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作品名:type X 作者:鷺町一平

最終回   第十章〜エピローグ
第十章



 実家から借りたクラウンは首都高から東名高速を経て、小田原厚木道路に入ろうとしていた。助手席には、きにゃこがいるバスケットがある。クルマを借りる際に実家に置いてくるつもりだったのだが、可愛いさかりのきにゃことなんとなく離れがたくなってしまったのだった。初めてのドライブだったが、きにゃこは怖がることもなくおとなしくしていた。
 ハンドルを握りながら、千草は雅人の恩師、石川真紀子からの電話を思い出していた。ずっと逃げ回っていたのに、ようやく会う気になったのかという安堵感はあったものの、なんで今日なのかと思ったのも事実だった。出来れば違う日にしてほしかったというのが正直な思いだったが、そんなことを口にすればもう会うチャンスはないかもしれないという不安が先にたってしまった。雅人の祖母から渡された雅人の日記を読んで、雅人が小学生時代にどういう扱いを受けていたのかを知った千草は、なにがなんでも石川真紀子に会わないわけにはいかなかった。ハンドルを握る指に力がこもった。
 窓から見える遠くの山にかかる黒い雲が、さっきから幾筋か光っていた。稲妻だった。ぽつぽつとフロントガラスに落ちてきた雨粒を雨滴感知オートワイパーが間欠で拭っていたが、程なく間欠では間に合わなくなりワイパーが休みなく大忙しになった。千草は慣れない実家のクラウンで、ましてや雨という状況に舌打ちしたくなったが、石川真紀子と会うという強い意志の前にはそんなことは些細なことでしかなかった。
 クラウンは、石川真紀子の自宅がある熱海市内に入った。雨はますます激しくなってきてワイパーはせわしなく動いている。雨のしぶきで見づらくなっている信号を見落とさないように、慎重にアクセルを踏む。真紀子の自宅住所はナビに目的地設定してある。あと五分ほどで到着予定だ。クラウンは海をどんどん離れ丘陵地の住宅街に入ってきた。到着。ドアツードアだった。幸いすぐそばに空き地があったのでそこにクルマを停めた。今のナビ性能は本当に凄いと千草は感心した。
 間断なく雨が降っているので用意してきた傘をさして、バスケットを開けてきにゃこにちょっと待っててねと声をかけると、バスケットの中できにゃこはにゃあと返事をしたので可愛くて思わず千草は頬を緩めた。だがすぐにこれからの女教師との対峙を思い、表情を引き締めた。
 石川真紀子の家は、入母屋造りの純和風住宅だった。呼び鈴を押そうとしたとたんに引き戸が開いて、石川真紀子が出迎えてくれた。雅人の卒業アルバムで顔は知っていたが、予想していたよりはるかに小柄だった。
「ようこそお越しくださいました。お呼びだてして申し訳ありません」
 真紀子は千草をリビングに招き入れて、コーヒーをいれてくれた。二人は向かいあって座った。千草は家の中に入った途端に、ただならぬ異変に気付いた。普通の家とは違う空気感を感じた。微かに鼻腔をかすめる生臭さに千草は不安を覚えた。
「ようやく、お会い出来ましたね」
「やはりテレビで見るよりはるかにお奇麗でいらっしゃるわねぇ。あら、ちょっと緊張なさってる? 普通の家とは違うわって顔に書いてあるわ。私はもう慣れちゃってるのでわからないんだけど、微かに臭うのかしら?
 爬虫類は匂いはほとんどないはずなんだけど、もしかしたらホッパーが臭うのかもね。あ、ホッパーっていうのはね、冷凍マウスのことなんですの。さっき餌やりを終えたばかりですのよ。ご覧の通り、私は独身なのでペットとしてボアコンストリクターという大蛇を何匹も飼っていますのよ」
 驚きで千草は心臓が飛び出しそうになった。まさか、大蛇を飼っているとは思わなかった。そして次の瞬間、恐怖で血の気が引くのが自分でもわかった。目の片隅にリビングのフローリングの床を身をくねらせて真紀子のもとに寄ってくる真っ白な大蛇の姿をとらえたからであった。
 石川真紀子は、寄ってきたその二メートルはある大蛇を愛しげに抱き上げると、胴体を首に巻いて十センチほどの三角の頭を撫で始めた。大蛇はチロチロと舌をだして真紀子のされるがままになっていたが、それは千草にとっては恐ろしいだけであった。雪のように白い大蛇の体表は、LED蛍光灯の光に鱗が怪しく煌めいて、不気味さをより際立たせていた。
「この子はね、一番可愛がっているスノーっていうの。可愛いでしょう? 私になついてるのがわかるでしょう?」  
 嬉しそうに真紀子は笑ったが、初対面の相手に対して自慢のつもりなのかしらないが、ただただ常軌を逸しているとしか千草には思えなかった。
「ほら、とっても肌触りがいいのよ。あなたも触ってみる?」
「け、結構です」
 千草は決して爬虫類は苦手ではなかったが、さすがにこんな巨大な大蛇を触る気にはならなかった。
「ちょっと刺激が強すぎたようね。このままでは会話もままならないようだから、ちょっと失礼してこの可愛いスノーをゲージに戻してくるわね」 
 千草は心底ほっとしたのだった。しばらくして真紀子は戻ってきた。
「傍から見たら、ボアコンストリクターを何匹も飼育しているなんて気持ち悪いとか思えないかもしれませんけど、私からすればどれも可愛いペットたちなのよ」
 どういう意図をもって、真紀子がボアコンストリクターを千草に見せたのかは明白だった。気勢を殺ごうとしたのだった。だが今日、ここに千草は強い覚悟をもって来ているのだった。これしきでビビってはいけないと頭の中のもう一人の自分が囁いた。雅人、私に力を貸して! と千草は心の中で願った。
「先生は、ご自分の担任した生徒にもペット気分で接していたのですか? あなたは雅人に随分酷いことをなさいましたね。あなたのせいで雅人は人生を狂わされた。雅人は元気のいいごく普通の男の子だったんです。ちょっとナルシストなだけの。女装癖はあったかもしれないけど、女の子が好きなごく普通の男の子だったんですよ! いや、普通に育っていれば女装癖もなかったかもしれない。
 それなのにあなたは雅人に、中身は女の子なんだっていう意識を繰り返し繰り返し植え付けていった。男の子と遊ぶことを禁止して女の子と遊ぶことを強要した。だんだん雅人は精神的に不安定になっていった。そして自分のアイデンティティを見失った。雅人は自分が男なのか女なのかわからなくなってしまった。それは私と結婚してからも続いていた。彼は必死で隠していたけれど。
 私はそれには気づいていたわ。何か悩みを抱えていると。私もそこまで鈍感ではないわ。でも私の失敗は、焦ることはない、彼の心をゆっくりと時間をかけて解きほぐしていけばいいと考えていたこと。こんなに早く彼が居なくなるんだったら、もっと積極的に彼と話し合うべきだった。そういう意味ではとても後悔しているの。
 雅人の不幸は、あなたのような教師が担任だったことに尽きる。あなたなんかに教師の資格があるとは到底思えない! 先生、何か言いたいことはある?」
 じっと目を伏せて聞いていた真紀子は、すでに冷めてしまったコーヒーを一口飲んで唇を湿らすと真っすぐ千草の目をみて言った。その目は美しいものに対する怨嗟を宿していた。千草も一歩も引かず見返した。目線の火花が散った。
「あなたは結局、自分の不満を私のせいにしてぶつけているに過ぎないわ。少なくともあなたの夫が亡くなったのは、私のせいではない。これだけははっきりと誤解のないように言っておく必要があるでしょう。
 今の日本の、いや世界の状況をご覧なさい。いい? 世の中がどっちの方向に進んでいるかということをよく認識すべきよ。世界は確実に、性的マイノリティーを擁護する方向に進んでいるの! それくらいは馬鹿でもない限り感じるはずよ。彼等を支援する動きは、全国の自治体レベルで確実に広がっているわ。条例や行動計画に、性的指向、性自認による差別の禁止を盛り込んだり、同性カップルのパートナーシップを認めるなどの取組をする市区町村は、どんどん増えているじゃないの! むしろ国より先行しているくらいだわ。
 そう考えていくと、あなたの主張がいかに時代遅れのものかよくわかるでしょう。私の教育方針は時代の最先端をいっていたのよ! 性の多様化の重要性を説いた二十一世紀の最前線の人格を私は原雅人に与えようと腐心していたのよ! わかる?」
 不敵に微笑む真紀子に対し、一歩も引かずに千草は言い放った。
「某国お得意の論点ずらしね! 先生、あなたも本当は分かっているんでしょう? 雅人は自分の性別に、微塵も疑いなんて持っていなかった。一ミリたりとも自分が男の子であることを疑っていなかったのよ! あなたに無理矢理トランスジェンダーを押し付けられて捻じ曲げられていったのよ! 雅人はあなたに人生を破壊されたも同然だわ! 私は絶対にあなたを許さないっ! 幸いなことに私は明日会見します。その場でこの国を覆う歪んだフェミニズムと行き過ぎたジェンダーフリー教育、それに乗っかろうとする性のマイノリティー利権を暴いてやるわ!」
 それだけ言うと、千草は全身がカッと火のように熱くなっていた。気づくと石川家のリビングのテーブルの縁をきつく握りしめていた。



「ところがそうはいかないんだなぁ……」
 奥の部屋から間延びした声を出しながら、のっそりと現れたのはオリガント・インダストリー営業部長の多岐川豊だった。
「ご主人の葬儀でお会いして以来かな? 尤も私のほうは、テレビで連日あなたをお見掛けしてますがねぇ」
 そういって歯を見せた。
「何故、あなたがここに……?」 
 千草は混乱していた。小学校教師とオリガント・インダストリーの営業部長がどうしても結びつかなかった。接点が見いだせなかった。それを見透かしたように多岐川が言った。
「先生とは爬虫類つながりでね。息子が入っている爬虫類サークルについていったときに知り合ったんだ。最近しつこい女から電話がかかってきてしょうがないって相談を受けてね。それがあんただってわけさ」
「多岐川さんも《被害者の会》なんてものを立ち上げられて、迷惑してるのよ。だからこうして、いい機会だからあなたに来てもらったって訳なの」
「私は、おびき出されたってことなのね……」
 突然、玄関の引き戸が開いて、部屋の中に若い男が乱暴な動作で入ってきた。その手には千草のクルマに置いてあったはずのバスケットが握られていた。
「クルマの中にこんなものがあったぜ」
 闇社会の人間なのか、口の利き方や所作がぞんざいで、明らかに堅気ではない目つきの鋭いその男がバスケットを多岐川に渡した。多岐川はバスケットを覗き込むと子猫がいるのを確認した。きにゃこは怯えて震えていた。
「きにゃこ! どうして? クルマはロックしたはずなのに……」
「施錠解除なんてこいつらにかかれば造作もないことさ。あんたの猫かい? 可愛いじゃないか」
「あら、ほんと。ずいぶん可愛い子猫だこと。スノーたちはさっき餌のマウスを食べたばかりだけど、いきがいい餌には飢えてるから、おやつにちょうどいいかもしれないわね」
 そう言いながら、真紀子は奥の部屋につながる襖を開け放った。そこには和室全体に所狭しと、ボアコンストリクターのゲージが並べられていた。
「温度、湿度管理のために普段は開けないんだけど、今日は特別にあなたのために御開帳よ」
 そう言うと真紀子は、バスケットを開けて、きにゃこの首根っこを乱暴にむんずと掴んで持ち上げた。きにゃこは、尻尾を丸めて脚の間にはさんで怯えて小さくなっていた。
「やめてーっ」
 千草の叫びを無視して、真紀子はゲージに近寄っていった。ゲージの中のボアたちは生きた餌の匂いで興奮しているのか、多くのゲージが不気味に揺れた。次の瞬間、大蛇の気配に身の危険を感じたきにゃこは、毛を逆立ててめちゃくちゃに暴れた。そして真紀子の手を引っ掻いて脱兎のごとく逃げ出すと、千草の後ろに隠れた。かわいそうにきにゃこは震えていた。千草はきにゃこを抱き上げて頭を撫でてやった。小さな心臓の動悸の速さが千草の手に伝わってきた。
 引っ掻かれた手を気にしている石川真紀子の横に立っているオリガントの多岐川。二人には邪悪なオーラが立ち上っていた。たくさんの大蛇に囲まれて、平然と子猫を大蛇の餌にしようとした小学校教師と、自社製品を売るためなら人の命などないがしろにするオリガントの部長……、千草の目には、人間の体温を持たない冷血動物のように映った。
「なるほど。温かい人の心を持たない冷血揃い踏みって訳かしら? ついでにここに和久徳一郎がいれば、もっと絵になってたでしょうに! オリガントと和久は共謀して雅人を死に追いやった。雅人の事件は心中なんかじゃなかった! あなたたちに殺されたのよ! いずれにせよ、明日全部ひっくるめて白日の元にさらされるのよ。もう逃げられはしないわ!」
「あれは事故だったんだよ。不幸な事故だった。こんなこと言ってもあんたは信じないかもしれないが……」
「なにを今更しらじらしい! 和久の過去を探られて邪魔になって殺しておいて、そんな言い訳が通用すると思うのっ!」
「勇ましいのはいいけど、この状況でそんな強がりを言える立場かな? あんたは、明日会見出来ない。あんたは今日、ここには来ていない。何故なら来る途中事故を起こすからだ」
「私も殺すつもりなの?」
「それはどうかなぁ?」
 多岐川が顎をしゃくると、目つきの悪い若い男が千草の腕を掴んだ。



 時刻はもう午後十時を回ろうとしていた。降りしきる雨の中を橘は全く千草と連絡が取れないことに苛立ち、熱海に来ていた。女教師の住所は分かっている。会見は明日だというのに連絡がつかない状況というのが異常だった。何より千草の安否が気がかりだった。さっきから熱海市内にパトカーのサイレンが鳴り響いているのが気にかかっていた。
 着いた、ここだ。表札で石川真紀子邸だというのを確認して、傘を片手に引き戸横の呼び鈴を鳴らしてみる。誰も出ない。様子を窺ってみるが灯りも消えているし、人がいる気配がない。もしかしたら居留守をつかわれているのも知れないと思い、何度も何度も呼び鈴を鳴らす。すいませんと声をかけてみるが返事がない。
 その時、ポケットの中のスマホが鳴った。ユキだった。
「橘さん、今どこですか?」
「熱海だけど?」
「じゃあテレビとか観てないですよね。大変です。ニュース速報でました。千草さんが逮捕されました。飲酒運転で事故を起こして現行犯逮捕って!」
 ユキは泣き声になっていた。まだ何か言ってるのを強引に切って、橘はネットニュースを見てみた。
 《typeX被害者の会、原千草代表飲酒運転で現行犯逮捕》の文字が目に飛び込んできた。内容は、熱海市内で信号機にぶつかる物損事故を起こし駆け付けた警察が調べたところ、呼気から基準値の三倍のアルコールが検出されたという。さらに車内からは脱法ドラッグであるMDMAが押収されており薬物依存だった可能性も取りざたされていると記事は結んでいた。
 完全にハメられた……橘はがっくりと肩を落とした。千草は酒は強いほうではなかった。アルコール依存や薬物依存でないことは橘が一番よくわかっていた。俺がいっしょについていれば……橘は悔やんでも悔やみきれなかった。そのとき、か細い「にゃあ」という鳴き声が聞こえた。雨の音にかき消されそうな小さな鳴き声だった。聞き覚えのあるその声に橘は耳を澄ました。
「……にゃあ」
「きにゃこ、いるのか?」
 橘は名前を呼んでみた。暗闇の中から、濡れそぼったきにゃこが出てきた。どこかに隠れていたのだろう、全身が小刻みに震えているのが雨に打たれた寒さなのか、余程怖い目にあったからなのか橘にはわからなかったが、千草がここに来たのは間違いがなかった。
「きにゃこ!」
 橘はきにゃこを抱きしめ、むせび泣いた。橘が取り落として逆さになった傘に容赦なく強い雨は降り続けていた。



 翌日に予定されていた千草の記者会見は、本来ならば千草の独壇場になるはずだったが、皮肉にも原千草の飲酒運転事故ならびに薬物依存に関する質問が集中した。矢面に立たされた橘は全てを否定したが、記者から、それはあくまで公的な日常のことに限られるわけでしょう? 彼女のプライベートな奥底の部分まであなたにわかるんですかと突っ込まれると、わからないと答えるしかなかった。その日は、原千草逮捕! のニュース一色に染まった。マスコミ各社は原千草の抱えた心の闇とかいうタイトルを適当につけては、いかに日ごろ千草が夫の死を受け入れられず深酒に溺れてゆき、その過程で脱法ドラッグにも手を出していったかという憶測記事を果てしなく垂れ流していった。
 《type]被害者の会代表》原千草が逮捕された直後の二十日に投開票された友愛党総裁選の結果は、僅差で和久徳一郎候補が須藤琢磨首相の三選を阻んだ。国会議員票では須藤首相が百票余り上回ったが、和久候補はその差を地方票でひっくり返した形だ。原千草の逮捕のニュースが地方票の行方に影響を及ぼしたのは明白だった。この結果、友愛党新総裁の和久徳一郎が内閣総理大臣に指名された。
 結果として「性の多様化」を推し進める和久総理の元で、オリガント・インダストリーは庇護され規制の心配もなく、翌年三月、新製品となる「typeR」を発売した。これは同社初となるAI搭載男性型ラブドールであり、むろんターゲットは女性である。この男性型ラブドールの発売を心待ちにしていた女性も多かったという。

 千草はMDMA所持の現行犯でも逮捕され、麻薬及び向精神薬取締法違反で起訴された。橘らの必死の努力で執行猶予は勝ち取ったものの有罪であることは間違いなく、執行猶予の条件として民間の薬物依存症リハビリ施設に収容されることが決まった。強いMDMAを使われた後遺症なのか、いまだに何もやる気が起きずに収容された施設のベッドで寝たり起きたりを繰り返していた。起きているときもほとんどしゃべらず、ボーッとしていることが多い。
 今日も橘は千草の面会に来ていた。いろいろと話しかけてみるが、返事がかえってくることはまれだった。後の警察の捜査でMDMAは千草の自宅であるタワーマンションからも押収されて、これが決め手となって千草のMDMA常用疑惑が深まった。しかし橘はこれは罠だと確信していた。全ては和久とオリガント・インダストリーが総裁選に勝つために仕組んだ恐ろしい陰謀に他ならなかった。千草の口を封じるために!
 あの日、千草は寄ってたかって抑えつけられて、エタノールを静脈注射されたに違いなかった。血中アルコール濃度が0・2パーセントを超すと酩酊状態になる。そうしてクルマに押し込んで誰かがアクセルをふかして信号機にぶつけたに決まっているのだ。そして千草のバッグの奥底にMDMAを隠したのだ。証拠は何もない。アルコール依存! そして薬物依存! 和久とオリガントの陰謀を暴こうとした千草の正義は、こうしていとも簡単に不名誉な汚名を着せらせ握りつぶされた!
「千草さん、今日は、バスケットに入れてきにゃこを連れてきた。本当は違反なんだが、構うことはない。世の中は理不尽なことだらけだ。律義に決まりなんか守っていたって、いいことなんかなにもない」
 言ってしまってから、弁護士の俺がそれを言っちゃあおしまいだなと橘は自虐的に笑った。
 バスケットから顔を出したきにゃこは、千草を見ると嬉しそうに「にゃあ! にゃあ!」と鳴いて、頭を千草の膝がしらに擦りつけた。千草の頬にほんの少し赤みがさして、微笑んだように橘には見えた。
 
「あらっ、今どこかで猫の鳴き声がしなかった?」
「気のせいじゃない」
 リハビリ施設のナースステーションで、ふたりの看護師の女たちがtypeRのカタログを見て色めき立っていた。
「そんなことより、荒井ちゃん、みてこれっ。ついにtypeRが出るんだって!」
「なんですか、それ?」
「やだぁ、知らないの! オリガント・インダストリーが満を持してこの春発売する女性向けのAIラブドールよぉ。ほらカタログ」
「うわ〜っ、すっご〜い。なにこれぇ。先輩、オプションのPサイズ選択可能ってなんですかぁ?」
「やだぁ、荒井ちゃん、知ってるくせに〜」
 下品な含み笑いをして先輩は、後輩の背中をど〜んと叩いた。  
「アタシはこの細マッチョタイプの宏がいいわぁ〜。ローン組まなくちゃっ。ねぇ荒井ちゃん、勤務があけたらショールーム一緒に行こうよ〜」
「え〜っ、先輩、あたしそういうのはあんまり……」
「実物見たら印象変わるから!」
「そうですかぁ? しょうがないなぁ。じゃあ先輩に付き合いますよ〜」

エピローグ

 五浦(いづら)六角堂近くの人気のない駐車場のクルマの中で、和久徳一郎の息のかかった男たち二人はtype]タマラと雅人に対して凄みを利かせていた。
「降りろ!」
 雅人とタマラは仕方なくクルマを降りた。辺りは漆黒の闇に包まれ、駐車場の外灯だけがぼんやり周囲を照らしているだけだった。
「和久事務所からは、typeXを見つけ次第処分しろって言われてるんだ」
 type]タマラの記憶装置はブラックボックス化されていて簡単には消去することが出来ないのであった。男たち二人がそれを知っていたかどうかは定かではなかったが、type]タマラを破壊して構わないという指示を受けていることだけは確からしかった。雅人は、彼らがどうやら自分の命を奪おうとまでは考えていないことを知って、ホッとしていた。
「うへぇっ。四月だというのにやっぱり夜は冷えるなぁ!」
 男たち二人は、肩をすぼめて腕をさすっていた。一人の男が雅人の顔を下から覗き込んで言った。
「これじゃあ、焚火でもして暖とらねえとやってらんねぇよなぁ……」
 チンピラたちは、車内に残されていた携行缶のガソリンをざぶざぶとタマラの頭からふりかけた。
「何をするんだ!」
 気色ばんで雅人は叫んだ。
「見りゃあ、わかんだろう。燃やしちまうのさ」
 言うが早いか、チンピラの一人はジッポの火のついたライターをタマラに投げつけた。火はあっという間に駐車場に立っていたタマラの全身を包んだ。雅人は火を消そうとタマラに近づこうとしたが、火の勢いが強くてもうどうしようもなかった。その時だった。燃え盛る炎の中からタマラの腕が伸びてきて雅人の腕を掴んだ。炎の中のタマラと雅人は目が合ったように感じた。その目は怒っているようだった。
「放してくれ。タマラ。ぼ、僕には妻がいるんだ。ここでお前と死ぬわけにはいかないんだ!」
 次の瞬間、雅人は凄い力でタマラに引っぱられた。タマラは両腕でがっちりと雅人を抱え込みその腕を離さない。絶叫の中、懸命にタマラの腕を振りほどこうともがく雅人だったが、タマラはより強く雅人を抱きしめて離さない。
「あなたは、私のもの……」
 すでに二人の全身に火が回っていた。瞬く間に二人は紅蓮の炎に包まれた。炎の高さは三メートルほどにもなっていた。そして重なり合った二つの影は駐車場のアスファルトに倒れこんだ。チンピラ二人は唖然としてこの光景を見ているばかりだった。


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