上残っていた。その中のいちばん色のいい大振りの葉に触れたとき、妙子の心の中にある変化が起こった。
「なんだ、まだけっこう葉っぱ、残ってるわね。これなら大丈夫かもしれないわね」
「そんなわけないでしょう! ほら、また少し、風と雨が酷くなってきた」
 六郷がそういったそばから握りしめていたブルーシートがバタバタと風をはらんで膨らみ始めてたまらず六郷は手を離した。ブルーシートは広げることもままならず、反対側でシートの端を掴んでいた高橋が飛ばされて行かないように抱え込むだけで精一杯だった。再び風雨は強くなり、六郷も妙子もすでにびしょ濡れだった。もちろん簡易的なレインコートは身に着けていたが、ほとんど役に立たなかった。
「あ〜っ、やっぱり無理だって! やめたほうがいい! これから、もっと暴風雨になるぜ。下手したら大けがしちまう!」
 妙子はもう、六郷の声など耳に入っていなかった。
 かおりが自分の命を柿の葉に託しているのなら、それもいいじゃないの。柿の葉が全部散ったら自分も死ぬというんなら、そうすればいいんだわ! 冷静に考えてみればかおりがいなくなれば、劇団の主役は私ひとり。天下だわ。妙子は六郷にも、高橋にも見られないように舌なめずりをしたのだった。その表情たるや知らない人が見たら怖気をふるっていたかもしれない。それほど醜悪であった。
 妙子は、柿の木の枝を折って、適当な長さにすると、残り少ない柿の葉をばさばさとその枝で払い落し始めた。それを見咎めた六郷が驚いたように妙子の両腕を掴み、止めに入った。
「ちょっと! 何やってるんだよ! 友情のために葉っぱを守るんじゃなかったのかい?」
 まともに顔に降りしきる雨で髪から雫を滴らせながら、こともなげに妙子は言った。
「気が変わったのよ! 文句ある? 劇団シベリア座のスターはやっぱり私ひとりで十分だわ! こんな葉っぱが落ちたくらいで死ぬ死ぬ言ってるような奴はサッサと死ねばいいのよ!」
 普段の美しい顔からは想像もつかないような悪鬼の形相で憎々し気に妙子は歯をむき出して笑った。六郷は信じられないものを見てしまったという表情であっけにとられて妙子の顔を凝視すると、力なくその手を離した。電話で呼び出され、わけがわからないままブルーシートをかける作業に駆り出されているシベリア座の小道具高橋も、ひとが変わったような妙子を見て困惑したような表情を浮かべている。
 妙子は六郷に握りしめられていた手が再び自由になったので、引き続き葉っぱを叩き落し続けた。ついに葉っぱは最後の一枚になった。あのひときわ大きい青々とした一枚が最後まで残ったのだ。ところがこの最後の一枚は何をどうしても落ちなかった。意地になった妙子は枝を投げ捨て、地上二メートルほどにある最後の一枚を落とすため自ら脚立に乗り、手で葉っぱをむしり取ろうとしたが、それでもちぎれもしなかった。六郷は強風で脚立が倒れてはいけないというので、高橋と共に下で脚立を支えていた。
 小声で六郷に高橋が囁いた。
「六郷さん、今夜の妙子さんはいったいどうしちゃったんですか? わけわかんないっすよ」
「高橋、悪かったなぁ。俺も正直わけわかんないんだよ。看板女優のわがままだと思って我慢してくれ」
「俺なんて、那須妙子に憧れてシベリア座にはいったようなもんですから別にいいっすけど、こんな雨に濡れて風邪ひかないっすかね? 俺らなんて別にどうなってもいいすけど、安具楽屋かおりに続いて、那須妙子まで入院でもしたら劇団もちませんよ」
 六郷は高橋がいうことも尤もだと思ったが、なにしろ那須妙子も言い出したら後には引かない性格であることは、よく知っていた。ここで下手に意見でもしようものなら火に油を注ぎ混むようなもので、余計意固地になるだけなのは目に見えていた。好きにさせるしかないのだ。それが女優という生き物なのだと思い込もうとした。否、ここで強く出られないのが自分の弱みなのだということは自覚していた。よくよく考えてみれば、友情云々よりも安具楽屋かおりに対してマウントを取りたい、要するに圧倒的優位に立ちたいだけではないのかという気がしないでもない。だがそうすると何のために葉っぱを叩き落す意味があるのだろうか。考えると余計迷路に迷い込む気がして、六郷は脚立の上の那須妙子を見上げようとしたが、たちまち大粒の雨が目に入り、思わず顔を背け、そして考えることを止めた。
 どうしても最後の一枚をむしり取ることが出来ないことが分かり、那須妙子は逆上した。
「高橋! お前、仕事場から直接来たんでしょう? 腰に小道具係の七つ道具が入ったポーチつけたままよね?」
 脚立の上からの突然の指名に高橋は困惑気味に答えた。
「えっ、あ、はい」
「ちょっとハサミ出して!」
 高橋が当惑気味に差し出したハサミをひったくるように受け取ると、とうとう最後の一枚の葉っぱを妙子は根元から切断した。
「やった!」
 妙子は不敵な、そして不気味な暗い笑みを浮かべた。
 その刹那、強い懐中電灯の光の輪が妙子を包んだ。反射的に妙子は左腕にブレスレットのように通していたブルーシート固定用の粘着テープを剥がすと、たった今ハサミで切り取ったばかりの葉っぱを枝に粘着テープで張り付けた。
「危ないですよ〜っ。柿の木から降りてくださーい」
「眩しいです。ライトを消してください」
 左手で葉っぱを押さえながら、右手を額の前で庇(ひさし)にして目を細めながら、脚立の上から妙子は叫んだ。
「これは失礼しました」
 強力なライトはすぐに消えた。
「台風はこれからさらに強くなる予定ですからすぐに木から降りて、撤収してください」
 警備員の制服を着ている初老の男と、その隣には眼鏡をかけた病院のナース服の白衣を着たふくよかな中年女性が立っていた。
「私は、この病院の看護師長をやっている仁科と申します。八号室の中村さんからお話は伺っておりますので事情は存じております。なんて素晴らしいんでしょう! 無償の愛ですわ! 私もクリスチャンですから、その友情には頭が下がります。あ、もしかしてそちらは最後の一枚ですか? 文字通り、台風の危険も顧みずに最後の一枚を身体を張って守ってらっしゃるのね! なんて麗(うるわ)しい友情なんでしょう! 感激で胸が震えます! でもこれからますます風雨が強まるという予報が出ていますから、どうぞ無理をなさらずに降りてきてください」
「ありがとうございます、仁科看護師長。実は私もクリスチャンなんです。これから讃美歌三百三十二番を歌います!」
「まぁ! 劇団シベリア座のトップスターの歌声を生で聴けるんですね」
 看護師長は感激に打ち震え、胸の前で十字を切った。
「六郷さん、これはいったいどういう展開なんですか? こんな暴風雨の夜に中庭で柿の木に登ってたら、普通頭おかしい奴と思われて通報されても仕方ないですよね? それなのに看護師長たる立場の人がなんか感激してるんですけど……いったいどうなってるんですか?」
「俺にもどういう展開だかさっぱりわからない。俺たちの頭越しのこのイカれた会話はなんだ? 普通、この状況下で讃美歌とか歌うか?」
 脚立の下でなされた六郷と高橋の会話を尻目に、心が通じ合った妙子と看護師長はお互いの目と目でアイコンタクトをして頷き合った。そして暴風雨にかき消されないように、ミュージカルで鍛えた声量マックスで、朗々と妙子は歌い始めた。

主はいのちを あたえませり
主は血しおを ながしませり、
その死によりてぞ われは生きぬ、
われ何をなして 主にむくいし。

 台風の夜の中庭に響き渡った美しい歌声は、実際に中庭に面したいくつかの病室の電気をつけさせいくつかの窓に人影を立たせカーテンを開け放たせた。これぞ、ミュージカルスターの実力であった。
 看護師長は感動の涙にむせびながら叫んだ。
「なんて素晴らしい! 主のめぐみのあらんことを!」
 そして看護師長は、警備員とともに去っていった。
 ふぅ、助かった! と内心妙子は思った。最後の一枚を切り取ったことがバレたら、何を言われるか分かったものではなかった。虚脱状態で脚立から下りてきた妙子の耳元で六郷が囁いた。
「さっきは意外に思ったけど、俺は、かえって安心したよ。アンタはやっぱり俺が睨んだ通りのひとだ。人間は自分の欲望にストレートに、忠実に生きるべきなんだ、やっぱり! それにしてもアンタ、讃美歌なんて歌えるんだな」
「ふふん、アタシを誰だと思っているの! 女優、那須妙子よ!」
 そううそぶいた妙子だったが、次の瞬間ぐったりと六郷の腕の中に倒れこんだ。
「ひどい熱だ。高橋! さっきの看護師長を呼んで来い!」
 六郷は妙子の額に手を当てながら叫んだ。



 一晩中荒れ狂った台風は、未明に東北方面に抜けてゆき。翌朝は穏やかに晴れ上がった。
 熱が下がり、目を覚ました安具楽屋かおりは、傍らのパイプ椅子で仮眠をとっていた中村マネージャーを起こして、カーテンを開けてもらった。台風一過の清々しい晴れやかな陽の光が病室内に差し込んで、部屋は一気に明るくなった。
 かおりは気になる中庭の柿の木を見た。ほとんどの葉は案の定落ちていたが、最後の一枚がかろうじて柿の木に残っていた。そう、もちろん薬で熟睡していたかおりが知るはずもなかったが、昨夜妙子がハサミで切り落としたのち、看護師長に声をかけられてあわてて取り繕い、粘着テープで張り付けたあの葉っぱであった。普通なら当然落ちているはずである。ところがその葉は、青々として枝に残り、微かなそよ風に葉をそよがせているではないか!
 病室に看護師長の仁科が入ってきた。その表情は微かに曇っていたが、かおりの顔をみると割れんばかりの微笑みを作った。
「どうですか、かおりさん。昨夜、あの最後の一枚の葉を守ってくれたのはあなたの親友である那須妙子さんですよ。あなたは素晴らしいお友達を持っていますね。友情ってなんて素敵なんでしょう!」
「そうだったんですか。ありがとう、妙子……。でも、きっとたぶん明日には散ってしまうわね……」
「そんなことありませんよ……」
 悲しそうに、首を横に振ると仁科看護師長は、それ以上何も言わずに検温が終わると病室を出て行った。
 だが、一日が過ぎ、二日が過ぎ、一週間が過ぎてもあの最後の一枚は散ることがなかった。全く生きる望みを失って、一時は自暴自棄だったささくれ立ったかおりの荒んだ心にも、ようやく希望が芽吹いてきていた。まるで失せていた食欲もだいぶ回復して、久美子に食べたいものもリクエストするようになってきた。一週間前には、一言も口にしなかった舞台のことも気にするようになっていた。すでにだいぶ体力も回復して、ベッドの上に起きられるようになっていた。
「久美子、私、間違っていたわ。人生あきらめたらそこで終わりだって言う当たり前のことにようやく気付いたの。やっぱり私、もう一度舞台に立ちたい。そして歌いたい! こんなこと一週間前には考えもしなかった。これもきっと妙子があの台風の夜に頑張ってあの最後の一枚を守ってくれたおかげね。親友ってなんてありがたいのかしら。
 それなのに、そんなことすら気づかずに、私ったら人生の終わりについてばかり考えていて、そこにしか目がいかずにあの柿の最後の葉が落ちるとき自分の人生も消えてなくなるんだと勝手に思い込んでいた。なんて馬鹿だったのかしら! 私、頑張って生きる。そしてもう一度舞台に立ちたい。お客さんの歓声に応えたい!」
 久美子は、涙が止まらなかった。ようやく前向きにかおりが人生を考えてくれたことがうれしかった。だがそれは同時に大きな十字架を背負うことでもあるのだ。その大変なことをこれから久美子はかおりに告げなければならないのだ。
「そういえば、最近全然妙子来ないわね。どうしたの? 仕事が忙しいの? 私、妙子に謝りたい。それからお礼を言わなくちゃ! あの最後の一枚を守ってくれたことを!」
 黙ってかおりの話を聞いていた久美子は、そっとかおりの手をとり握りしめた。
「あのね、かおり、心を落ち着けて聞いて欲しいの」
「何、あらたまって」
 かおりは、久美子の瞳を不安げに覗き込んだ。
「妙子さんは三日前に亡くなったのよ。死因は肺炎。あの台風の夜、着ていた服から靴までぐしょ濡れになるのも構わず、最後の一枚を守ってくれたのがかえって仇になったのね。その晩酷い熱を出して、すぐこの下の階に入院したのよ。いろいろと院長以下全力を尽くしたんだけれども、三日前に帰らぬ人になったの……」
「そ、そんな……」
 かおりは顔面蒼白になっていた。
「信じられない……。あの元気溌剌な妙子が亡くなった? それなのにひ弱な私は……まだこうして生きている……」
「かおり! 悲観的に捉えないでほしいの。この意味を考えて! 神様は時々私たち人間の理解を超える試練を与えるけれど、意味のないことはなさらないはずよ。これにはきっと大きな意味があるのよ。あなたは道半ばで逝った那須妙子の夢を継がなくてはならないわ」
 久美子はかおりを抱きしめた。かおりは久美子の胸の中でくぐもった声で嗚咽したのだった。どれだけの時間が経っただろうか。嗚咽がやむと長い沈黙が訪れた。久美子はその間中、一言も発せずにずっと優しくかおりを抱きしめたままだった。
 かおりが顔を上げた。泣きはらした涙の跡もそのままに、かおりは呟いた。
「そうね……。悲しんでいる暇はないのかもしれない。今はこの悲しみを封印して、私は女優として歌手として大きく羽ばたかなくてはならない。それがきっと志半ばで逝った妙子の無念を晴らすことにもつながるんだわ! 久美子、私、頑張るわ!」
 ベッドの上で上半身を起こしたかおりは、力強くこぶしを握った。久美子は優しくそのこぶしを握りしめていた。



 話は三日前にさかのぼる。あの夜、雨に打たれて急激な発熱をした那須妙子は、重篤な容体を迎えつつあった。心電図モニターはアラームが鳴り止まず、バイタルサインは著しく低下していた。
「どうも、よくありませんな。今夜がヤマです」
 眉根を寄せながら、院長の品井田は苦々しく言った。
「そんな、馬鹿な……」
「我々としても、やれることは全てやったのですが、全てが異常値を示しており、呼吸不全に陥っています。彼女の命が尽きようとしているのは客観的な事実というほかはありません……」
 病室のベッドから六郷を呼ぶ弱々しい妙子の声が聞こえた。六郷が妙子の元に駆けつけると、妙子は苦し気な呼吸の中で、カーテンを開けるように彼に頼んだ。
 窓の外の中庭の柿の木には、あの夜、間に合わせで粘着テープでくっつけたあの葉っぱがまだ落ちずについていた。 切ったはずの葉があんなその場しのぎの小細工で落ちないはずがなかった。粘着テープは見えなかった。風で飛んだのだろうか? 妙子は目を疑った。一体、何故落ちないんだろう? それよりも何よりも、どうして今まで健康そのもので風邪一つ引いたことのない自分が肺炎になって、今、こんな状態でベッドに横たわっているのか……、そっちのほうがよっぽど不思議であり、不自然で全く納得がいかなかった。
 ああ、胸が苦しい、息が出来ない……。妙子はもう自分が永くないことを悟った。どうしてアタシがここで死ななくちゃならないの! これからアタシの時代が来るはずだったのに! 急激に怒りが湧いてきた。妙子は憤怒の形相で窓の外の柿の木を睨んだ。ただ一枚残ったあの葉っぱは、気持ちよさそうに秋の夜風にそよいでいた。いまだに落ちる気配すらないあの最後の一枚に、ありったけの呪いを込めて妙子は死んでいったのだった。あらゆる処置を施したが、むなしく時は過ぎてゆき、ついに心電図モニターの数値はフラットになった。病室に重苦しい沈黙が訪れた。
「ご臨終です」
 ついに品井田院長の乾いた声が病室に響いた。
「妙子〜っ、俺を置いていかないでくれぇ〜!」
 六郷は息をひきとったばかりの那須妙子に縋りついてさめざめと泣いた。

第三章「種か葉か」



 どこまでも高い天空の遥か上空、我々が“宇宙”と呼ぶ漆黒の闇の中に浮かぶ星々を突き抜けたもっとずっと先
にその世界はあった。そこは光も闇も音も匂いも何もない無の世界。その何もない世界には意思だけが、さんざめいていた。
 便宜上、それを表現するために文字に置き換えてみることにする。この意思のせめぎ合いを、普段私たちが使用している一番わかりやすい言葉に例えるならば、それは『神々の世界』ということになるであろうか。

「いつの頃からか、彼等は心の中の本心を隠す知恵を身につけてしまった」
「それは悪いことなのか……。私にはよいことのように思えるが……」
「さぁ、それはどうかな? 心の中の本当の欲望を押し隠すと、彼等のような不完全な世界では、いろいろと不都合な事柄が生じることになりかねないからな。いつかその不都合さは臨界を超えて核爆発してしまい彼等の世界を滅ぼしてしまいかねない」
「果たしてそうだろうか? 心の中の真の欲望を包み隠して生きるということは、彼等が進化し始めたともいえるのだから、むしろ喜ぶべき変化ではないのか?」
「我々が、彼等を創造した時点では、彼らはもっともっとシンプルだったはず。我々は、意図しない彼等の進化は望まない」
「そこまで我々が手を突っ込んでしまってよいものだろうか? あくまで我々は命を作り彼等の誕生を手助けしただけのこと。それ以降の進化がどうなろうと、それは彼等にまかせるべきではないか?」
「平行線だな。それでは、こうしよう。軌道修正ボタンを彼等の世界に忍ばせよう。そのボタンに触れれば、我らの創造物たる彼等は心の中の本心を増幅する。生き物としての本能を抑えることが出来なくなる。より原点に立ち返ることができるのだ。そして、不利益を被った側が、理不尽だと感じ、《恨み》を抱いたとき、その《恨み》が次の世代への種子となって持ち越されるのだ」
「では、不利益を被ったと感じずに、《恨み》を抱かなければ、連鎖はそこで断ち切れるのだな」
「どうかな。彼等が《恨み》を持たなくなることはありえないからな。何故なら彼等は我々と違い不完全だからだ」
「そうかな? 私はその考えには与(くみ)しない。彼等は不完全に生まれついたとしても、彼等の努力でいつの日か、より完全な生き物になることを希求しているのではないかな?」
「甘いな。君は。では、このボタンを柿の種に埋め込むぞ」
「種ではダメだ」
「何故だ」
「種に埋め込んだ場合、やがて育った葉にも実にも広がってしまう。それでは多すぎる。拡散しすぎるのだ。葉っぱ一枚で充分だ。その葉に触れた者だけが、隠された本心が全開となる」
「よかろう。手始めは柿の葉でもよい。いずれ彼等の世界のいくつかの場所に軌道修正ボタンが置かれることになる」



 猿は、赤い実が見事に鈴なりになっている柿の木を見上げて驚いていた。
なんだ、チクショウ。こんなに立派な柿の実がなるのなら、おむすびと柿の種を交換するんじゃなかったと猿は臍(ほぞ)を噛んだ。
 蟹はそんな猿を見て、こう持ち掛けた。
「猿さん、眺めてばかりいないで、登って柿の実を私にとってください。もちろんお礼に少し柿をお分けしますから」
「よし、蟹さん、ちょっくらオイラが柿の木に登って美味しい柿をとってやるから、待っていな」
「ありがとう。猿さん」
 猿は、その時までは、下で待っている蟹に本当に柿の実をとってやるつもりだった。確かにおむすびと柿の種を交換したのは失敗だったけれど、自分にも柿の実を分けてくれるというのだから、取り立てて損な取引とは思わなかった。
 猿はスルスルとあっという間に柿の木に登って、真っ赤に熟した柿の実をもいで、一口ほおばってみた。すると、そのあまりの美味しさにほっぺたが落ちそうになった。この時、猿は柿の葉っぱに触れたのだった。たちまち猿はこんなにも美味い柿なら誰にも渡したくない、全部独り占めしたいという欲望が心の中に湧き上がってくるのをどうにも抑えることが出来なくなった。
「おーい、猿さん。自分ばっかり食べてないで、こっちにも美味しい柿の実を放っておくれよ〜」
 じれて、柿の木の下で蟹はハサミを振りながら呼びかけた。
「ちぇっ、うるさい蟹め!」
 猿は、ざっと柿の木の枝を見回し、一番青くて硬い柿の実をもぐと、こっちを見上げて今か今かと美味しい柿を待っている蟹をめがけて思いっきり投げつけた。
《了》
 


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