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作品名:エビカニ大将 作者:鷺町一平

最終回   第四章
第四章

 六月の後半、梅雨に入り、しとしと小雨が降る日に、明人の父、仁は退院した。目はさらに落ちくぼみ、頬骨が突出してまるで正面から見るとしゃれこうべが歩いているかのような妖気を漂わせていた。そんな中で目だけがランランと光っていた。入院当初とはまるで人相が変わってしまったことに、明人や君江、そして祖母のよねも気づいていたが、誰も口に出して言う者はなかった。タクシーから降りるときは、君江と明人が両脇から支えたが、足どり自体はしっかりしていた。半年ぶりに我が家に戻った仁は、感慨深そうに少しだけ頬を緩めた。
 君江はもちろん、仁が退院したばかりでそうそう食べられるわけもない事は承知していたが、退院祝いの食卓の彩りとしてたくさん料理を並べた。シーチキンにさくらんぼときゅうりのサラダ、かりかり梅を使ったさっぱり味のチキン南蛮、とうもろこしとちくわのかき揚げ、新玉ねぎと初夏のピーマンの肉詰め、生オクラとミョウガ入りのところてんなどが食卓を飾った。
 仁は、ひとくちふたくち手を付けたが、なかなか箸がすすまない。ついには、酒をもってこいと言い出した。お酒は医者に止められてるからと君江がたしなめるも、一度言い出したらきかない。
「あんな若造のやぶ医者の言うことなんか、聞いていられるか! いいからつべこべ言わずに持ってこい!」
怒鳴られた君江は、しぶしぶ酒を出した。仁は君江の手から熱燗徳利をひったくるように奪うと、あっと言う間に猪口で三杯を手術したばかりの胃に流し込んだ。明人はどんどん心の中が鉛のように重くなっていくのを感じていた。仁の退院で久しぶりに華やいでいた家の空気が一気にどんより重くなった。これからの展開がどうなるかは、火を見るより明らかだった。
案の定、君江が仁の一番好きな「湯豆腐」を持ってきたときにそれは起こった。あっと言う間に酔いが回った仁は、手術で味覚が鈍くなっていることもあり、湯豆腐に箸をつけた途端に制御がきかなくなっていた。
「こんな不味い湯豆腐が食えるか!」
 仁は座卓をひっくり返した。仁の退院を祝うべく座卓に並べられた色とりどりの料理が皿ごと宙に舞ったかと思うと無残に畳の上に飛び散った。そしてその上に座卓が落下してきて皿が割れる音がした。吹っ飛んだ座卓の足が君江の右肩に直撃した。さらに割れた徳利の破片が君江の左頬をかすめた。君江は肩と頬を押さえてその場に倒れ込んだ。
「こん馬鹿アマ、こんなクソ不味い湯豆腐、俺に食わせやがって! 嫌がらせか!」
 いきり立った仁は、倒れている君江の上にのしかかり、殴りつけようとしていた。惨憺たる有様だった。たまらず明人は母が可哀そうで必死で止めに入った。
「あにすんだよ! 父ちゃん! 母ちゃんは父ちゃんが食えなくても少しでも目で楽しめるようにって作った料理でね〜か!」
 泣きながら明人は、父に手向かっていた。
「父ちゃん、この子には手をあげないで!」
と君江が悲鳴にも似た声で懇願すると、ますます仁は激昂した。
「なに、クソガキ。病室にもろくに来やがらねぇで!」
 退院したばかりで歩くのもやっとなくせに、どこにこんな力が残っていたのかと思うほどの意外な強さで、仁に突き飛ばされた明人は、後頭部からガラス障子に突っ込んだ。横額部分のガラスが割れ、派手に障子が破け桟がへし折れた。勢いが減殺されずにそのまま頭から柱にぶつかった明人は、痛さでしばらく起き上がれなかった。突き破ったガラスの破片が刺さり左手の甲からも出血していた。
 さすがにこれはやりすぎたと思ったのか、バツが悪くなった仁は、もう寝る!と宣言すると、寝室に引き上げ疲れてるだろうからと早めに敷いてあった床(とこ)に横になり頭から、布団をかぶってしまった。
 まるで大型台風が通り過ぎたかのようだった。後には、目も当てられないような凄惨な光景が残された。割れて散乱した食器や皿、調味料、納戸や仏壇にまで飛び散った料理、ひっくり返った座卓や椅子、バラバラになった障子や桟…。
 君江は、頬に張り付いた髪もそのままに、虚ろな目でのろのろとした動作で割れた食器やガラスや徳利、飛び散った食べ物などを片付け始めた。座卓が当たった右肩をかばいながら…。その背中越しにつねが、すまなそうに言った。
「仁はよぉ、手術して体が思うようにならなくて、癇癪起こしてんだァ……、勘弁してやってくろう……」
 君江は無言で、片付けを続けた。それが精いっぱいの抗議だったのかもしれない。明人は柱にぶつけた後頭部に手を当ててみた。こぶが出来て少し血が滲んでいた。少しズキズキと痛んだ。
君江がオキシフルで消毒してくれ、包帯をまいてくれた。同様に左手に刺さったガラス片を取り除き消毒した。ちょっと滲みた。明人は自分だって痛いだろうに懸命に包帯をまいてくれる母をみていたら感情が揺さぶられて大粒の涙がぽろぽろとこぼれた。それをみた君江は何も言わずに息子を抱きしめた。そして二人してさめざめと泣いた。悲しいんだか、悔しいんだかよくわからない感情が渦巻いていた……。

七月の第一週、この夏いちばん気温が上がって三十五度を記録した猛暑日に市長選が行われた。選挙権がまだない明人は全く関心がなかったけれど、バスケ好きで体育館をいつも利用している茂雄は、体育館が投票所になるためバスケが出来ないと文句を言っていた。君江もつねも投票に行った。つねは腰が曲がっているので、歩くのがたいへんだということで敬老会の人がクルマで送迎してくれた。
あの日以来、あまり体調がすぐれず寝たり起きたりしていた仁は、再入院することになった。
投票を済ませて帰ってきた君江が赤と黄色の風船を明人にくれた。
「ちぇっ、ガキじゃないんだからこんな風船いらね〜よ」
「あんた、都合のいいときだけガキじゃなくなるんだね〜」
 そういって、君江は笑った。
「ふ〜んだ。選挙はそれでどっちが勝ちそうなん?」
 ほとんど興味はなかったが、奈美の叔父さんが立候補していたのでそれだけが気がかりだった。選挙結果ではなく叔父さんが当選したら奈美は単にうれしいのかなって思ったに過ぎなかった。。
「あぁ、新人の石川優一さんって、あんたの同級生の叔父さんなんだって? どうかねぇ。現職が強いからね〜、ウチの市は。相当実弾使ったって話だよ。あくまでも噂だけどね〜」
「実弾って…お金? 家ももらったの?」
「家には、来ないねぇ。だって豊叔父さんが警官だもの…」
「そっかぁ。叔父さん曲がったこと嫌いだもんね!」
 意識して、いちばん聞きたいことは避けていた。明人は、今の時期の再入院が一体何を意味するのか薄々、子供心にも気付いていたが、母に聞くことが怖かった。きっとそれは母の君江にとっても同じだろうと考えていた。かくしてこの親子は双方で極力父の具合についての会話を避けていた。
 翌日、学校で奈美の叔父さんが落選したことを知った。現職市長の圧勝で獲得票は現職の原田市長の半分にも満たなかった。奈美は取り立てて残念がってる様子もなかった。少なくとも外からはそう見えた。内心はどう思っているのか明人には知る由もなかった。もし、落ち込んでいるようなら、一声かけていたかもしれないが、もともと小学五年生が市政に関心もってるほうがおかしい。いつもの日常にかまけて、奈美に変化がないなら、明人が気をもむことはなかった。なにしろ明人にはそれ以上に父親の再入院のほうが気がかりだったので、そのほかの事はすぐに忘れてしまっていた。
 あの日、仁から言われた「なかなか病室にも来ない…」という一言が気にはかかってはいた。だがますます病室には行きづらかった。時には病院にまでは行っても病室へ寄らないで帰ってきてしまうこともあった。気まぐれな仁は、機嫌がいいときはめちゃくちゃいい。元気な時は頼みもしない玩具や本を買ってくることがあった。明人の好みなどお構いなしだった。どっちかというと有難迷惑であったが、そんなこととても口には出せなかった。父親が機嫌がいいということだけでうれしかった。機嫌が悪いときには、そばに寄ることさえ怖かった。いつ怒られるかといつもびくびくしていた。
 入院してからは、明人が行くと よく来たな、と言ってくれた。病院食を、おれはこんなもんは口にあわねぇから、おめえ、食えと言われてよく食べた。歯ごたえがなく、味も薄くて、正直美味しくはなかったが、残すと仁に怒られそうな気がしたので、きれいに平らげた。食べるところを見ている仁は、明人がきれいに食べると満足そうな笑みを浮かべた。
 ここ何回かは、病室を訪れるたび、仁は眠っていた。声をかけても起きないときもあった。病院には君江のクルマに同乗してくることもあったし、君江がパートの時は学校が終わってから家に帰って自分の自転車で来ることもあった。だから病室で、君江や親戚と鉢合わせすることもあった。昭和四十八年年七月…盛夏、明人は自分の父親がもう永くないことをひしひしと膚で感じていた……。

 夏休みを十日後に控え猛暑だったこの日、奈美の父親が選挙違反で逮捕されたというニュースが午後七時からの全国放送で流れた。容疑は公職選挙法違反。
市長選に立候補した実の弟の後援会幹部として複数の運動員に票の取りまとめの買収工作を行ったというもの。それでなくてもこの地域は以前から金権体質が指摘されており、票をお金で買うことに罪悪感をもたないという意識の低さが問題となっていたので、恰好のマスコミネタになってしまった。事実、放送では「反省なき町、Y市。変わらない金権体質!」というテロップが流れたという。
小さな町は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。翌日、明人が早めに学校に行くと、教室にはいくつものグループが出来、みんなひそひそと小声で話し合っていた。誰しもが奈美の父親の逮捕の事を話題にしていることは言うまでもなかった。そして誰もが奈美は学校を休むだろうと思っていた。しかし、彼女は気丈にも登校してきた。
「おはよう!」
 つとめて明るく元気な声で、奈美は教室に入ってきた。クラスメートたちは、みんな何事もないかのような顔をして「自然さ」を取り繕った。奈美に「大変だったね」、「大丈夫?」という声をかける者は誰もいなかった。だが、こんな日に「自然さ」を取り繕うとすることこそが、実は「不自然」なのだということに、誰もが内心気付いていた。やがて、この作られた不自然さに耐えきれなくなって、均衡を破る何者かが現れるのは時間の問題だった。果たしてそれは誰なのか。異様な緊迫感を孕んだ時間はじりじりと過ぎていった。そして、それは二時限目が終わったときに起こった。
 パーンと乾いた大きな音がした。茂雄だった。彼は今朝の朝刊を自分の机の上に叩きつけたのだった。その一面には、「金権千葉の黒い渦、Y市市長選で買収工作」などの大見出しが躍っていた。
「参っちゃうよな〜。誰かの父ちゃんのおかげで、またこのY市の評判がガタ落ちだよ〜」
 これ見よがしに腕を頭の後ろで組んで、チラチラ奈美のほうを見ながら、わざとのんびりした声で茂雄は呟いた。奈美は能面のような無表情な顔でまっすぐ前を向いたままだった。
「謝罪の言葉の一つくらいあってもいいんじゃね〜の。学級委員なんだしぃ」
「ちょっと! やめなさいよ! 茂雄くん。選挙違反したのは奈美ちゃんじゃないのよ。お父さんよ。奈美ちゃんは関係ないじゃないの!」
 憤慨した恵子が、茂雄に詰め寄った。クラス中から、そうだ、そうだの大合唱が始まった。旗色が悪くなった茂雄はそれでも言い返した。
「そうは言っても、オレたちの郷土が全国放送でブジョクされたんだぞ! お前、悔しくね〜のかよ! 郷土愛はないのかよ!」
「それは…、アタシだって悔しいけど……」
 教室は一瞬にして、ざわつき始めた。みんな思い思いに喋りだしていた。誰も奈美の気持ちなんて考えていやしなかった。
 それまで黙って聞いていた明人は立ち上がった。
「うるせ〜よ。お前ら!」
 明人の一喝で教室は静まり返った。
「オレ等に選挙はカンケーない。まだ選挙権すらないんだからな! 大人の世界の話なんだよ! 教室にそういうの持ち込むなよっ! 奈美の気持、考えろ! 相手の立場になって考えてみろよ! ギャーピーギャーピー騒いでるままのガキでいいのかよ」
 ガタン! 突然、奈美が立ち上がった。肩が震えていた。何か言おうとしている……。
「いいよ! 奈美。今は何も言うな!」
 明人はわかっていた。こんな時、ひとことでも発すれば、ギリギリこらえていた感情の堰が切れて制御出来なくなることを……。ひとことでもなにか言ったら奈美は号泣してしまうだろう。そしてその後は抑えがきかずに泣きっぱなしになってしまう。クラスメートにそういう奈美は見せたくなかった。

 放課後、教室は閑散としていた。いつも女子たちに囲まれて華やかだった奈美の周りには、誰もいない。それが女子特有の気配りなのか、優しさなのか明人には分からなかったけれど、少なくともいつも通りでないことだけは確かだった。明人の周りにもいつも屯(たむろ)している友達は誰もいない。茂雄はもちろん、順一も輝夫も帰ってしまった。教室には奈美と明人だけが残っていた。明らかに世界は変わった。昨日までの日常は消えてしまったのだ。あの後、異変を察した担任の田丸美由紀先生にも、普段通りにしなさいと言われたが、大人たちの態度に敏感に反応するのが子供だ。そう、彼等はどっちつかずの年齢だ。いみじくも君江が言ったように、あるときは子供、そしてある時は大人……だって仕方ない。子供か大人かよりもまず先に、に・ん・げ・ん、だから……。
「さっきはありがとう…」
「オレたち、浮いちゃったみたいだな」
「今日、学校に来るのはとても勇気が要ったの。何を言われても気にしないようにしようと目に見えない鋼の鎧を身につけてきたつもりだったんだけど、簡単に割れちゃった」
「だから、友納くんが、何も言うなって言ってくれたとき、とてもうれしかった」
 そう言って、奈美は笑おうとしたが、うまく笑えず半笑いになった。
「今日は、家に帰れるの?」
「ううん。家は報道のカメラマンとかマスコミがいっぱいだからって、さっきお母さんから学校に電話があったって田丸先生が教えてくれた」
「お母さんの実家が茨城の神栖にあるの。そこからお祖母ちゃんがクルマで迎えにきてくれることになってるの。しばらくそっちにいなさいって」
「そっかぁ、大変だな……」
 教室の窓から見える空が真っ黒になったかと思うと、突然雷鳴が轟いた。校庭に稲妻が落ちた。それは今まで息を潜めてため込んでいたうっぷんを晴らすかのように身もだえ踊り狂うフラメンコを想起させた。
「うわぁ…、綺麗!」
 稲妻を怖がるでもなく、ごく自然に奈美は呟いた。雷ははっきりと恐怖を感じるひととそうでないひとに分かれるという。奈美も明人も全く雷恐怖症ではなかった。
 そして、すごい夕立になった。薄暗くなった教室で、明人と奈美はどちらかともなくお互いの置かれた状況を話し始めた。明人はいったん退院した父親が再入院したこと、奈美は叔父の市長選出馬経緯、そして父親が後援会長として叔父と何を目指していたか……などを話してくれた。
「お父さんは、叔父さんと二人でこの町の旧態依然とした政治を変えようとしていたの。理想に燃えていたのよ。私とお母さんは、無謀だと思ったし、もし落選したらカッコ悪いから止めてって言ったんだけど、最後には折れたわ。だって理想を語るお父さんは目がキラキラしてたんだもん。でも選挙は素人だから選挙プランナーを雇ったの。その人のプラン通りに選挙戦を進めていったのよ。お父さんの最大の失敗は、選挙に精通していないにも関わらず、後援会長ってことで責任者になってしまったことなんだわ。
 お父さんの容疑は、買収ってことになってるけど、事実はこうなの。選挙事務所開きに手伝いにきてくれていた近所の人たちに、ちょうどお昼どきになったから、弁当を出したのよ。そしたらそれが引っかかったの。お茶だけならよかったんだって。お茶ならいいけど弁当はアウト。それが公職選挙法なのよ。決して票の取りまとめなんて頼んでないわ。普通の感覚なら、お昼になったらお弁当くらい出すじゃない。でもそれは公職選挙法では買収になるの。要はグレーゾーンなのよ。厳密に言ったらお茶はいいけどコーラなんかの缶入り飲料出したら買収になるの。何故なら缶入り飲料は商品として価格がついてるものだから。
 それがニュースになると『公職選挙法違反!』『買収!』っておどろおどろしい言葉が使われて『金権政治』って括りでいかにも悪いことやってるって印象になるの。公職選挙法の隅から隅まで、アタマに叩きこんで選挙戦っている人なんていないわ! だからいわゆる選挙屋とかプランナーと呼ばれる人たちが幅をきかしているのよ。だけど彼等のプラン通りにしても一歩間違ったらこういうことになるの」
 明人は、これだけ奈美が熱弁をふるうのを見るのは初めてだったので、あっけにとられていた。
「物を盗んだとか、人を殺したとかいう誰がみても悪い『絶対悪』じゃないの! 高い志を持って、選挙に立候補して、暮しを、地域を変えようと理想に燃えて挑戦する人たちが、あやふやでいいかげんな、どっちにもとれるような世間の常識からかけ離れている法律によって、罪人扱いされて本当にいいのかしら? だから私はお父さんを信じてる。例え世界中が敵になっても。だって、だって私はお父さんの娘だから……」
 明人には、奈美の言ってることの半分も理解できなかった。だけど、奈美を好きになったことは間違いじゃなかったと、心の底から思った。
 教室の窓の向こうに夕焼けが見えた。いつの間にか、夕立はあがっていた。雨上がりの校庭に、一台の黒塗りの高級車が滑り込んできた。奈美を迎えに来た祖母のクルマだった。

 八月に入ってすぐ、明人の父、仁は容体が悪化して亡くなった。亡くなったのは深夜三時だったので、明人は寝ているところを祖母つねに起こされた。タクシーで病院に駆けつけたときには間に合わず、仁の顔には白い布がかけられていた。病室に入ると、君江が憔悴しきった顔で振り返った。
「つい、さっきだったんだよ」
 親の死に目に間に合わなかったという負い目だけがしばらく明人の胸に残った ある程度、覚悟はしていたが、胸にぽっかり大きな穴が開いたようだった。
 それからのことはあまりよくおぼえていない。告別式の日は、うだるような暑さだったことは記憶している。同級生が次々に焼香に来てくれた。奈美の父親の逮捕以来、ちょっと疎遠になっていた茂雄も来てくれた。もちろん順一も輝夫も来た。恵子たちも来てくれた。そしてお母さんと一緒に奈美も来てくれた。奈美は黒いワンピース姿でそれが正式の喪服かどうか、明人には知る由もなかったが、ひどく大人びて見えた。
 告別式が終わって数日たった。油蝉がうるさいほど鳴いていた。降りしきる蝉しぐれの中、明人は縁側でぼんやり膝を抱えて、空を見ていた。夏休み中だったが、全身から力が抜けてしまい何もやる気が起きなかった。親戚たちが集まってこれからの事を相談していた。叔父の豊や他の親戚たちがしばらくは農繁期に田んぼをやることになった。母の君江はそれまでパートだった縫製工場の仕事をフルタイムにして働くことになった。
 一家の大黒柱が亡くなってしまい、まだ小学生の自分がしっかりして母を支えていかなくてはと、心ではわかっているのだが、まるで体に力が入らなくて抜け殻のようになってしまっていた。近しい肉親、それも父親が亡くなるとは、これほどまでに堪えるものなのか……。これからどうすればいいんだろう……。
 電話が鳴った。君江が取り次いでくれた。奈美だった。

 明人が自転車をとばして待ち合わせの国道のバス停に行くと、埃っぽい停留所の時刻表看板のわきに麦わら帽子に黄色のワンピースという出で立ちで奈美は立っていた。この間の告別式の雰囲気ともまた違っていて、沈んでいた明人の心は沸き立った。
奈美の歩くスピードに合わせて明人は自転車を押しながら、二人は田んぼに続く農道を歩いていた。春に植えた稲はすっかり実り、夏の風に重そうな稲穂を揺らしていた。
「ごめんね、突然。私、どうしても最後に、友納くんが素手でエビカニ獲るところ、観たかったんだぁ……」
「最後……?」
「うん、私、二学期から転校するの!」
 明人にとってはショックだった。
「今回の事があったからじゃないの。前から決まってたの。中学は有名私立を受験するの。それの準備ってわけ。母方の遠い親戚がいる静岡の学校」
「そうなのか……。寂しくなるな」
 出来るだけ、動揺を表に出さないように他人事のように明人は呟いた。

 明人は田んぼの畦道に横になって、巣穴に腕を肩まで入れていた。その隣にちょこんと膝を折って奈美が見学している。
「へぇー、そうやって獲るんだぁ。初めて見た」
 奈美が見てるんだ。カッコいいとこ、見せなくちゃと内心、明人は意気込んでいた。指先に赤爪の感触があった。
「捕まえた……。ん?」
「どうしたの?」
 引っ張り出した赤爪はとても立派だったが、左のハサミが根元からなかった。片爪である。自切したのではない。もともとなかったのだ。その片爪を奈美に見せた。
「片爪だ…」
 不意に、涙が溢れ出た。
「オレも、こいつといっしょだ!」
泣きじゃくる明人の頭に優しい手のひらの感触があった。
 奈美の手が、おずおずと、そっと明人の頭を撫でていた。
「友納くん、私たち……、強くなろうよ!」
「私、向うに行っても手紙書くから!」
 明人はこっくりと頷いて、そっと片爪を巣穴に戻した。
 二人の頭上には夏の入道雲が、無限の広がりをみせていた。その一角に陽の光が当たって切ない輝きを放っていた。
<了>


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