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作品名:デトックス 出る日 作者:鷺町一平

最終回   1
 トルッティッツ、トルッティッツ、ダダン、ダダーン!
トルッティッツ、トルッティッツ、ダダダダダーン!

 頭の中で、ドラムロールが勢いよく鳴っていた。そしてファンファーレが響き渡る。キターッ、またしてもキターッ! みっちりとした極太の大便が腸壁を押し広げて排泄されるときの気持ちよさを、梅田悠一は十二分に味わっていた。
「今度のも長いな、優に30pはあるな!」
 誰に聞かせるわけでもなく、そうつぶやくと悠一はすこし便座から腰を浮かして、便器の中の自らの排泄物を覗き込んだ。便器の中にはとぐろを巻いた毒蛇が鎌首をもたげているような禍々しさで、威風堂々とした大便がその存在感を際立たせていた。確かに長さは便器を一周しそうな勢いなので30pは超えている。悠一はここにメジャーがあれば計ってみたいものだと思った。
注目すべきはその大便の最後の切っ先の鋭さである。その鋭角に尖った様は、瞬時に健康な括約筋が閉まり、一瞬にして大便の出を遮断したことを示していた。悠一はにんまりとした。
「おお、また来た〜」
 息つく間もなく、悠一は便意を催した。「ぶりぶりぶり……」思わず自分で擬音を言ってしまっていた。今度のは、さっき程ではないにせよ、普通の大便一回分の量くらいは十分にあった。
 ウォシュレットのボタンを押す。ちょうどいい暖かさの湯が、天使の羽根のように優しく肛門を洗浄してくれる。この気持ちよさは何物にも代え難い。ちなみにウォシュレットはTOTOの登録商標である。シャワートイレはINAX(LIXIL)の登録商標だ。たまたまこの施設はTOTOのトイレを使っているのでウォシュレットと表記した。正しくは温水洗浄便座であるが、日常会話ではあまり使われることはない。これはホッチキスを紙綴じ器と言わないのと同じ理屈である。余談だが、ホッチキスは明治時代に初めて日本に輸入されたのがホッチキス社のHotchkiss No.1というモデルであったことに由来している。正しくはステープラーという。だが今現在「ちょっとそこのステープラー取って」とは誰も言わない。
温水洗浄便座から噴出する優しいお湯で、刺激された小腸はまだ出きった感じがない。う〜む、一体今日はどこまで出るのか……。

梅田悠一、43歳。妻と小五の娘と小三の息子がいる。今日は子供たちを妻の実家に預けて久しぶりに妻と二人で郊外のシネコンに映画を観に来ていた。そこで猛烈な便意に見舞われたのだった。
悠一には、半年に一度ほど、これでもかというほど大便が出て止まらない日がある。そして今日がその日であった。朝から数えきれないほどトイレに籠っている。そしてどの回も通常の量以上の排泄があった。まるで半年に一回、腸内の大掃除をしているかのようであった。デトックスという言葉が頭に浮かんだ。この日を迎えるたびに、体内の悪いものが全て出ていくような心地よさを悠一は感じていた。
体の中の悪いものが全て、排泄物として体外に出ていく……、なんて素敵な響きなんだろうか。心地よい陶酔感で頭の奥がしびれるようだ。人間、歳を取れば取るほど、澱(おり)のような汚れが溜まってくる。体の中にある全ての悪いものが大便として排泄できればこれほどありがたいことはないではないか!
まだまだ腸の中で出たりないとばかりに居座る老廃物を出そうと、気合を込めて悠一がいきんだ時に、胸ポケットの携帯が鳴った。妻の美(み)冴(さえ)だった。
「な〜に、今どこにいるの?」
「トイレだよ。止まんないんだ」
「30分も出てこないから心配しちゃった。映画始まっちゃうわよ」
「わかった。いま行く」

 悠一が妻の美冴と共に、映画館の椅子に座った時、タイミングよく予告が終わり本編が始まった。館内はガラガラだった。観客は十人も居なかった。無理もない。この日、悠一たちが観に来た映画はモノクロの古い作品だった。フランク・キャプラの「素晴らしき哉(かな)、人生!」という一九四六年のアメリカ映画である。映画好きな悠一は、タイトルだけは知っていたが、まだ観た事はなかった。どうせ観るなら大きなスクリーンでと思っていたので、ちょっと古い名作を上映する企画、「午前十時の映画祭」にかかると知り、観に来たのだった。

夢はあったけれど、父の急死により家業のちっぽけな住宅金融会社を継がざるを得なかったジョージ・ベイリーはそれでも愛妻メアリーと子供に恵まれ真面目に働いていた。町一番の富豪ポッターの圧力は日に日に強まっていたがなんとか踏みとどまっていた。そんなある年のクリスマスイブ、不運な出来事で彼は絶望し窮地に陥る。降りしきる雪の中、川面を見つめ自殺を図ろうとする彼の前に、翼がまだない二級天使クレランスが現れる。クレランスの使命はジョージを救うこと。彼を救えば翼がもらえるのだ。絶望し「生まれてこなければよかった」と嘆くジョージに、二級天使はジョージが居ない世界がどうなるかを見せる…。そう、彼がいかに世の中に必要とされているかを教えるために…。

 エンドクレジットが出たとき、悠一は号泣していた。ラスト五分間は泣けて泣けてしかたなかった。涙でスクリーンがよく見えなかった。何度も何度も美冴から借りたハンカチで頬を伝う涙を拭った。ようやく館内が明るくなった時、斜め前の席の頭の禿げたおっちゃんが拍手していた。悠一も負けずにスクリーンに向かって拍手していた。隣で美冴が、ちょっと照れたような困ったような表情を浮かべていたが、かまうことはなかった。どうせはなから観客は数えるほどしか入っていない。
「いや〜、いい映画だったなぁ」
「最後、ず〜っと泣きっぱなしだったね。でも、ハンカチくらいもってなさいよ〜」
「ポケットに入れたつもりだったんだけど、探したらなかったんだよ」
「観終わって、これだけ幸せな気分になれる映画ってそうそうないよな〜」
「そうだよね〜、なんか最近の映画って観終わって口の中に苦さが残るようなのとか、心がどんより暗くなるような内容のものが多いものねぇ。そういうのに比べたら、この映画は古いってこともあるかもしれないけど、心がジーンとして晴れ晴れした気持ちになるよね〜」
「だよな。金払って不快な気分になって映画館出たくないもんな。これは観終わって爽快な気分になるからいいよな。なんかさ、昔の映画って実直で、社会全体がそうだったのかもしれないけど、人間を信じてるよな」
「かえってこういう映画のほうが、まっすぐ心に刺さってくるような気がしない?」
「そうそう。俺はさぁ、ジョージ・ベイリーが自分が居なかった世界の惨状を見せられて、人生の素晴らしさを再認識して元にもどしてくれと願って元の世界に戻れた喜びが弾ける場面、、あそこ好きだなぁ!」
 そんなことを話しながら、映画館のロビーまで出てきたら、悠一はまたしても猛烈な便意に襲われた。
「まただ! ちょっとトイレ行ってくる」
 美冴はげんなりとした顔で、分かったという仕草をしてロビーの椅子に座り込んだ。
「じゃあ、アタシここで待ってるから」

 ジーンズのベルトを緩めるのももどかしく、便座に座るや否や轟音と共に大便が噴出した。便の色はデトックス効果がより高まっているのか、当初の黄褐色からより黒さを増した墨汁を絞ったような色に変わってきていた。
 現代社会は、改めて言うまでもないが、ストレスが多い。生活環境や食生活の変化によって体内には不要な有害物質(毒素)が極めて溜まりやすくなっている。毒素が溜まるということは、要するに新陳代謝が悪いということなのだ。子供や赤ちゃんが新陳代謝がいいというのは誰でも納得できるだろう。赤ちゃんは新陳代謝が激しいので肌もつるつるすべすべを保っている。赤ちゃんのような肌になりたいというのは女性であればだれでも思う。それでは新陳代謝が悪いとは具体的にどういうことだろうか?
 ざっくり言うと内臓の動きが活発でないということだ。原因は運動不足や不規則な生活等があげられる。裏を返せば適度な運動をして偏った食生活を正して、血流のながれを良くすれば代謝は上がっていくのであるが、現代人にとって言うは易し、行うは難しである。
 定期的な運動もしていない、そして仕事で帰りが遅く不規則な生活を強いられ、塩分が濃く脂っこい食事を好む悠一にとって、およそ半年に一度訪れるこの「出る日」は絶好の機会だった。
 健康な大便に含まれる水分は80%だと言われている。まだまだ止まる気配のない悠一の便であったが、だんだんと便に含まれる水分は減少してきており、カチカチになってきていた。腸壁にこびりついたうんちがいきむことによって、無理くり剥がれ落ちていくイメージが悠一の頭の中のスクリーンには映し出されていた。
 体の中の毒素をデトックスによって排泄するように、心の中の毒素も排泄しなくてはいけないと悠一はいきみながら感じていた。「素晴らしき哉、人生!」の主人公、ジヨージ・ベイリーが人生に絶望して、「自分など生まれてこなければよかった」とつぶやいたときに二級天使クレランスは、彼の望み通り彼のいない世界を見せてやる……。彼が生まれなかった世界では誰も彼を知らず、弟は九才で溺死しており、妻になるはずだったメアリーは独身のオールドミスで、声をかけるも気味悪がられ警察に通報される有様。その世界の惨憺たる様に恐怖したベイリーは、自分の人生がいかに意義があるものだったかを知り、元の世界に戻してくれと懇願するのだ。そして元の世界に戻れたことを確認した彼は、見たもの触れるもの全てにメリークリスマスと言って歩く。
 見慣れた風景が、気持ちの持ちよう,心のありようひとつで全く違って見えるというのは誰しも経験があるだろう。そう、この時ジョージ・ベイリーは生まれ変わったのだ。自分は世の中に必要とされているのだという確信があればこそ、彼は喜びを爆発させるのだ。例え彼を待ち受けているものが横領容疑の逮捕状であろうが、牢獄であろうが。「牢獄大歓迎! メリークリスマス!」とさえ叫んでしまうジョージ・ベイリーの気持ちの昂ぶりが、悠一には羨ましかった。
 体のデトックスだけではいけない。不十分だ。この際、心もデトックスしなければ意味がない。体と心、両面から悪いものをすべて出し尽くして、自分もジョージ・ベイリーのように生まれ変わるのだ!
 悠一はウォシュレットの上に座りながら、目を閉じて過去の記憶をたどっていた。喉の奥に刺さった魚の小骨のような忘れられない憂鬱(ゆううつ)な記憶があった。

「すいませ〜ん」
「すいませ〜ん!」
 さっきから何度呼んでも、誰も出てこなかった。ランドセルを背負った小学三年生の梅田悠一は、鄙(ひな)びた本屋の前に立っていた。西日が本屋の前の平棚を赤く染めていた。
「誰か、いませんか〜?」
 昨日発売されたばかりの月刊漫画雑誌「冒険王」を手に持ったまま、悠一は店の奥に進んでいった。薄暗いレジカウンターの前で声をかけても、店の奥からはいっこうに返事がなかった。ひっそりと静まり返った店内に客は悠一ひとり。細い通路を挟み、両側の木製の本棚にはまだ到底、悠一には読めないようなハードカバーの重そうな本が並んでいた。
「誰か、いませんか〜?」
 相変わらず、返事はない。レジカウンターから背伸びをして、奥の住まいになっているガラス戸を伺ってみたが人が居る気配もしなかった。焦(じ)れた悠一は、そのまま冒険王をレジに置いて帰ろうかと思った。
 だがその時、ふと、このまま漫画雑誌を持って店を出てしまえばいいんじゃないかと内なるもう一人の悠一が囁いた。でもそれって泥棒じゃないか! 悪い事だよ! これだけ呼んでも誰も出てこないのは、店が悪いんだよ。雑誌を持っていかれてもしょうがないさ、悪魔の悠一がそそのかす。おあつらえ向きに誰も見てないじゃないか。やるなら今だよ。
 次の瞬間、悠一の足は店の出口に向かっていた。小脇に冒険王を抱えたまま……。心臓が早鐘のように鳴っていた。店の前の通りにも人はいなかった。通りを挟んだ前の時計屋、その隣の八百屋、本屋の右隣の豆腐店、左隣の金物店にも客はいなかった。誰も悠一に注目する人はいない。通りに出てから悠一は一度も振り返らず、俯(うつむ)いて歩いた。走っては怪しまれると思ったので、早足で大股で歩いた。心臓が爆発しそうだった。悠一は、この日、生まれて初めて万引きをした。
後にも先にも、物を盗んだのはこれ一回きりだ。だが、ことあるたびにこの日の暗い記憶が西日の赤さと共にフラッシュバックする。何故、自分はあのとき漫画雑誌を持ち去ってしまったのだろうという後悔の念と共に……。盗みというシミが悠一の人生のキャンバスに汚点を作っていたのは明らかだった。
この汚点の記憶を、今ここで老廃物として便器の彼方へ流してしまうのだ。息を止めて腹に力を込めると、一気に腸内を通って大きな塊が肛門からひり出された。悠一の心は少しだけ軽くなった。
 この頃になると、悠一は全身にぐっしょり汗をかいていた。体温もあがってきていた。心と体が連動して体温が上がっているのだ。暑くてたまらなくなった悠一は、着ていたジャケットを脱いで目の前のトイレのドアのフックに掛けた。携帯を取り出し、美冴に電話を掛け、どこかの店でバスタオルを買ってきてトイレに届けてくれと頼んだ。

春だった。桜はとうに散ってしまい、葉桜が午後の風に揺れていた。二十一歳の梅田悠一はデパートに買い物に来ていた。買い物が済んで大きな買い物袋を下げて帰ろうと駐車場に向かっていたとき、路地の一角から怒声が聞こえてきた。
「いいから、持ってる金、全部だせや!」
 数人のチンピラが一人の学生服の気の弱そうな少年を取り囲んでいた。学生服の少年は怯えていた。恐喝だ。助けなくちゃ! とっさに悠一は思った。ここで助けなきゃ男が廃る……。おい、ちょっと待て。内なるもう一人の悠一がしゃしゃり出てきた。チンピラは五人だぜ。殴り合いになって勝てんのか? 武道の経験もない、喧嘩慣れもしてないお前が漢(おとこ)気(ぎ)だしてどうするよ。ボコボコにされるのがオチだ。怪我したらどうするんだ。
 恐喝を制しようと「なにやってんだ!」って言おうとするが、勇気が出ない。足は棒が入ってしまったかのように、すくんで歩けない。そうそう、小市民といわれようが、ここは見て見ぬふりで厄介事には首を突っ込まないほうが利口ってもんだ。もうひとりの悪魔の悠一は満足げに囁く……。悠一が助けようかどうしようか逡巡していると、チンピラの一人と目があってしまった。
「てめ〜、何見てんだよ!」
 威嚇(いかく)された悠一は、踵(きびす)をかえして反対方向に歩き出した。悠一の背中越しに少年の、助けてくださいという悲痛な声が虚しく聞こえてきた……。悠一は耳を塞いで走り出した。

 自分の弱さを象徴する最も恥ずべき、封印している記憶だった。額から鼻の頭から、顎の先から汗がぽたぽたと滴り落ちた。体中が火照っていた。目からは大粒の涙があふれ出た。なんであの時少年を助けてあげなかったんだろう。あの少年は俺に助けを求めたのに、俺は卑怯にも怖くて逃げたんだ。交番にすら行かなかった……。俺は人間として最低だ。少年はきっと俺のことを恨んだだろうなぁ……。
 腹の中がぎゅるぎゅるいいだした。ああ、ものすごいのが出そうだ。腸全体がうねっているのがわかる。蠕動(ぜんどう)運動、文節運動、振子運動が断続的に繰り返されている。今まででいちばん凄いのキター! 真っ黒なタールの塊みたいで匂いも最も強烈な大量の便が勢いよく噴出した。余りの勢いに悠一は50p程、便座から浮き上がったほどだった。
 こうして悠一の最も恥ずべき、後悔しても、したりない情けない記憶は、恐るべき量の大便と共に流れていった。デトックスここに極まれり。心と体がずいぶんと軽くなっていることに悠一は気付いていた。

 ここまで来たら、もう徹底的にやってやろうと悠一は思った。汗だくになったので着ているものは全部、脱いでしまっていた。中年の男が全裸で便器に座っている様を想像してみて欲しい。かなり異様な光景ではあるが、本人はいたって大真面目なのであった。
 気合を込め、ふんばってみるが、あらかた出きってしまったのか、もう容易に便は出てきはしなかった。さらに顔を真っ赤にして全裸の悠一はきばった。もう出ないのか……。最後に息を殺して、全力でいきむとポンッと小さな音がしたが、なにも排泄されなかった。
 この時、まだ悠一は気付いていなかった。いちばん大切な“寿命”が便器の向こうに流れていってしまったことに……。
 携帯が鳴った。美冴だった。
「バスタオル買ったけど、アタシ持っていけないから、ちょうど通りかかった掃除のおばちゃんに頼んだから」
「おー、悪いな」
「全く、世話がやけるよ。あんたはこれで、文字通りのクソオヤジだわ!」
 そういって、美冴は笑いながら電話を切った。確実に今夜実家に行って、みんなに言いふらすつもりだなと悠一は思った。
 それからは、もうどんなにいきんでも出なかった。出きったのだ。悠一は満足していた。   
掃除のおばちゃんが持ってきてくれたバスタオルで汗まみれだった全身を丹念に拭き、衣服を身につけた。洗面台の前でぼったり濡れたバスタオルを絞ると茶色い汁が出た。今更ながら、汗だけでもこれだけの毒素が体の中から出てきたのかと思うと寒気がしてきた。洗面台の前の鏡に映った自分の顔を見ると憑き物がおちたようにスッキリしていた。こころなしか若返ってもいる。
 ロビーで待ってた美冴がおおげさに驚いたリアクションをしている。
「あら〜っ、ビックリ! スッキリしてちょっとシュッとしたんじゃない?」
 悠一は悪い気はしなかった。
「デトックス 出る日さ」
 ウィンクをして、親指を立てた。美冴はいそいそと腕を組んできた。

 シネコンと併設しているショッピングモールの外は快晴だった。冬の穏やかな日差しがあたりに満ちていた。雲ひとつない青空は、晴れ晴れとした悠一の心そのものだった。
 今の心境は、元の世界に戻ってこれたジョージ・ベイリーの喜びと重なっていた。すれ違う人すべてに「メリークリスマス! 俺は生まれ変わったんだ、昨日までの俺とは違うんだ!」とふれてまわりたいほどだった。こころも体も軽くなり踊りだしたいような気分だった。
 もう、昨日までの優柔不断で弱い自分はどこにもいない。明日、出勤したら品質保証室の室長にも面と向かって言ってやる。データの捏造はやめましょうと。今までだって言いたかった。だけど、納期が遅れる責任をお前が取れるのかと言われると、弱い自分は引き下がるほかなかった。だけど、今日からはもう違う。強い正しい人間に生まれ変わったんだ。否、俺はもともと強い人間だったんだ。悪い毒素によってそれが脆弱になっていただけなんだ。本来の自分を俺は取り戻したんだ!
 デジャブーだった。シネコンと併設しているショッピングモールの入り口近く、普段あまり人が通らない駐車場へ続くスロープの下で、チンピラ風の男たち数人に眼鏡をかけた学生風のダッフルコートの青年が因縁をつけられていた。恐喝に間違いなかった。美冴も気づいたようだ。

チリリーン、チリリーン!

頭の中で、ベルが鳴った。ありがとう、クレランス。ありがとう、ジョージ・ベイリー、そしてありがとう、フランク・キャプラ監督。

「あなた、ちょっとやめなさいよ。通報すればいいじゃない」
「放っておけるか。昨日までの俺とは違うんだ!」
 二十数年前の汚点を消すのは、借りを返すのは、今しかないのだ。悠一は、止める美冴を振り切って、決然と彼等に近づいて行った。
「何をしてるんだ!」
 すんなり言葉が出た。そして内なるもうひとりの悠一は出てこない。悪魔の囁きは聞こえない。
「ああ〜っ?、なんだテメ〜、やんのかぁ、ゴルァ!」
 ゆっくりと振り返ったチンピラのリーダー格は、鼻ピアスをしていた。そして前歯が二本なかった。目は血走り、朦朧(もうろう)として焦点が定まらず口の端からよだれを垂らし、グェー、グェーと時折奇声を発していた。脱法ドラックによる幻覚症状が出ているのは間違いなかった。そしてチンピラは持っていたドライバーを思いっきり壁に突き立てた。
<了>


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