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作品名:エビカニ大将 作者:鷺町一平

第1回   第一章
第一章 

 もう四月に入ったというのに日差しは、まだ少し弱々しい。吹く風もちょっとだけ冷たい。まだ桜も三分咲きだ。
ここは、房総半島北東部の田園地帯。区画整理された一反歩10アールの田んぼがどこまでも続いている。時折、600メートルも先の国道を走る車の音が聞こえるだけだ。その一面の田んぼの畔道(あぜみち)の一つで、友納明人(とものうあきひと)は、肩まで田んぼの水に浸かりながら正念場を迎えていた。
 彼が手を突っ込んでいるのは、エビカニの巣穴。「エビカニ」とは、アメリカザリガニのことだがこの辺りでは、エビカニで通っている。明人はそのエビカニ取りのスペシャリスト。学校でもエビカニ取りの名人として一目置かれる存在だ。
明人の家は、農家だ。彼は昭和四十八年四月上旬の肌寒いこの日、叔父と一緒に代かきにやってきたのだ。代かきとはつまり、田んぼの整地である。田植えの前に苗を植えやすくするために、田んぼをならす作業をするのである。 代かきも終わりかけた頃、明人の眼が輝いた。絶好の獲物を見つけたのだ。
「赤爪だ。でけぇ!」赤爪とはエビカニの中でも年季が入っているやつで、必然的に大きい。殻が固くて、そのハサミは赤くて大きいのである。ゆえに赤爪なのだ。この辺りの少年たちにとって、赤爪のステータスはとてつもなく大きい。自他ともに認めるエビカニ取りの名人である明人にとって、この赤爪を捕まえて学校に持っていき友達の前で自慢することこそが、自らの存在証明に他ならなかった。
エビカニを素手で捕まえるのは、明人のもっとも得意とするところだった。そんなのカンタンだろうって? ちょっと待っていただきたい。このエビカニってヤツは、とんでもなくスバシッこいんだ。本家の海老がそうするように身の危険を感じるや否や、尻尾を丸めピューンとものすごい勢いで後ずさりする。そして田んぼのあぜ道にしつらえた巣穴に逃げ込むのである。この巣穴に入ったところが実は狙い目になる。巣は、行き止まりだからだ。手を突っ込んで入り口を塞いでしまえば逃げ道はない。
明人は先刻、大きな赤爪が一尾特大の巣穴へ入っていくのを見つけた。すぐさま走りより畔道に屈むような姿勢で、勢い良く穴へ右手を突っ込んだ。指先に赤爪の大きな爪の感触があった。しかし次の瞬間赤爪は、巣穴のもっと奥、明人の手の届かぬところへ逃げ込んでしまった。この赤爪の巣は深い。
時刻は午後二時を少し回ったばかり。畦道に完全に体を投げ出し、精一杯肩を伸ばして巣穴を探る。だめだ、指先に赤爪の感触はない。手が届かない。逃がすもんか! 明人の心に火が付いた。こうなれば穴を広げるだけだ。いったん手を抜いて畦道の巣穴の周りの土を取り除いていく。こうすればより腕が奥まで入るという寸法だ。
明人は、これまでよりもっと深く右腕を巣穴の奥深く突っ込んだ。もう肩まで畔についてる。田んぼの水が目の前に迫っていた。肩をひねって更に奥まで腕を巣穴深くまで入れる。体勢が苦しい。息遣いが荒くなる。顔があと数センチで水面に触れそうだ。
中指の先が赤爪のハサミに触れた! あと一息だ。次の瞬間、中指の先に激痛が走った。巣穴の最深部で行き場を失ない身の危険を感じた赤爪は、必死の反撃に出た。その巨大なハサミで迫りくる明人の指先を挟んだのだ。
だが、これくらいで怯むような明人ではなかった。これは想定内なのだ。いわば「肉を切らせて骨を断つ」だった。赤爪はそのハサミで一度挟んだものは、簡単には離さない。この習性を利用して指を挟まれたまま、痛みにキリキリしながら、明人は注意深く腕をゆっくりと巣穴から引き抜いた。見事な大きさの真っ赤なハサミをもったアメリカザリガニがその姿を現した。素早く左手で右手中指を挟んでいるハサミを引きはがそうとすると、身の危険を感じている赤爪はそのハサミにより力を入れた。ズキンと指先が痛むがなんとか引きはがしてバケツの中にその赤爪を入れた。ハサミが立派なことはもちろんだが、その挑戦的な甲羅、尾の太さ、入れられたバケツの中であとずさりして暴れる元気の良さ……どれをとっても申し分のない獲物だった。明人は満足げに頷いた。
挟まれていた右手中指はじんじんと痛かった。血も滲んでいる。だが明人にとっては名誉の負傷だった。もちろん明人とて出来れば指を挟まれたくはない。巣穴の奥の奥に指が届くか届かないかギリギリで身を潜めている赤爪を指先でしっかり捉えられれば、それに越したことはない。しかし赤爪のハサミを掴むというのはとてもリスキーでもあるのだ。何故ならば、赤爪は外敵にハサミを掴まれた場合、自らハサミを自切(じせつ)して逃げのびるという最終手段があるからだ。
どんなに立派な赤爪を持っていたとしても、ハサミが両方揃っていなければ「片爪」として価値はガタ落ちになる。脱皮の時に欠損部分のハサミも再生はするが、完全に元通りにはならない。成体の赤爪の場合には左右アンバランスなままである。
明人の「挟まれ作戦」は片爪にしたくないからこその苦肉の策なのであった。そしてまたそれが出来るからこそ、明人は「エビカニ獲りの名人」として子供たちに一目置かれているのであった。

「明坊、終わったのかい? サボってザリガニばっかり獲ってちゃダメだぞぉ」
笑いながら、叔父の豊が言った。明人は、叔父の豊と共に代掻きに来ていたのだった。明人の本来やるべき仕事は、代掻きした田んぼの畔の点検であった。
田んぼの畔に巣穴を作るので、水田に引き入れた水が漏れてしまうのを防ぐ意味で、ザリガニの巣穴を塞ぐのだ。そもそもアメリカザリガニは農家にとって稲の根を食べる害虫である。甲殻類なのに害虫というのもおかしな話ではあるが、ダニや線虫、甲殻類(ザリガニとか)、腹足類(カタツムリとかナメクジ)など、作物に被害を与える小型の無脊椎動物も害虫に含まれるのである。そういう意味では、明人は楽しみながら駆除しているとも言えなくもなかった。

豊叔父さんは、耕うん機にかご車輪と代掻き機をつけて代掻きをしていたが、ひと通り終わったので、テーラーで一服していた。基本的に耕うん機に椅子付き荷台が連結されたものをテーラーと呼ぶ。作業の際は、テーラーと耕うん機の連結部分を外して耕うん機単独で使うのだ。テーラーの椅子の背もたれ部分にぶら下げたトランジスタラジオから、沢田研二の新曲「危険なふたり」が流れていた。
明人は赤爪を獲った巣穴を泥で塞いで、バケツに入った赤爪を豊叔父さんに見せた。叔父さんは「危険なふたり」のリズムに合わせて体を揺らしながらバケツの中を覗き込んだ。
「お〜っ、でかいザリガニだな〜っ」
「ザリガニじゃないよ。赤爪だよ! 叔父さんが子供の頃は赤爪って言わなかったの?」
「あ〜っ、そういや子供の頃、おじさんも赤爪って言ってたなぁ。こっち離れて長いから忘れちゃったよ」
 豊は、明人の父、仁の弟である。千葉県察の巡査部長をしている。今は船橋勤務だ。仁が入院しているために非番の時はこうして手伝いに来てくれているのだ。子供のころから良く釣りにつれて行ってもらったりしていたので、明人はこの叔父さんが大好きだった。

代掻きが終わった後、明人は叔父のクルマで病院に向かった。明人は病院の匂いが嫌いだった。健康な人間には縁がない場所、具合の悪い人間が集まる場所に違いなかったし、病院に来ると自分がなんしろ具合が悪くなるような気がしていた。だから父親が入院している病院にもかかわらずできるだけ理由をつけて明人は病院に行きたがらなかった。しかし今日は大好きな豊叔父さんが父親に会いに行くというのでしぶしぶついてきたのだった。
 二階の二〇五号室、二人部屋だったが隣のベッドは空いていた。明人は父親に挨拶だけ済ますと病室の外に出てしまった。
「今日でひと通り代掻きは全部終わったよ。そしたらゴールデンウイークにはまた休みが取れるから、田植えにくるよ」
「すまねぇなぁ……。忙しいのに、手間かけさせちまってよぉ」
ベッドに横になったままで仁は答えた。
「なーに、気にすんなよ。俺も久しぶりに耕うん機、動かして気持ちよかったよ。ちょっと、腰にはきたけど」
「俺も、こんな体じゃあなぁ……」
「手術で、胃をほとんどとっちまったんだからしばらくはしょうがねぇよ。兄貴は家の事は何も心配しねぇで、早く治すこった!」
 父親との会話が済んだ豊が、病室から出てくると、外の椅子で明人が待っていた。
「明坊、もっと父ちゃんと話しなくていいのか?」
 明人は首を横に振った。
「……だって、父ちゃん、前はふっくらしてたのにあんなにがりがりに痩せちゃって、顔見ると悲しくなってきちゃうんだもん……」
「そりゃあ、しょうがねぇさ。胃をほとんどとっちゃったんだから。だからって言って、明坊が暗い顔してたらダメだ。さぁ、笑って、笑って! 笑顔で父ちゃんと話してきな!」
 叔父さんに背中を押されて、明人は病室に入っていった。仁は、明人をちらっと一瞥すると視線を外し、天井を見ながら言った。
「明、ちゃんと豊叔父さんを手伝わねぇとしょうがねーど!」
 別に怒っているわけではない。これがいつもの父ちゃんの言い方だとは、わかっていた。明人は神妙に頷いた。

 翌日、明人は赤爪を学校に持っていった。
「明ちゃん、すげ〜な。この赤爪でけぇ!」
 そういって順一は目を丸くして驚いた。天然パーマの順一はお調子者だったが、一番明人と仲がよかった。いつも一緒の遊び仲間、バタ臭い顔の輝夫やタレ目の茂雄なども目を輝かせて明人が持ってきたバケツの中を覗き込んでいる。順一は、バケツから取り出した赤爪を持って高く掲げてクラスの仲間にひとりひとりにゆっくりと見せてまわった。明人は鼻の下をこすって目を細めていた。クラスメートたちが口々にすげ〜っとかカッコいい〜っとか言ってるのを見るのは悪い気分ではなかった。
 だが、クラスで一番反応が知りたい相手、関心をひきたい学級委員の奈美は、赤爪などに興味がない。みんなが明人の赤爪に注目する中、ただ一人背を向け椅子に座って本を読んでいた。順一から赤爪をもらうと、明人はそっと奈美の背後から赤爪を近づけた。赤爪は大きく広げたそのハサミで奈美の髪の毛を数本挟んだ。
「痛いっ! 何すんのよ!」
 奈美が手で振り払うと、赤爪は明人の手からはじけ飛んで教室の床の上に落ちた。
「信じらんない! どこまでガキなの。バッカじゃないの!」 
 普段のおしとやかな美少女ぶりからは想像もつかないような剣幕で怒る奈美を見てクラスがざわついていた。
「だいたい、ザリガニ釣ってとるんならともかく、素手で捕まえてるんだって?」
「ザリガニじゃないやい。エビカニだい! それに赤爪だ!」
床に落ちた赤爪は、教室の隅でハサミを広げて精一杯の威嚇をしようとしていた。明人は、素早く赤爪の背中の甲羅部分を掴んで、バケツに戻した。すると、手首を奈美に掴まれた。右手の中指の先には、絆創膏が貼ってあった。
「この指先はどうしたのよ。指先がエサですってか! 土の中には破傷風菌がいるのよ。ほんの小さな切傷のあるところから破傷風菌は入るのよ! 死んじゃったりすることもあるんだからね!」
 あれ、これってもしかして心配してくれてるのかな、それにしても怒った顔も可愛いなと明人は思ったが、口からは全然別の言葉が飛び出していた。
「バッキャロー、そう簡単に破傷風なんかになってたまっかよ! 赤爪に指挟まれるのが怖くて、巣穴に手を突っ込めっかよ! エビカニ釣り? あんなの女子供のすることだっぺよ! 男は黙って巣穴に手ぇ突っ込むんだよぉ!」
「なによ、あんただって子供じゃないっ」
一転、奈美はプッと吹き出した。喜怒哀楽が激しい。くるくる変わるその表情が魅力的だった。 
「ハイハイ。何騒いでるの〜。もうチャイムなったわよ。席につきなさ〜い」
教室の引き戸がガラッと開いて、出席簿を手でバンバンと叩きながら、五年生担任の田丸美由紀先生が入ってきた。最近先生はどことなくウキウキしている。それもそのはず、六年生担任の高橋先生と婚約してるのだった。先生の幸福感とか充実感というものは、極めて敏感に生徒たちに伝わるもののようで、最近の五年一組はおしなべてどことなくクラスが華やいでいるという職員室の評判だった。尤も、全校生徒は小学校全体で百六十八人しかいないので、五年生は一クラスしかなく、生徒数も二十七人しかいないのであるが……。
「あら、ザリガニじゃない! 友納君がとってきたの? 大きいわねぇ。ちゃんとウチにもってかえりなさいよ。くれぐれも校内の古代蓮の観察池に放しちゃダメよ、友納君わかった? サリガニは外来種だから蓮の根を食い散らかしちゃって枯らしちゃいます。タニシとかも食べちゃって生態系を壊しちゃうからね〜。みんなも飼ってるペットのミドリガメとか熱帯魚が大きくなって手に負えなくなったからってむやみに池や川に放しちゃダメよ〜。注意してね〜」
 田丸先生に釘を刺されてしまった。モロ、バレてた。実は明人は何回か、校内の観察池にザリガニを放流していたのだった。道理で最近、古代蓮の花が咲かないわけだ。
「さぁ、授業をはじめるわよ〜。国語の教科書の一六頁を開いて……」
 
澄み切った空の上空で、トンビがくるりと輪を描いていた。
みんなで帰る道すがら、順一が一枚のヌード写真を出してきた。
「おーっ、なんだこれぇ。すげ〜っ、ばっちり全部映ってるじゃん!」
輝夫が素っ頓狂な声を上げた。それは女の下半身が映ってる生写真だった。四人の少年たちは色めき立ち、全員、その写真に釘付けになった。成人女性で顔はわざと映してなくて、豊満な乳房から下だけの全裸写真。陰毛はなく下半身の縦の割れ目がはっきり映っている。
初めて大人の女の陰部を目の当たりにした明人は衝撃を受けていた。こうなってるのか〜、想像していたものとは全然違っていた。
「んだよ〜っ。順一、これ、生写真じゃんか〜。どっから持って来たんだよ!」
 タレ目の茂雄が口をとがらせて、尋ねた。
「父ちゃんが大事なもの隠している引き出しがあんだけど、そんなかに入ってたんだよ」 屈託なく答える順一に、ませた茂雄は言い放った。
「これって、お前の父ちゃんの浮気相手なんじゃね〜の?」
 座に微妙な空気が流れた。全く空気を読まない茂雄が能天気に続けた。
「知ってるか? この割れ目に、ちんこ入れるんだぜぃ。」
「んなはずあるか! ここに入れるためにはちんこが平べったくなきゃあ無理だろうがよ!」
 鍵だって、鍵穴に合ったものじゃなきゃ入らないではないか。明人はムキになってそう主張した。
「明ちゃんは、なんにも知らないんだなー。フェラっていうのもあんだぜぇ」
茂雄は、垂れ目をさらに下げて得意げに言った。
「ヘラ?」
「フェラーリのフェラ!」
「あんだそれ?」
 この年代の少年たちはまだ初心(うぶ)だった。性の知識は、環境の差によって実にませた子と驚くほど疎い子に分かれていた。まだ色気づいてない明人にとっては、すべてが未知の領域だった。のどかな田舎の小学生のよくある話に、畑で屯(たむろ)していたカラス数十羽が一斉に飛び立ち、カァカァと少年たちをからかうように鳴いた。道端の道祖神も笑っているように見えた。


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