20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:type X 作者:鷺町一平

第8回   第八章
第八章



 午後八時半だった。また固定電話が鳴っていた。石川真紀子はペットの餌やりを中断せねばならないことに少なからず苛立ちを覚えていた。毎日やるわけでもない三日に一度の餌やりのこのタイミングで、電話がかかってくるというのも癪にさわった。またあの犬養というディレクターに違いない。一体何回電話をかけてくれば気が済むのだろう? すでに三回も取材は断っている。テレビ局の人間はこれほどまでに厚顔無恥なものなのかと真紀子は腹を立てていた。ゲージに鍵をかけて、温めたホッパーをジップロックに戻してトングを片付けてから、鳴り続けている電話に出た。
「石川さんのお宅ですか?」
 電話の声は意外にも、犬養ではなかった。若い女性の声だった。
「夜分にお電話して申し訳ありません。私、原千草と申します。原雅人の妻です……」
 いつかは連絡があるかもしれないという予感はあった。あの原雅人の妻が接触を図ってきた! もちろん真紀子とて原千草のことは知っていた。連日ワイドショーで取り上げているのだから、真紀子のようにテレビを見ない層にも少しくらいの情報は入ってきていた。《被害者の会》を立ち上げたことに賛否両論が出ているくらいのことは嫌でも耳に入ってきていた。有名人でもある原千草は、亡くなった原雅人の小学校時代の担任である真紀子に話を聞きたいと言ってきたのである。
 電話を受けたとき、真紀子の頭の中はめまぐるしくいろんなことを計算していた。その時の真紀子の脳内を覗き込むことが出来たなら、脳内のあちこちでニューロンと呼ばれる神経細胞にシナプスが電気信号を送っている様子が見えたはずである。脳内のあちこちでぱちぱちとニューロンとシナプスが光る様はさぞ壮観だったであろう。
 真紀子にとっても雅人はこれ以上ないほど思い入れの強い生徒であったことは間違いがなかった。それ故に今度の事件は真紀子にとっても悲しみが大きかった。その悲しみを雅人の妻と共有したいという気持ちがないではなかった。もし、原千草が市井の人であったならば、躊躇なく会っていただろう。ところが今や彼女はその一挙一動に世間の注目が集まる人なのである。やはり会うのは無理がある。その理由はワイドショーの取材を受けないことと重なる。別に彼女がマスコミを連れてやってくるとは思わないが、結局彼女の動向はマスコミがいつも狙っている。亡くなった夫の恩師である小学校教師と会うということがどれほどマスコミの関心を引くのか見当もつかないが、やはり黄信号がつくことは避けなればならない。
 それに彼女が相当の美人であることも会うことを避けたい理由のひとつではあった。いや、そのほうが合わない理由としては大きかったかもしれない。少女の頃から自分の容姿に劣等感を抱いていた真紀子は、長ずるにつけますますその傾向が強くなっていった。本能的に美人には軽い憎しみを覚えるのだった。否、それは対象が女性だけには限らなかった。世の中の評価が美しいとされるもの全般に渡った。
 どうしてもお会いしたいという原千草の申し出を丁寧に断り、電話を切った。たくさんのゲージが置いてあるペットの部屋に戻って餌やりを再開する。五十三歳になる石川真紀子は独身であった。自らがすでに少女時代に予想していたように男性とは全く縁がなく、熱海市内に一戸建てを買って一人で住んでいた。屋根が瓦で玄関は引き戸の入母屋造りの純和風の注文住宅だった。モダンな洋風な家は自分には似合わないと思っていたし、何より畳の家に住みたかった。
 玄関から奥に入った十五畳の和室を真紀子は趣味の爬虫類の飼育部屋に充てていた。爬虫類と言うと広範囲になるが、真紀子が愛しているのは大蛇であった。若い頃から飼育していたボアコンストリクターは今では八匹ほどに増えていた。産地や品種によって色や模様が違うので、気に入ったものをその都度買い集めていったら、いつの間にか八匹にまで増えていたのであった。
 真紀子は万人から愛される犬や猫などには、全く興味を抱くことが出来なかった。むしろ、人から忌み嫌われる爬虫類、その中でも断トツに嫌悪される大蛇に、親近感を覚えたのだった。
 ボアコンストリクターは成長すると体長は三メートルを超える。毒こそないが、危険動物に指定されている。飼うには許可が必要だ。名前のコンストリクターとは「締め上げる者」という意味で、文字通り、獲物に巻き付き締め上げて血流を止め窒息させて捕食するのである。海外では飼育者の死亡事故も起きている。ゆえに餌やりには細心の注意が必要なのだ。
 餌は、ホッパーと呼ばれる冷凍マウスを湯せん解凍して与えている。湯せん解凍するのは、ホッパーが温かくないとボアは見向きもしないからだ。もちろん危険なので手から直接与えることはしない。必ずトングを使っている。
 いちばんのお気に入りの真っ白い個体、スノーの入ってるゲージを開けて湯せんしたばかりの特大サイズのホッパーをトングに挟んでスノーの目の前に差し出した。次の瞬間、スノーは剥きだしの野性の獰猛さと敏捷さを見せて目にも止まらぬ速さでホッパーに食いつくと身体をくねらせて巻き込んで締め付けにかかった。これから長い時間をかけてゆっくりとホッパーを飲み込んでいくのだ。真紀子は目を細めその様子を愛おしそうにうっとりと眺めていた。まさに真紀子にとっては愛するボアコンストリクターたちと過ごすこれが至福の時間だった。



「おばあちゃん、会いに来たよ〜っ」
「おおっ、よく来たなぁ。ところであんたは誰だっけかなぁ?」
「あっ、やっぱり忘れちゃったかなぁ。雅人の妻の千草です。結婚する前に一度、雅人とおばあちゃんに会いにきたことあるんだよ」
「お〜、あんたが千草さんかや。薫が言ってた通り、えらい別嬪さんだなや。会いに来てくれて嬉しいよぉ」
 千草は熱海市内の特別養護老人ホームにやってきていた。施設は丘陵地帯の中腹の青々と樹木が生い茂る中に建っている。通りを挟んでゴルフコースが拡がっていた。居室の窓からは夏の日差しを受けて成長した木々の葉が風をうけてそよいでいるのが見えると同時にうるさいほどの蝉時雨も聞こえてきていた。
 きっかけは、雅人から見れば叔母にあたる薫からの電話であった。心配して電話をかけてきてくれたのだった。千草は無沙汰していることを詫びた。雅人の葬儀にも来てもらっていたのだが、あの時はまともに挨拶出来るような状態ではなかったのだ。雑談の中で特老に入っている薫の母、つまり雅人の祖母の道子の状態が近頃はとてもいいという話が出た。その道子が千草に会いたがっているというのだった。一度、雅人と一緒に結婚報告の挨拶に行ったのだが、その時は認知症が進んでいて誰だかよくわかっていないようだったのだ。
「あんたのような、みごとい(美しい)嫁さんもらって雅人はほんとに幸せ者だっただに」
 内心、千草は心配していたのだった。というのは、道子は認知症の為に雅人がすでにこの世に居ないことを理解していないのではないかと危惧していたのだった。雅人は元気にしているかとか尋ねられたらどう答えようかと思案していたのだ。
「おばあちゃん、雅人は……」
「わかっちょるよ。あの子は可哀そうな子だったんだよ。子供の頃に心に変なもの混ぜられたんだだに。おら、思うけんど、あんな先生でなければ、雅人はまともだったはずだに」
「おばあちゃん……」
「あんたに渡したいものがあるだに」
 そういうと、道子は寝ているベッドの枕の下から四角い風呂敷包みを出してきて千草に差し出した。促されて千草が風呂敷を解くと中から茶色い表紙にウッドペッカーがデザインされているノートが出てきた。やや色褪せたウッドペッカーの下に子供の字で“日記帳”と記されている。
「こ、これは……」
「雅人の日記だべ。これをあんたに渡さにゃ、おら、死ぬに死ねないとずっと思ってたずら」
「そんなこと言わずにもっともっと長生きしてください。雅人の分まで……」
 思わず出てしまった言葉だったが、千草の本心だった。幼くして両親と死別した雅人をずっと育ててくれた祖父母には感謝の念しかなかった。また来ますと言って道子に挨拶して別れたのち、クルマに戻った千草は、家で読むつもりだった雅人の日記を待ちきれずに車内で開いた。人の日記を読むというのは子供の頃からしてはいけないと教育されてきたので少し抵抗があったが、この際そんなことはいってられなかった。今は雅人の事なら何でも知りたかった。
 ページを繰ってみる。

《四月七日
ボクは四月から一ねん生になった。じいちゃんがしょうがく生になるんだから日記をつけなさいといった。にっきちょうを買ってくれたから、ボクはきょうからにっきをつけることにした》

 小学生らしい大きな文字で元気いっぱいの文字が躍っていた。小学校に上がった喜びが伝わってくる。雅人は小学校一年から日記をつけていたんだ。私はいつからだったろう。千草は貪るように読んだ。読み進めるうちにだんだんと千草の表情は曇りがちになっていった。途中、いたたまれずに日記をとじたりもしたが、最後まで読んだ。雅人の苦しみが伝わってきた。こんなことが許されるのだろうか。なんとしても石川真紀子に会わなくてはならないと千草は思った。



 当初こそ、マスコミの注目を浴びた《type]被害者の会》であったが、その後のオリガント・インダストリー側のメディア工作により露出も少なくなってはいたが、細々と活動は続いていた。活動資金は全て寄付金によって賄われていた。発足当初は、設立趣旨に賛同してくれたタレントや歌手、俳優も多かったために、当初の寄付額は予想をはるかに超えて集まったが、マスコミに取り上げられる回数が少なくなり、ネガティブキャンペーンも盛んになるにつけ目に見えて寄付額は少なくなっていった。
 《type]被害者の会》の何より一番の弱点は、type]による被害は犯罪ではないということに尽きた。あくまでも女性のパートナーである男性が自ら進んでtype]を選んだということであった。ゆえに《被害者》面するな! という批判は根強く残ったのであった。これがいわゆる犯罪被害者の会とは決定的に異なる部分であった。
 この被害者の会の成り立ちの脆弱性により、どうしても活動内容は限定的なものになった。すなわち、設立趣意書に戻づいたtype]の規制に向けての動きのほかには出来ることと言えば、被害者である女性の精神的ケア、具体的には電話相談である。それともう一つはシンポジウムや講演である。要請があれば全国の文化会館、公民館でシンポジウムを開催してtype]被害による精神的ダメージに加え、マスコミの容赦ない取材攻勢の餌食とされてどれほどの苦痛を被るかについて、千草は切々と訴えてまわった。
 シンポジウムや講演には、type]を快く思わない大勢の女性たちが集まってくれて、いずれの会場も盛況であった。そして講演後には数多くの女性たちから、バッシングに負けずに頑張ってください等の激励を受けた。ある女性などは感激して控室にやってきて千草の手をとり涙を流しながら、「あなたは私たち女性の希望です」と言ってハグしてくれた。
 こういったことがあるからこそ、千草はしんどいと思うこともあるけれども、心の中にちいさなやりがいの灯がともるのを感じ、一緒に頑張っているスタッフ共々、一人じゃないんだという感覚を分かち合ったのだった。
 そんな忙しい中でも、時間を見つけ千草は雅人の小学校時代の同級生を探し話を聞くことを忘れはしなかった。雅人が子供時代から何を考え、どう暮らしてきたのか、今更ながら知りたいと思ったからだった。そして同級生たちから話を聞くにつけ、より大きな存在となってくるのは、あの藤田隆史も言っていた小学校時代の女教師、石川真紀子だった。
 その思いは先日、道子から雅人の日記を渡され更に高まった。最終的には彼女に会わなければならないことは明白だった。しかし、何度電話して面会を申し込んでも断られ続けていた。
 講演に来た地方都市の公民館の控室で、千草は石川真紀子の家へ電話をかけてみた。呼び出し音が数回鳴ったあと、留守番電話の応答メッセージが流れた。またか……最近では居留守をつかわれているのではないかと疑っている。千草からかけて無言で切るのは失礼なので、メッセージを残してスマホを切った。わけのわからない苛立ちに襲われ千草は咳込んだ。控え室におかれたペットボトルの水を一息に飲んだ。
 そんな中、事件は起こったのだった。



 相変わらず犬養は、原千草の密着取材に明け暮れていた。ここ最近は視聴者にもだいぶ飽きられてはきていたが、先日の《type]被害者の会、もつれた愛憎の三角関係》という女性週刊誌の記事に対して、顧問弁護士である橘が怒りの否定会見をしたことでまたぞろ注目が集まっていたのだ。今日の取材の目的はシンポジウムや講演にピッタリと張り付いて、まるでマネージャーでもあるかのようにかいがいしく千草の世話をしている橘と千草の距離感を映像で掴むことを目的としていた。それはつまりクルマの乗り降りの際に橘と千草が手を取り合うなどという「絵」が撮れればと、犬養は考えていた。
 そのためにわざわざこんな地方都市の公民館などに取材車を出してきて待機しているのであった。関係者駐車場が見える道路の反対側に取材車をとめ、千草たちが出てくるのを待ち構えていた。午後三時半、講演が終わり関係者が裏口から出てきた。慌ただしく煙草を消して、準備にかかった。カメラマンに言ってカメラを回させ始めたその時だった。千草と橘を含む関係者が出てきた。橘はまるで千草のボディガードのように寄り添っている。ホラ、早く手を握れや! 犬養は心の中でつぶやいていた。
 文化会館の控室から裏口を通り、関係者駐車場に停めてある車に千草が関係者と共に乗り込もうとしたほんの数十メートルの間隙をぬってその男は突進してきた。手には刃物を持っていた。異変に気付いた橘が男ともみ合いになった。千草が倒れこむ。橘は必死になって男の手から刃物をもぎ取ろうとしていた。男は何やら叫んでいた。警備員が駆けつけてきた。駐車場のアスファルト舗装の路面に男は押さえつけられた。どうやら千草は無事だったようだ。男ともみ合った橘はスーツのワイシャツの袖が赤く染まっていた。出血しているようだった。騒然としていた。誰かが呼んだのだろう。パトカーのサイレンがだんだん大きくなってきた。
 犬養は、興奮が抑えられなかった。大スクープだった。犬養のスクープはもちろん翌日のホットダイナミックヌーンショーを待つまでもなく、その日の夜のニュースで全国的に流された。「原千草さん襲われる!」のニュース速報はすぐに出たが、緊迫したその現場を撮っていたのは、犬養だけだったのだから注目度は高く当然視聴率は他局をブッちぎった。
 一報を伝えるニュースのテロップには『原千草暗殺未遂!』の文字が躍った。
「本日、午後三時半過ぎ、千葉県山武市成東文化会館で講演終了後にクルマに乗り込もうとしていた原千草さんが、刃物を持った男に襲われるという事件が発生しました。男は取り押さえられ、原さんに怪我はありませんでした。もみ合った際に《type]被害者の会》顧問弁護士の橘優作さんが手に軽傷を負いました。男は駆け付けた警察に殺人未遂の疑いで現行犯逮捕されました。警察の発表によりますと男は都内に住む無職三十一歳の松岡勝昭容疑者で、typeXを目の敵にしていることが許せなかった、と供述しているようです。なおこの松岡容疑者は二週間ほど前にtype]と結婚式を挙げており、その様子を動画サイトにアップしていることが判明しました」
 このニュースの反響はすさまじく、翌日の「ホットダイナミックヌーンショー」の視聴率も爆上げ状態となり、歴代トップスリーに食い込んだ。容疑者の結婚式動画はもちろんホットダイナミックヌーンショーでも流されたし、その後の各局の後追いニュースでも繰り返し流され、その動画サイトの再生回数は一夜にして四千万回を上回った。
 番組のメインキャスター、紅東洋子は松岡容疑者の短絡的思考を信じられない暴挙あるまじき行為として、元々シンパシーを感じていた原千草を徹底的に擁護する発言をした。
「自分と主義主張が違うから、相手を殺せばいい! こんな考えがまかり通ってしまえば世の中はめちゃくちゃになってしまいます」
 ネット上では、《お〜っ、ホットダイナミックヌーンショー日和ったか?》《原千草にずっと批判的だったのに擁護にまわった〜》《いやいや、この状況でどうやって原千草陣営を批判できるのよ》《正論だろ。性の多様性を認めろとかヌルいこと言ってっから遅かれ早かれこういう事件は起きるんだよ》等の書き込みが目立つと、アシスタントディレクターの村井が犬養に報告してきていた。
 犬養は、迫真の大スクープを撮ったことで東都テレビから社長賞の表彰を受けた。
 潮目は完全に変わった。「性の多様性を認めろ」っていう流れは完全にストップして、やはりこういう事件が起こるのであれば、ある種の規制は必要ではないかと追う論調が目立ってきた。容疑者が、type]にのめり込んで、結婚式動画まで作っていたということが批判の対象になったことは言うまでもなかった。



 犬養は番組スタッフを誘って、行きつけのスナックで祝杯を上げた。歴代トップスリーの高視聴率を叩きだし、社長賞ももらったとあれば機嫌が悪かろうはずがない。大盤振る舞いをしていた。洋子は犬養が有頂天になっている様子が手に取るようにわかった。このところ、番組のメインキャスターである紅東洋子とチーフディレクターである犬養の間がギクシャクしていることは番組スタッフの間でも周知の事実だった。だから皆は密かにこの祝杯に洋子が来るかどうか気をもんでいたのだった。しかしメインキャスターである自分が来ないわけにはいかないでははないか。
 それは内心は穏やかざるものがあった。紅東洋子は、原千草寄りであることを隠してはいなかった。今日の番組内でも原千草を狙った凶行には本気で腹を立てていた。本来はキャスターたるもの、もっと冷静でいなくてはならないのかもしれない。だが、その前に洋子は自分らしくありたいと、あの原千草の被害者の会立ち上げ会見の時に心に誓ったのだった。今回の犬養の大スクープを否定するものではなかったが、それはずっと原千草のプライバシーを暴こうとする意図の延長線上のたまたまの僥倖(ぎょうこう)に過ぎないのではないかという考えを拭い去ることが出来なかったのだ。ゆえに心から社長賞だの、トップスリーの高視聴率だのを喜ぶ気持ちが湧き上がって来ないのもまた事実だった。だが犬養にとってそんなことはどうでもいいことで、話しても一笑に付されるに決まっていた。
 犬養にしてみれば視聴率が全てなのは明らかだった。そんなことを考えながらプロデューサーの中臣や局のスタッフたちに囲まれて大声で笑いあっている犬養を横目に洋子はカウンターでウィスキーを煽っていた。
「なんだ、元気ないじゃないか!」
 不意に肩をたたかれて驚くと、いつの間にか隣の席に犬養が移動してきていた。瞬間、洋子は絡まれるなと覚悟した。
「そんなことないわよ。社長賞おめでとう!」
 洋子は犬養と乾杯した。犬養はもっと喜色満面かと思ったらため息をついた。
「あなたこそ、元気がないじゃないの。そういえば、村井はどうしたの? 来てないじゃない」
「知らんよ。なんか用事があるとかなんとか言ってやがった。デートかなんかじゃねえのか?」
「珍しいこともあるものね。いっつもあなたのそばを片時も離れない腰巾着がこんなおめでたい日に来ないだなんて……。そうか、子飼いの村井が寄りによってこんな日に居ないからムカッ腹を立ててるってことね!」
「馬鹿言え。そんなんじゃね〜よ。今日っていう日はさ、なんつーか、自分の仕事に対する姿勢つ〜か、そんなことを考えちゃったんだよね……」
 そう言うと犬養は下を向いて自分のグラスを両手でそっと握り締めた。
「話、聞いてくれるか?」
「い、いいわよ」
 内心、洋子は意外な展開になりそうなので驚いていた。
「俺は確かにスクープを撮ったよ。でもさ、あの時あの松岡って若い男が刃物を持って突進していって、もみ合いの中、原千草が倒れこんだとき、俺は心の中でガッツポーズしたんだ。もちろん、思ってもみなかったスゲ〜場面に遭遇したって興奮が体中を駆け巡った。だけど、男が取り押さえられて、原千草が起き上がって無傷だとわかったとき、俺は思わず舌打ちしてた。刺されてないのかよと失望したんだ」
 そう言うと犬養は洋子の目を見た。洋子にも身に覚えがあった。テレビに関わっている人間で、視聴率を気にかけている人間なら、だれでも一度や二度くらいそんなことがあっても不思議はない。ただ具体的に誰かが死ねばいいとは思わない。犬養は続けた。
「次の瞬間、ハッと気づいたんだ。俺は原千草が死ぬことを望んでいるのか? 彼女に死んで欲しい、少なくとも重症であってほしいって願っているのかと気づいて、なんつ〜か、愕然としたんだよ。どこまで嫌な人間になっているんだって……。
 それだけじゃないんだ。考えてみたらあの犯人の松岡って奴はずっとあのあたりをうろついてたんだ。落ち着きがない様子でそわそわしながらさ。だけど準備で忙しかった俺たちは、ただの原千草のファンくらいかなとしか思わず、全く注意を払っていなかった。
 あの時、俺の頭の中は直前の週刊誌の記事の三角関係のことでいっぱいで、なんとか原千草と橘優作の手つなぎの絵を撮りたいってことで凝り固まってた。昔の俺だったら、あんな不審な動きしている奴を見逃すはずなかったんだ。気づいていたから止めるとかじゃね〜よ。俺が言ってるのは、気づいていたらもっとシャープな映像が撮れたんじゃねーかってことだ。あれじゃあ完全な素人のハプニング映像に過ぎない。それやこれやで正直ちょっと自己嫌悪を感じてたんだ」
「わかるよ、その気持。今は視聴率ありきだもの。実際問題、私たちは視聴率の奴隷なのよ。主義主張なんてどうでもいいの。右でも左でも視聴率がよければそれが全てなのよ。視聴率という怪物に生殺与奪(せいさつよだつ)の権利を握られてるのよ」
「怪物じゃないさ。俺たちが崇め奉って神様にしちまったんだ。ただの数字でしかなかったものを」
 忌々し気に犬養はつぶやいた。
「それで、俺たちものろのろ撤収の準備してたんだ。そしたら警察の現場検証とかいろいろあった《被害者の会》のほうもようやく終わって、関係者が引き上げようとクルマに乗り込んで発進させるところだったのよ。
 するとそのクルマの前に小さな子猫が飛び出してきたんだ。なんとか轢かれはしなかったけど、そしたらクルマの中から血相変えた原千草が飛び出してきたんだ。震えてる子猫を抱きかかえてあたりを見回してる。どうやら子猫は捨て猫らしかった。駐車場の隅に段ボールの箱が置いてあった。原千草は子猫を抱きしめて頭をなでてやってた。
 俺はなんだか涙が止まらなくなっちまったんだ。だって、命を狙われた直後だぜ。普通なら自分のことで精いっぱいで子猫を拾ってる余裕なんてあるはずない。だけどあの女、原千草は違ったんだ。自分の身の安全が脅かされた直後ですら、捨て猫の安否を気にしている。
 これは巷間いわれてるような売名とか、目立ちたがり屋とかの、みみっちい問題とは根本的に違うと思ったんだ。人間的に純粋なんだと俺は思った。心の優しい人間なんだって思った。翻って自分の卑しいテレビ屋根性と比べてみたときに、本当に自分が情けなく思ったんだ」
 洋子はなんかわかる気がした。原千草というのは、どこか人の心を浄化するようなところがあるのかもしれないと感じた。
「私も被害者の会の記者発表を間近でみて、同じように感じた。なんか彼女には人の心を清める作用のようなものがあるのかもしれないわね」
「いままで、散々、原千種のプライバシーまで根ほり葉ほりほじくって、悪しざまに言ってきて、視聴率が全てだと断言してきた俺がいうのもなんだけど、ようやく洋子が言ってた《報道の矜持》っていうのが身に沁みた気がするんだわ。本音を言うと今までだって気にはなってたんだが、無理に無視しようとしていたんだな。やっとわかった。こうしてみると俺のなかにも少しは良心が残されてたのかなぁ」
 そう言うと、犬養は少し笑った。今日はいつもより歯についたヤニは目立たないように洋子には感じられた。現金なものだ。洋子も笑い返した。停戦協定。二人はがっちり握手を交わした。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 274