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作品名:type X 作者:鷺町一平

第1回   プロローグ〜第一章
 プロローグ
 
 男は汗びっしょりでベッドサイドに立ち尽くしていた。白いブリーフ一枚のその姿はどこか水から上がったばかりのサイを思い起こさせた。胸から流れ落ちた汗がでっぷりと突き出た腹をつたって滴り落ちそうだ。妙に白くて広い背中の肩甲骨が大きく揺れていた。その手にはハンティングナイフが握られていた。鋭利な刃先が光っている。ベッドからはみ出している女の指先には真っ赤なマニキュアが塗られていたが、その指の白さはおよそ人間のものとは思われなかった。
 都心の高層ホテルの一室。ベッドには若い全裸の女が仰向けに倒れていた。凄惨な光景だった。ベッドからはみ出た右手は小指と薬指が第二関節から切断されていた。左手も同様で、さらに人差し指から小指までの四本の指すべてがあり得ない方向に曲がっていた。すなわちそれは一本ずつ折られたことを意味していた。そして左大腿部外側にはハンティングナイフによると思われる約十五センチメートルにも及ぶ切創があり傷口はぱっくり割れていた。首から鎖骨のいわゆるデコルテラインにかけても深い切創があった。だが、乱れたシーツの上は全く血で汚れていなかった。金髪の長い髪は乱れ、瞳は開かれたまま、天井を見つめ半開きの唇は最後に一体何を言おうとしていたのだろうか?
 男はどこかに電話している。繋がったようだ。四角い顔の重たそうな一重瞼の下の目が泳いでいた。
「私だ。ちょっと興奮しすぎてしまったようだ。回収を頼む」
 電話をかけ終わった男は、椅子にどっかりと腰を下ろすと肩で大きくため息をついた。

第一章

一 

 もうすぐ夕食が出来るというのに雅人はダイニングテーブルに居ない。またバルコニーに出て東京の夜景を眺めているのだろう。夕食をテーブルに並べながら千草は、缶ビールを片手にバルコニーの手すり越しに外を眺めている雅人をそっと見た。まるでギリシャ神話に出てくる彫刻のように美しい横顔。見るたびにうっとりする。千草はこの男と結婚出来た喜びをかみしめながら言った。
「雅人、本当に夜景好きね」  
 結婚して半年。このウォーターフロントのタワーマンションは、IT関連の同じ会社に勤めるまだ二十代の千草と雅人の収入を合わせても到底手が届かなかったが、資産家の千草の両親が助けてくれたおかげで購入することができた。分不相応かと思わないでもなかったが、千草は雅人との結婚生活を始めるにあたって、出来るだけ素敵なところに住みたいと考えていた。むろん千草の周囲の友人たちや社内の同僚たちからは若干の嫉妬や羨望を受けた。だが、そんなものは手に入れたもの勝ちだと思った。それが千草の生き方だった。周囲が羨むくらい仕事ができて美しい男との結婚、そして素晴らしい眺望のタワーマンション。これ以上ないくらいの幸せを千草は手に入れたと感じていた。
 飲み干した缶ビールのアルミ缶を片手に雅人はリビングに戻ってきた。
「ここの眺めは気に入っているんだ。昼は西に浜離宮が見えるし、夜は東に東京タワーだもん。ほら、私……いや俺、田舎出身だからさ、ああ、東京だなってここから夜景を眺めるとき、いつも思うんだよね」
 雅人はくせなのか、自分の事を「私」って言いそうになり、かっこ悪いと思うのか「俺」とか「僕」とすぐに言いなおす。
「雅人は、東京タワー好きだよね。アタシは元々東京だからそこまで思い入れはないかなぁ」
 千草は対面に座った雅人のグラスに赤ワインを注ぎながら言った。
「わ…俺にとっては東京タワーはいつまでも東京のシンボルなんだ。みんなはもうスカイツリーなのかもしれないけど、俺は永遠の東京タワー派!」
そういって雅人は、少しだけ笑った。
 いつも千草は不思議に思う。どうして雅人はこんなに寂しげに、自信なさげに笑うのだろう? 千草からすればこれだけ容姿端麗で仕事も手抜かりが全くない雅人なのだからもっと弾けるような笑い方をすればいいのにと思う。だがこの推しのなさ、俺が俺がと前に出ない一歩下がった奥ゆかしさとどこか自信なさげな笑い方…これが異性を惹きつけてやまないのもまた事実なのであった。
「どう? 美味しい?」
 千草が手によりをかけて作った和風パスタを、もくもくと口に運ぶ雅人を観ていた千草がじれったくなって尋ねた。赤ワインとセットで出したカマンベールチーズには雅人は目もくれない。あまりチーズは好きではないのだ。食わず嫌いなのかなとも思う。でもせっかく用意したのだから少しくらいは話題にしてくれてもいいじゃないと千草は思う。全く無視ではカマンベールが可哀そうだ。雅人には満足しているし不満はない。だが雅人は料理にしてもなんにしても自分から感情を表すことはほとんどない。リアクションに乏しいのが玉に瑕だった。
「もちろん、美味しいよ。本当に千草は料理が上手だよ。俺は千草と結婚して心からよかったと思ってるよ!」
「本当に? うれしい」 
 反射的にそういった千草だったが、時々それが雅人の本心なのかわからなくなることがあった。
「千草と結婚するまで、わた…俺は夕食にワインを飲むなんて習慣はなかったよ。今はようやく慣れたけど、初めて千草のうちに招待されたときはビビったよ。だって家族で夕食時にワインを飲むことが全然違和感ないんだもの」
 そうなのだ。この雅人の外見からは似合わない自信のなさは多分に生立ちに関係があると千草は思っている。雅人は幼いときに両親が亡くなって、祖父母に育てられた後に、最後には叔母さんの家に引き取られて少年時代を過ごしているのだ。きっとこの少年時代の経験が自己主張の強くない性格を形作ったのではないかと千草は考えていた。
「そう? ウチはみんなワイン好きだから、私も子供の頃から両親が飲んでるのを観てきたの。赤だの白だのグラスに注がれてキラキラ光るのを見るだけでも秘密めいた感じがしてどんな味がするのかなぁって思ってた。もちろん私は子供だったから飲ませてもらえなかったけど、早く大人になってワイン飲みたいなぁって思ってたの。結婚したら好きなひととこうして夕食時にワイングラスを傾けるのが夢だったんだァ」
 そういって、千草は雅人にウィンクした。それから二人は乾杯した。
「雅人、聞いて。今日さぁ、バイトの木村と中野がさ、昼休みに話してるのが聞こえてきたんだけどさ……」
 千草は和風パスタの最後の一口をフォークの先で丸めて口の中に放りこみながら言った。
「ああ、大学生ふたりか。あんまりイケてないって言ってた子たち。スターウォーズのC3POとR2-D2みたいなコンビね」
 すでに和風パスタを食べ終わった雅人は、静かにワイングラスを傾けながら柔和な顔をして千草の話を聞いている。
「そうそう、木村はヒョロッとしたメガネかけたカマキリみたいだし、中野はTシャツから腹がはみ出すくらいの肥え方だし、どうみても彼女いない歴=年齢みたいな二人」
「それで?」
 
 千草はテクニカルライティング部に属している。昼休みになり、オフィスはがらんとしていた。千草は自分で作った弁当を持参していた。
木村と中野の話声が聞こえてきた。聞き耳を立てていたつもりはなかったが、聞くともなしに内容が聞こえてきた。
「おい中野! 知ってるか? ついに出たな〜」
「ああ! type]だろっ! いいよな〜。俺、我慢できなくて昨日カタログもらってきちゃったよ〜」
「マジか! ちょっと見せてくれよ〜。 うわっ、カッケ〜」
「だろ? WEBカタログは観てたんだけど、やっぱ紙に印刷されたものが欲しくなっちゃってさあ〜」
「キャッチコピーが“コミュニケーション・イノベーション”かぁ。なんか来るわぁ!」
「だよな〜、このボディラインたまんね〜な〜。木村、お前どのモデルがいい?」
「う〜ん、迷うなぁ。エリカちゃんも捨てがたいけど、オレはやっぱ、サオリちゃんかな〜」
「俺は断然、憂いを帯びた表情のシホだなぁ……」
「あ〜っ、さてはお前、ロリコンだな! シホなんて身長百三十八センチメートルしかないじゃんかよ〜。オレは脚フェチなんでスラっと脚が長い百六十九センチメートルのサオリちゃんにするよ!」
「中野、オプションはどうする? 二足歩行機能つける?」
「いやいやいや、そんなオプションつけたら金額的に全く手が出ないよ〜」
「えっ、マジで買う気満々じゃん!」
「当たり前だろっ! オレはこれからラブドールとの愛に生きるんだ!」

 ほんのり、目元が赤くなってるのが自分でも千草はわかった。ワインは好きだがそれほど強くない。それに比べると雅人は何杯飲んでも顔が赤くなるようなことはなかった。ケロッとしている。もともとアルコールを分解する酵素を千草よりも多く持っているのだった。
「アタシ、てっきりクルマの話だとばかり思ってたのよ。そしたら、ラブドールらしいの。それもAI搭載してて、会話もできるんだって! びっくりしちゃった。いつの間にかそんなものが発売されてるのね! 雅人知ってた?」
「う〜ん、そういえばこの間行ったクライアントがちらっと言ってたような気もするなぁ…」
 雅人はネットワークエンジニアとして顧客との打合せも頻繁に行っているから。きっとそういう情報も入ってくるのだろうと千草は思った。
「なんだ〜。知ってたの。じゃあ教えてくれればいいのにぃ。なんかまだとっても高価なんだってー。高級車一台分くらいするらしいわよ」
「モノがモノだけにひっそりと販売を開始したんだろうけど、一定のニーズはあるんじゃない?」
「大人の女性に声もかけられないような一生女性に縁のなさそうなブサイクくんとか、永年連れ添った奥さんを亡くしちゃって、風俗にもいけないような真面目な中高年のおじさんとかには切実かもしれないよね〜。まぁ、いずれにせよ、わたしたちには、関係ないわよねぇ……」 
 ワインで軽く酔った千草は、ちらっとベッドルームを見やりながら、これからのことを想像した。



 JR浜松町から徒歩三分、都営大江戸線・浅草線大門駅から徒歩三分、抜群の立地を誇る原夫妻のタワーマンションの二十一階のベランダから、眼下に見える浜離宮恩賜庭園の鮮やかな緑の絨毯がまどかの目に刺さった。のどかな春の午後であった。首都高速都営環状線のクルマの流れはスムーズだった。交通の流れに沿ってないスピードでゆっくり走るワゴン車の後ろでトラックがいら立つように車間距離を詰めているのが見えた。
「紅茶入ったわよ」
 千草の声にまどかはベランダからリビングに戻りながら言った。
「幸せそうね、千草。雅人さんとはうまくいってるの?」
「おかげさまで」
「なんかちょっと妬けるなぁ。結局雅人さんを射止めたのは、一番積極的だった千草だったもんね〜。アタシももっと頑張ればよかった」
 そういってまどかは笑うと紅茶を口に運んだ。
リビングに置かれた七十インチの8K対応テレビがのんびりと気象情報を伝えている。
「ああ見えて雅人って、すっごくおっちょこちょいなところがあるの。この間も洗面台の前でぎゃって叫んでいるから、どうしたのかと思ったら歯磨き粉と洗顔フォームを間違えて歯を磨いちゃったみたいで、大騒ぎ!」
「へぇ、そうは見えないけどねー。シャキッとしてる感じだけどなぁ、雅人さん」
「案外そうでもないのよ、あの人」
 そう言って千草は楽しそうに笑った。
「それで? あっちのほうはどうなのよ?」
「それ聞くぅ?」
「何言ってるのよ! 親友だからこそざっくばらんに聞いてあげてんじゃない。新婚家庭に対する興味なんてそれしかないんだから。千草だって誰かにノロけたいんじゃないの?」
「あら、言うわねぇ。実際、夜の生活も大満足。相性はバッチリ! まぁちょっと痒い所に手が届かないって感じは多少あるけど、それはおいおいね。なんと言っても素材が素敵だもの。雅人はねぇ…いいもの持ってるの!」
 そういうと、千草は顔を赤らめた。
「うわ〜っ、真昼間から旦那の巨根自慢すっかぁ! なんかやってらんないって感じ」
 まどかは一気に紅茶を飲み干すと、顔を両手であおぐ仕草をした。。
「それなりに結婚前に男とっかえひっかえ遊んでたあんたが言うと、リアリティあるわ〜っ」
「やだっ、人聞きの悪いこと言わないでよ! その時はみんな真剣にお付き合いしてたわ! ただ最終的にお別れすることになったってだけで、遊んでたなんて失礼しちゃうわ!」
「でも、雅人は自分から積極的に誘うってことがないの。恥ずかしいけど夜のお誘いはいつも私のほうから…」
「ふ〜ん、たしかに雅人さんってちょっと自信なさげなところがあるわよねぇ」
「わからないでもないのよ。ほら、雅人って早くにご両親を事故で亡くして、祖父母のうちで育てられてるでしょう。気を遣うこともたくさんあったんじゃないかなぁ……」
「ところで、雅人さんは出張だって言ってたわよね?」
「うん、クライアントとの商談。京都に行ってるの。明後日には帰るって昨日メールが来たわ」
 テレビ画面はさっきからお昼の全国放送のニュースに切り替わっていた。
 
 その時家電のベルが鳴った。留守番設定されているので音声ガイダンスが応答する。留守番電話だと思った相手はメッセージを入れた。
「もしもし、こぢらは茨城県警高萩警察署の橋本ど申しますが、原雅人さんのお宅でおだぐでまぢがいねえべが?」
 いきなりコントのような訛りに、顔を見合わせ笑い転げる千草と親友のまどか。
「昨日、県下の高萩署管内、五(い)浦(づら)海岸六角堂近ぐの駐車場で発生した心中事件で、ご家族の方に確認したい件があっから、至急ご連絡をいだだぎだいど思います……」
 笑い転げていた千草の表情が凍り付いた。
 ちょうどニュースが、この事件を伝えていた。あわててまどかがリモコンでボリュームを高くした。
「今朝早く、茨城県北茨城市五(い)浦(づら)海岸近くの駐車場で黒焦げになった人のようなものがあるのを山菜を採りにきた近くの住民が発見、通報しました。茨城県警高萩署によると、男女とみられる焼死体で遺体の近くにはガソリンの携行缶が発見され、心中事件ではないかとみられていますが、同署は身元確認を急ぐとともに火災原因を調べています」

 第一報はこうして伝えられたが、事件は驚くべき展開を見せた。
 鑑識の結果、当初、男女の焼死体と思われた二体だったが、どうも様子がおかしい。一体は紛れもない男性の焼死体だったが、もう一体は人間ではないことが判明した。溶けたシリコンの塊の中からCFRP、すなわち炭素繊維強化プラスチックの骨格が現れたとき、現場は騒然となった。つまり男女の心中ではなくて、人型アンドロイドだったのである。さらに鑑識を進めた結果、それは去年の暮れに発売されたばかりのオリガント・インダストリー社製のラブドール、type]だったことが判明した。焼け残った免許証の一部から、男性の身元も程なく判明した。東京のIT企業勤務、原雅人であった。

 酷いショックを受けた千草は、両親とともにその日遅く父親の運転するクルマで北茨城入りした。高萩署の遺体安置室で、変わり果てた雅人と対面した時もまだ千草はこれが現実の出来事とは信じられなかった。悪夢なら早く目覚めたいと願った。 
 遺体の損傷が激しく、とても確認できる状態ではなく、通っていた歯医者のカルテから雅人であると断定された。担当の警察官が、言いにくそうに千草に告げた。
「ご遺体の損傷が酷いので、ご覧にならないほうが賢明かと思われます」
 千草に付き添っていた母親の慶子は泣き崩れてしまった。だが、千草は冷静だった。そんな母親を一瞥するとこういった。
「私は妻です。夫に会わせてください!」
 父親の光一がそれを制する。 
「私が先に見て来よう」
 担当の警官とともに薄暗い廊下の奥を進んでいく父。無言で見送る千草。
 しばらくして父が帰ってきた。蒼い顔をしている。ハンカチで口元を押さえていた。
「見ないほうがいいっ」
 父親は頭を横に小さく振りながら、絞り出すような声を出した。
「いいえ、会わせて。でないとここまで来た意味がない。もしも雅人だったらその最後に妻である私が立ち会わないってありえない。たとえどんな姿になったにせよ、それが妻の責任だもの……」
 それを聞いて意を決したのか、娘の肩を抱いて父親は言った。
「そうか。気をしっかり持つんだぞ」
 父親は母親の慶子を一瞥したが、慶子は長椅子にへたり込んだまま、力なくかぶりを振った。
 千草は父親に付き添われ、薄暗い廊下を担当警官の後に従ってついていった。つきあたりを左に曲がった奥が遺体安置室であった。室内に入ると八畳ほどの広さの部屋の真ん中にストレッチャーが置かれていた。その上には黒いレザーの袋があった。この中に遺体が入っているらしかった。室内はコンクリートの打ちっぱなしで窓もなくおそろしく殺風景だった。
 部屋の片隅には簡素な焼香台が設けられていた。一切の感情を排するかのように菊の花すらなかった。線香の煙が揺れてる。天井にはまだLED化されていないようで、長い蛍光灯が四本灯っていた。だがそのうちの一本は今にもきれそうで点いたり消えたりを繰り返していた。蛍光灯カバーの四隅には虫の死骸がたまり黒ずんでいた。はやくLEDにすればいいのに……、千草はぼんやりと関係ないことを思った。
 天井の蛍光灯が明滅する中、黒いレザーの遺体安置袋のファスナーが担当警官によって下げられてゆく。その中から現れたものはもはや人間の形をしていなかった。真っ黒に炭化したかつて人間だったものの塊に過ぎなかった。これがあの美しい雅人だというのか……。千草は崩れ落ちそうになる体を膝に力を入れて必死にこらえた。胃液が込み上げてくるのを下顎を噛み締めてなんとか耐えた。自分から対面するといった手前、こんなところで意識を失うわけにはいかなかった。父親がしっかりと千草の肩をつかんでくれたおかげでかろうじて立っていることが出来た。口腔内いっぱいに拡がった酸っぱい胃液を無理してもう一度飲み込んだ。
「大丈夫か?」
 心配そうに尋ねる父親の顔も蒼白だった。千草は差し伸べた父親の手を振り払うかのようにストレッチャーの上の雅人の遺体に近づいていった。線香の匂いとは全く違う焼死体の匂いが鼻腔を刺激した。不思議と涙は出なかった。
「もっと焼けていれば、火葬にする手間も省けたのにね。雅人」
 心にもないことを口走ってしまう千草。ぎょっとして顔をこわばらせる父親。千草はなぜか異様に喉が渇いていた。確かに聞いたはずだが、担当警官は表情を変えることはなかった。

「もう、結構です…」
 千草に替わって父親は、絞り出すようにそれだけ告げるので精いっぱいだった。父の光一は千草の両肩を抱いて、担当警官に続いて安置室の外へ出た。ほの暗い廊下の長椅子に千草を座らせようとしたが、千草はそれを制してトイレに駆け込んだ。
 まだ若い担当警官は控室に戻ると、乱暴に警帽を机に放り投げた。隣の机で書類を書いていた中年の同僚が声をかける。
「どうしたんだよ? 美人の奥さんショックで泣いてたかい?」
「どうもこうもありませんよ。確かに美人かもしれませんけど、変わり果てた旦那をみても、涙一つこぼさないんですよ。信じられますか?」
「そりゃあ、ショック過ぎたんだろうよ」
「言うに事欠いて、もっとよく焼けてれば火葬の手間が省けたのにとか言いますか、普通? あんな冷たい女だからラブドールに旦那を寝取られるんですよ!」
「おいおい、声が大きいよ。聞こえるぜ…」
 中年の同僚がたしなめるが、ちょうど通りかかった千草は、ドアの外ですべてを聞いてしまっていた。
 そのままトイレに入った千草は、洗面台の前の鏡に映る自身の顔を見た。自虐的に笑ってみようとしたが、唇が渇きすぎてうまく笑えなかった。再び胃の奥から胃液がこみ上げてきた。
 洗面台の蛇口を全開にすると、たまらず戻してしまった。ふいに涙がこみ上げてきて止まらなかった。もう雅人は二度と戻ってこないのだ。あの焼け焦げた遺体が雅人かどうかは判別できなかったが、直感的に雅人だとわかった。千草の嗚咽が午後九時を回って誰もいない女子トイレに響き渡った。

 歯の治療痕とDNA鑑定で遺体が雅人だと完全に確認されるまでさらに数日を要した。千草は担当刑事と面談した。何を話したかほとんど覚えていない。ただ事件性はないといわれたことは覚えていた。別室で雅人の遺品を受け取った。遺品といってもほとんどが焼けており、焼け残った免許証の切れ端からかろうじて読み取れた住所から調べて電話をかけてきたらしいことがわかった。両親とともに嘱託医のもとを訪れ、検案料二万円を払い、死体検案書を受け取る。千草は死体検案書が死亡届と一体型なのを初めて知った。「死亡診断書」の文字が二重線で消されていた。
 遺体は高萩の葬儀場で荼毘に付した。コンクリート打ちっぱなしのひんやりとした壁にもたれてやっとのことで体を支えながら、千草は台車の上をみた。そこにはかつて雅人だった骨がひろがっていた。骨片になってしまった雅人を千草は虚ろな目でぼんやりと見つめていた。わずか数日前まで言葉を交わし、ともに食事をしていたわたしの雅人が、骨になってしまったという衝撃を受け止めきれないでいた。父とともに雅人の大腿骨を骨上げしようとするが、箸を持つ右手がぶるぶると小刻みに震えてしまってどうしても骨上げが出来ない。左手で右の手首を掴んでみるが、それでも右手の震えは収まらなかった。見かねた母が代わりに骨上げしてくれた。
 遠のいていく意識を必死に繋ぎ止めながら、千草はそれからの儀式をまるで薄皮がかかっているかのようにぼんやりと眺めていた。係員が喉仏の骨を大事そうに、骨壺に収めている。この骨は第二頸椎といってその突起や曲線のぐあいがちょうど仏様の座禅の姿に似ていることから、丁寧に扱われるようになっているのだ。係員はすべての遺骨を納めた骨壺の蓋をして、丁寧に紐で結わき無地の化粧骨壺カバーをかけた。そして骨壺は最後に桐の箱に入れられた。一連の動作を眺めながら、千草は自分の心の一部分が確実に失われていくのを感じていたのだった……。



 その速報は生放送中に入った。ワイドショーキャスターである紅(べに)東(あずま)洋子(ようこ)は緊張の面持ちでアシスタントディレクターからの原稿を受け取って読み始めた。
「先ほどお伝えしましたニュースの続報です。北茨城五浦海岸の駐車場で見つかった男女ふたりの焼死体ですが、今入った情報によりますと、当初心中かと思われたこの遺体の片方は人間ではなくラブドールであったことが確認されました。繰り返します。女性の遺体だと思われていましたが、これはラブドールだったことが検視の結果、確認されました! 引き続き情報が入り次第お伝えします!」
 この一報を伝え終わったとき、報道フロアは騒然としていた。番組の担当ディレクター、犬養(いぬかい)敏樹(としき)は、久々に手応えを感じていた。このニュースは引っ張れるぞ、視聴率が取れるということを本能的に確信したのだった。誰と誰がくっついた別れたという十年一日変わり映えのしない芸能ニュースなんかよりはるかにバリューがあるのは一目瞭然だった。
 このニュースを自身の番組「ホットダイナミックヌーンショー」の目玉にしようという方針は、ここで決まったも同然だった。

 番組終了後、企画会議が始まった。会議室で犬養敏樹はプロデューサーの中臣剛太郎に直訴していた。
「これは絶対、数字取れますよ。すぐに北茨城に取材に行かせてください。でないと他社に出し抜かれてしまいます」
 中臣も即断した。彼の担当している情報ワイドショー、「ホットダイナミックヌーンショー」は最近、視聴率がじりじりと下がり続けていた。かつてはヒットを連発していた中臣の神通力もこれまでかと陰でみんなに揶揄されているのは知っていた。中臣もこのあたりで一発逆転の長打をかっ飛ばしたいと狙っていたのであった。
 翌日、紅東洋子は北茨城に居た。普段ならこういうリポートはリポーターに任せるのだが、キャスター自ら出向くことによって番組がいかにこの事件に力を入れているかを示したいという意向もあった。
 午後二時、CG映像による番組タイトルロゴが流れ、番組は始まった。冒頭、アシスタントキャスター奥本かおりが、メインキャスター紅東洋子はヘッドラインニュースのリポートの為に北茨城に飛んでいることを告げ、ラブドール心中事件をヘッドラインで徹底リポートすることを強調する。
「紅東キャスター、徹底リポート! ラブドール心中事件」と画面右上にテロップが入り、現場の駐車場からのリポートが始まった。
「春とはいえ、どんよりと曇った午後です。吹く風はまだまだ冷たく春を実感できません。ここ、茨城県は北茨城市五浦海岸の駐車場からお送りします」
 マイクを持った紅東洋子が引き締まった表情で語りかける。春とはいえ北茨城は寒いのかロングダウンコートを着ている。
「こちらの駐車場には一台のレンタカーのアクアが残されていました。この駐車場の奥の一角で人らしきものが焦げていたのです。午前六時駆け付けた警察によって人の焼死体であることが確認されました。東京在住、IT会社勤務の原雅人さん、二十八歳。関西方面に出張すると妻の千草さんには告げていました。しかし、実際には関西に出張することなく、レンタカーを借りてここ茨城県北茨城市に来ていました。当初女性だと思われていたもう一人の焼死体は、実は人間ではありませんでした。彼女はAIを搭載された最新型のラブドールだったのです!」
 副調整室でモニターしていた犬養はテンションが上がっていた。
「よしっ、ここでCMだっ。いい感じだぞ! CM明けは第一発見者のインタビューからだ。スタンバイいいな?」
 副調整室の一角でネットの掲示板をチェックしていたアシスタントディレクターの村井健太が報告する。
「犬養さん、ネットの反響すごいです!」
《これマジか〜》《ホットダイナミックヌーン気合入ってるなぁ》《これ目が離せね〜な》《AI搭載のラブドールってなんぞ?》村井が犬養の横に持ってきたノートPCの画面上でどんどん流れる掲示板の書き込みを横目で眺めて、犬養はほくそ笑んだ。
 CM明け。紅東洋子は第一発見者の年の頃なら七十歳くらいの男性に話を聞いている。柔和な顔をした好々爺である。
「あー、朝はやぐ山菜取りに来たーだよ。ほしたら広い駐車場の一角であんだか人のようなものが燃えでごげでぐすぶってったぺーよ。おらー、えらいたまげちって腰ぬかしたっぺさ。はーすぐ警察ど消防さ通報したぺっさ」
 モニターには紅東のアップが映し出されている。
「駆け付けた消防が消化作業に当たり、警察は現場検証を開始しました。当初は焼けただれた男女二体の遺体が確認されたと私どもを含め、複数のマスコミが速報で報道しました。しかし検視の結果、女性だと思われた遺体は精巧な“typeX”と呼ばれる新型のラブドールであることが判明しました」
「いいよ、いいよ! この調子でぶっとばせ! 洋子。よし、次二人目の証言者行くぞ!」
 犬養は小刻みに体を揺すりだした。ノっている証拠だった。
「現場には、ガソリンの携行缶が残されていました。この携行缶を原さんに販売したというガソリンスタンド経営の武田さんに来ていただきました。その時の原さんの様子を教えてください」
 頭の薄い面長の六十代前半の男性が、鼻眼鏡を指で持ち上げなから証言する。
「警察にも話したけど、二日前の午後七時過ぎだったかなぁ。どんより暗い顔してました。なにに使うんだって聞いても何も言わなくてねぇ。まさか自殺するためとは思わねがったなぁ……」
 画面は切り替わって、警察の検視結果発表会見の様子がVTR再生された。茨城県警の広報官が用意されたコメントを読み上げる。当県北茨城市五浦海岸近くの駐車場で発見された焼死体は、当初男女二体の遺体と思われたが、検視の結果、女性と思われた遺体は人間ではなく、成人用人型愛玩人形であることが判明した、という短いコメントであった。当然記者クラブからは鋭い質問が飛んだ。曰く、ラブドールってことですよね? 遺体はどういう状況で発見されたんですか? 
 広い額に落ちくぼんだ眼を大きく見開きながら、県警の広報官は神経質そうに金のフレームのメガネを右手で持ち上げながら、ペーパーに見入った。それは、どういう意味でしょうかととぼけた。広報官は記者の質問の意図がわかっていながら質問をはぐらかそうとする。しびれを切らした記者はついに思い切った表現を使った。つまり、“抱擁”していたかどうかですよ! それを言わせたことに小さな満足感を得たのか、広報官はおもむろに言った。
「男性は、成人用人型愛玩人形に覆いかぶさっていたとの検視報告が上がっていますが、詳細はわかりません」
 広報官がそう答えたところで編集されたVTRは終わり、スタジオに切り替わった。スタジオではサブキャスターである奥本かおりがこう告げていた。
「それでは、AIが搭載されたラブドールとは具体的にどういったものなのでしょうか?」
 サブ調整室の犬養がキューを出すと、あらかじめ取材してあったオリガント・インダストリーが映し出された。そこでオリガント・インダストリーがいかに優良な企業であるか、そしてAI搭載ラブドールの開発秘話、ラブドール開発の歴史、実際のラブドールの紹介などがお茶の間に初めて流れた。
 再び、画面は切り替わって北茨城の中継現場の紅東洋子のアップになった。
 「いかがでしたでしょうか? 謎が謎を呼ぶこのラブドールとの心中事件。何故に原さんは美しい奥さんがありながら、この地でラブドールと命を絶つことを選んだのでしょう? ホットダイナミックヌーンでは総力を挙げてこの事件を追跡していきます。乞うご期待!」
 この放送は大反響を呼んだ。こうして一部の好事家のみの間で知られ人気となっていたtypeXは、全国に知られることとなった。このニュースの反響の大きさにホットダイナミックヌーンの関係者は一様に興奮を隠しきれなかった。テレビ局の社員ではない、制作会社社員であるチーフディレクターの犬養にとっては数字がとれたという喜びは特に大きかった。
 テレビ番組を制作しているのはすべてテレビ局の社員でないことはもうすでに周知の事実であろう。ワイドショーのスタッフもその限りではない。様々な規模の制作会社の社員、フリーランス、派遣のスタッフ、それぞれ所属や待遇が違う。ホットダイナミックヌーンショーの場合、プロデューサーの中臣は東都テレビの社員だが、担当チーフディレクターの犬養敏樹は中堅制作会社の社員なのである。東都テレビから番組制作を任されている以上、犬養はなんとしても数字をとる必要があったのだ。

 東都テレビの会議室の一室。スタッフが集まり、今後の番組制作の打合せが始まった。犬養は世間の注目度がアップしている今こそ、集中的にこの事件を掘り下げていく必要性をことさら強調していた。北茨城から帰ってきた疲れも見せずそのままこの会議に参加している番組のメインキャスター、紅東洋子も手ごたえを感じていた。帰りの車中で洋子はネットの反応をスマホで時折チェックしており、そのレスポンスの良さを肌で感じ取っていた。
 犬養は、世間のこのニュースに対する関心の高さを追い風に、亡くなった原雅人の素顔とその結婚生活に迫ることを提案した。
「調べてみると、この原夫妻が住んでいるのはタワーマンションなんですよね〜。いくらIT企業とはいえ、共働きの二十代後半の夫婦がおいそれと購入出来る金額じゃない。このタワーマンションの購入経緯などから取材してみても面白いんじゃないかと思いますがねぇ」  
 そう言って、無精ひげが残る顎をさすって、まくしたてる犬養の横顔を見ながら、紅東洋子はわずかな違和感を抱いていた。そんなにズケズケと他人の、それももう夫が故人になっている夫婦の私生活に立ち入っていいものだろうか……。だが、そのささやかな疑問を洋子は頭から振り払った。今はなりふり構わず視聴者の知りたいという欲求に応える時なのだ。それが報道バラエティ番組の使命なのだと割り切った。事実、プロデューサーの中臣も犬養の意見にもみ手をしながら恵比寿顔でうなずいている。
「よしっ、その線で行こうっか!」
 こうしてその後の方針が決まった。



 雅人の本葬は遺骨を持ち帰って東京で行われた。千草の実家の近くの浅草寺だった。たくさんのマスコミが取材に押しかけた。喪主である千草には無数のマイクが突き付けられた。この頃には、事件のあらましはマスコミが面白おかしく報道していた。
「今のご気分は?」
「typeXを作っているオリガント・インダストリー社に対しては、どういう感情をお持ちですか?」
「奥さんは、ご主人がtypeXを所有されていたことはご存知でしたか?」
 葬儀の席であるのにも関わらず、不躾な質問をするマスコミは容赦なくプライベートな部分まで土足で上がり込んできた。千種はそれらの質問に終始、無言を貫いた。

 葬儀が終わっても、執拗にマスコミはなんとかコメントを取ろうと千草の後を追いかけてきた。父親がいい加減にしてくれと何度か声を荒げたが彼らは聴く耳など持たなかった。父親はクルマの中で、実家に来るかと千草を気遣って言ってくれた。母親もそうしたほうがいいと言ったが、千草は余りに疲れ切っていたし、実家に帰れば気を使ってくれるに違いない両親をわずらわせたくなかったし、第一、両親と口を利くことすら億劫であった。とにかく一刻も早くひとりになりたかった。
 それでも心配する両親を大丈夫だからとなんとか説き伏せ、千草はタクシーを降りた。エントランスに行くまでのわずかな距離を狙って、マイクやカメラを抱えたマスコミが千草の元に殺到しようとするのを辛くも退けて、千草はなんとかエントランスに入った。オートロックのエントランスに入ってしまえば、部外者である彼らはそこから先には立ち入ることは出来ない。無理して入ろうとすれば不審者として通報される。いくら千草のコメントが欲しかろうがそこまでするマスコミはさすがになかった。常駐している防災センターの警備員の手前、そこまで傍若無人な真似が出来ないということもあった。
 千草はエレベーターに乗った。二十一階のボタンを押すと、その強張った能面のような表情にようやく変化が現れた。頭上から肩から数十キログラムの重りを担がされているように体が重かった。エレベーターから一歩踏み出すのも、途方もない力を必要とした。ようやく自宅に戻り、玄関のドアをロックした瞬間に千草はその場にへたり込んでしまった。
 どのくらいその場に座り込んでいたのだろうか、スマホに着信があった。ノロノロとバッグからスマホを取り出す。
「原千草さんですね? こちらは帝都新聞社会部の中村と申します。今回の事件について取材させていただきたいのですが…」
 まるでマニュアルでも読んでいるかのように、よどみなく続く相手の男の声を遮って千草は尋ねた。
「どこから、この電話番号を入手されたのでしょうか?」
 中村と名乗ったその男は、それには答えず、さらに取材の約束を取り付けようとしてきた。千草は通話を切った。それを皮切りに千草のスマホには立て続けに取材の申し込みが入ってきた。千草はすべて断った。なおも止まない着信にたまらず千草は、スマホの電源を切らざるを得なかった。
 いいようのない疎ましさに襲われて、千草は着替えることも億劫になり喪服のままベッドに倒れこんだ。
 固定電話のベルが鳴った。これも取材申し込みの電話だった。留守電設定に気づいた相手はメッセージを入れても意味がないと思ったのか、ファクス攻撃に切り替えたようだ。気になってベッドから起き上がって、固定電話のそばにいってみると夥しいファクスが床に散乱していた。すべて取材要請だった。千草が床に散らばっているファクス用紙を拾い上げてるそばからファクスが届く。観念したように頭を抱えると千草は通信ケーブルを抜いた。
 ようやくこれで眠れるんだわと、ぐったりと疲れた体で、やっとのことで喪服だけを脱ぐと再び千草はベッドに倒れこんだ。
 ところが五分経てど、十分経てどまるで眠れなかった。精神的にも肉体的にも疲れ切っているのは自明なのだが、かえって疲れ切って眠れない。千草は寝つきの悪いほうではない。だが傷つき針のようにとがった神経はあらゆる些細なところに引っかかり、そのたびに心がささくれだって悲鳴を上げた。それはまるで足の小指を箪笥の角にぶつけまくるような感覚に似ていた。
 それはそうなのだ。やっとのことで自宅に戻ってはきた。だが、この自宅こそはわずかに一週間前まで雅人と暮らしていた場所に相違ないのである。下世話な言い方をすれば「愛の巣」なのであった。今、千草が横たわるこのベッドで千草と雅人は一週間前まで、少なくとも千草は何の疑いもなく愛し合っていたのだ。キッチンのカウンター越しにダイニングに座ってテレビを見ながら夕食を待っている雅人の横顔が浮かんでくる。浴室でシャワーを浴びている雅人に内緒で千草も裸になってシャンプーを洗い流している大きな背中に後ろから抱きついたこともあった。驚いて慌ててこっちを向いた雅人の雫がしたたる頬を両手で千草は挟み込んで、情熱的な口づけをねだったのだった。
 雅人と愛し合ったベッドに寝ている限り、雅人をどうやっても思い出してしまう。だがその雅人はもういない。そして雅人はtypeXとあろうことか心中してしまったのだ。まぎれもなくこれは千草に対する裏切りだった。あんなに私を愛していると言っていた雅人が最後に選んだのはtypeXだったということが千草には理解できなかった。信じられなかった。あんなにも愛しているといったのは偽りだったということなのか……。許せない。この屈辱感をどうすればいいのだろう? 
 頭の中に雷が落ちた。この事件が発覚した時から少しずつ頭の中にひろがっていった黒い雲は、いつしか真っ黒な暗雲となって頭の中全体を覆いつくしていた。そして頭の中のありとあらゆるところでビシッ、ビシッと稲妻がここ数日ははしっていた。そのたびにキンとした頭痛に千草は苦しんだ。そして今まさにこの稲妻が落雷となって頭から体全体を貫いた。冷静になって考えようとしても一向に考えがまとまらない。脳髄が耳から溶け出してしまったかのようだ。考えるということを千草の脳は拒否してしまったかのようであった。千草の頭の中にあるのは空っぽの空間に他ならない。何もない空間がきっと頭蓋骨で覆われているだけなのだ。
 危険な兆候であった。頭皮と頭蓋骨のあいだがヒリヒリと焼けるように熱い。頭の中の何もない空間に線香花火が一本垂れ下がっている。その線香花火から火花が散る。四方八方に飛び散ったその火花はいとも簡単に頭蓋骨の内側を通り抜け、頭骸骨の外側と頭皮の間に入り込みチリチリとその場で火花を発し続ける。そういう種類の痛みであった。痛みそのものは我慢しようと思えば我慢できないこともない。だがこの痛みにあとどれくらい耐えなければならないのだろうか。
 この不快なチリチリとした火花の炸裂をなんとか軽減しようと、千草はシャワーを浴びた。設定温度を上げてシャワーのカランから熱めの湯を出す。疲れた体にビリビリとした熱さが刺さる。やや痛いがそれが心地よかった。目をつぶって、チリチリ痛む頭皮から顔から至近距離で熱い湯の針を浴びる。無意識に千草は疼痛コントロールをしていた。痛みを別の刺激の痛みで紛らわすという方法を試みていたのだった。確かに熱いシャワーの針は頭皮と頭蓋骨の間に散る火花の痛みを和らげてくれた。
 カランからほとばしる熱い湯は鋭利な長い針となって千草の柔らかな肌を刺し貫く。顔面や喉、そして鎖骨から胸にかけて無数の長い針が刺さり、夥しい血が流れ湯の雫と混ざり合って、千草の腹から下腹部を伝い、太腿を筋となって流れふくらはぎから落ちて、排水溝に流れていく様子が、とてもリアルにイメージされて不意に千草は目を見開く。むろん現実にはそんなことはなく熱いシャワーの飛沫が千草の張りのある肌を弾いて流れ落ちていくだけであった。
 豊かに盛り上がった乳房に触れてみる。この乳房はもう二度と雅人に揉みしだかれることはないのだと思うと、言いようのない寂しさと悔しさが心の中から込み上げてきた。突然に、ひとりでは背負いきれないほどの無数の感情が一気にせり上がってきて、頭上で爆発し炸裂した。ささくれだった感情のかけらはシャワールームに充満した。あり得ないほどの悪寒に襲われ、千草はシャワールーム内で嘔吐したのだった……。



 どれくらい眠っていたのだろうか。千草は目覚めた。ベッドに身体を横たえたまま、少しだけ頭を持ち上げてみた。相変わらず頭は鉛が入っているかのように重く、少し頭を持ち上げようとしただけなのに首に信じられないほどの荷重がかかり五秒と頭を上げていられなかった。睡眠をとったせいか、うっすらとした頭痛は続いていたが、チリチリとした頭皮と頭蓋骨の間の火花は消えていた。
 自分の家が一番落ち着くとはいえ、それは雅人を思い出すことと同義であるという矛盾は解決出来ないままだった。ベッドに横たわったまま千草は天井を見つめていた。いくつもの悪夢を繰り返し見ていた気がする。微笑みかける雅人の笑顔は、いつしか皮膚が剥がれ落ち紅蓮の炎の中で焼けただれ、炭化していく。あとに残されたのはあの霊安室でみた腕を中空でクロスさせ真っ黒に焦げた人とも思われぬもの……。
 時計を見ると午後三時を回っていた。二十四時間以上うなされていたのだ。シーツはベッドの下に丸まってずり落ちていた。普段から寝相はよかったはずなのでよほどうなされたのだろう。空腹だった。喉の渇きも酷い。シャワールームで嘔吐したあとのことは記憶がなかったが、着替えてはいたのだろう、シルクのパジャマは寝汗でぐっしょり濡れていた。フラフラとベッドから出て、冷蔵庫を開ける。空腹だが食べ物は胃が受け付けない。やっとのことで紙パックの牛乳をグラスに半分だけ飲み干す。
 思い出したように千草はスマホの電源を入れてみた。未読メールが四十七件、着信履歴が二十一件あった。大半は取材申し込みのマスコミ関係だったが、中には心配してかけてきてくれた母親や仲のいい友人のメールや履歴も多く含まれていた。大親友のまどかにいたってはメールに留守電、LINEまでくれていた。留守電を聞いてみた。
《ニュース見たわよ! 千草。マスゴミってホントどうしようもないね! 顔色良くなかったから心配してる。電話頂戴!》
 千草はまどかに電話した。
「ああ、千草! 心配してたのよ。大丈夫?」
「ごめん。取材攻勢がうるさいから、電源切ってた」
「アタシ、これから行こうか?」
「ありがとう。でもまどか、仕事あるでしょ。それにアタシ、酷い顔してるし今は誰にも会いたくないの」
「仕事なんてどうにでもなるわよ。ちゃんと食べてる?」
「とても食欲なんかわかないわ……。まどか、アタシだけが幸せに酔ってた。アタシが幸せだから雅人も当然幸せなんだろうと思ってた。でも違ってた。雅人はアタシと結婚してもきっと幸せじゃなかったんだよね……」
 一気にそこまでしゃべると、電話口のまどかは沈黙した。どう慰めようか言葉を探しているようだった。
「千草……、そんな風に自分を責めちゃダメ! 二人の時間を否定するような考えは持ってほしくない。少なくとも私は千草と笑っていた雅人さんの笑顔が偽りだったとは思えない。しっかりして、千草。あなたはいつも自信満々だったじゃないの! 雅人さんを射止めたあなたはみんなの羨望の的だった。それだけは忘れないで!」
「ありがとう……。まどか。優しいね。親友でいてくれてありがとう」
 声を詰まらせ、半笑いを作りながら千草は通話を切った。
 ダイニングを抜けて窓に近寄り千草はレースのカーテンを開ける。二十一階の部屋から四月の終わりの花曇りの空が見えた。見渡す限り一面の鼠色のどんよりと重たげな雲に覆われて、いまにも雨が落ちてきそうであった。「枇杷黄なり 空はあやめの 花曇り」 千草は山口素堂の句を口ずさんでいた。そういえば雅人と枇杷狩りに行ったことがあったっけとぼんやりと思い出していた。何をみても雅人を思い出してしまうことに半ばうんざりして、再び千草はベッドに戻った。きっとまた悪夢にうなされるだろうと覚悟しつつ……。
 夜半に大きな雨音で起きた。またしても悪夢にうなされていた。珍しく残業をして千草が家に帰ってくると先に帰っていた雅人は、ダイニングでtypeXと二人でワインを傾けていた。いいことがあったときに開けようと思っていたとっておきのワインを勝手に開けてtypeXと飲んでいた。そしていつもなら酔わないはずの雅人が酔ってtypeXの腰を抱き寄せている。絶句して何も言えない千草に見たことのないような意地の悪い笑い方で雅人は囁きかけた。
「お帰り〜。先にやってた。一緒に飲もうよぉ!」
 そういってtypeXと乾杯したのちにハグをした雅人の悪魔のような笑顔はみるみる崩れ去って次第に黒く焼けただれていき、同時にtypeXもみるみる焼け焦げて抱き合った二人は炭化していくのであった……。
 震えるほどのおぞましさに千草は、絶叫した。そして低く長い獣のような呻きをあげた。ぜいぜいと肩で息をするたびに鎖骨が大きく浮き上がった。千草はたまらずベッドサイドに置いてあったスマホから電話を掛けた。
 午後十一時を回っていたが、宵っ張りの母親はまだ起きていた。
「千草、どうしたの。こんな時間に。何かあったの?」
「お母さん……、たった今、おぞましい悪夢を見たの……」
 千草は今見た夢の内容を母親に訴えた。千草の母親の慶子は決して気丈なほうではないが、愛娘の置かれた窮状を十二分に理解しており、苦しいやり場のない千草の苛立ちと焦りをよく受け止めてくれた。案外、千草からの電話を、SОSの電話を、待ってくれていたのかもしれなかった。千草にとっても慶子に話すことによってだいぶ落着きを取り戻すことが出来た。やはり持つべきものは肉親である。母親ならばどんな愚痴でも聞いてくれるという安心感があった。もともと両親ともこの結婚には良い顔はしていなかった。諸手を挙げて賛成してくれたわけではなかったのである。両親は雅人が両親を早くに亡くしているという部分に引っかかりを持っていたのである。
「お母さんは、きっとこんなことになってやっぱりこの結婚は失敗だったと思っているんでしょう?」
 千草は、慶子が答えづらいことをわざと聞いてみた。傷ついている娘を慰めるために慶子がなんて答えるのかを試してみたい自虐的な衝動もわずかにあった。
「……そう思いたいのは、千草なんじゃないの?」
 慰めの言葉を探るどころか、慶子はいきなり核心を突いてきた。余りに図星だったので千草はしばし言葉が出てこなかった。誰に反対されようと雅人との結婚を譲らなかったのは千草自身であった。その判断が決定的に間違っていたのだとここで母親にダメ押ししてもらうことこそは、要するに千草の選択の全否定に他ならなかった。千草の人格の全否定はすなわち千草の自我の否定である。すべてを否定してもらって粉々に砕け散りたかった。
 戦いに敗れた惨めな敗残兵が玉砕を選ぶように、千草もこれまでの人生を間違っていると慶子に叱ってほしかったのだ。だが慶子はそこに逃げ込もうとする千草の弱さを許してはくれなかった。部屋の片隅にいじけて背を丸めている千草に、あなたの信念は間違っていた。あなたの恋愛観はまったくの見当違いで最悪の結末を呼び込んだ。だから私たち両親のいうことを聞いていればここまで酷い世間の笑い者……ラブドールに夫を寝取られた女という烙印を押されることもなかったのに! と言ってほしかったのだ。自分で決めたことが間違っているのであれば、もうあとは両親の言われるままに、残りの人生を歩めばいいのだ。自分の人生を放棄して両親任せにしてしまえばもう二度と揶揄されることもなければ罵倒されることも嘲笑を受けることもないからだ。だがこれはいいかえれば楽な道だ。自分の人生に対して責任を負わないから。人生を切り開くことを辞めるという宣言に他ならない。
 慶子は決して強い人ではないけれど、敏感に千草のそういう甘えを感じ取った。そしてそれを許してしまうということは、つまり今まで誇りをもって育ててきた千草への冒涜、自らの子育ての否定につながることを本能的に悟ったのだ。これからの道がどんなに厳しくとも、慶子は千草の味方になって、この結婚は失敗だったと同調するわけにはいかないという決意が、そう思いたいのはあなたじゃないの、という言葉の中に滲んでいた。その突き放した言い方ですべてを理解した千草は、用意していた言葉を飲み込んだ。 
「……お母さんの言うとおりだわ。私は、『だからお母さんたちがこの結婚に反対していたでしょう! あのとき言うことを聞いていれば、こんなことにはならなかったのに……』っていう言葉を待っていた。そうすれば自分で考えることを止められる。自分の行動に責任を持たなくてよくなるって思ったんだわ。でもきっとそれは逃げなんだよね」
「別にそこまで、深く考えていたわけじゃないのよ」
 電話口の向こうで慶子は言った。わかっていた。もちろんそこまで母は考えていたわけではない。無自覚だからこそ、より千草の心に刺さったのだ。
「でも、お母さん。お母さんの言いたいことは理解したけど、これだけは言わせて。ほかの誰にも言わない。お母さんだからこそ言える愚痴もあるの。お母さんだけにぶちまけたらアタシ、きっと前を向けると思うの」
「いいよ。好きなだけ言えばいい。聞いてあげる」
 慶子が優しくそう言ってくれたのが千草にはありがたかった。千草は大きく一度深呼吸すると胸の中に溜まっていた思いのありったけをぶちまけたのだった。これだけのニュースになって表面的には一応同情してくれるふりをしていてもみんな内心、ラブドールに夫を寝取られた女としかみていないこと、世間的には笑いものになっているだろうこと、それが耐えられない苦痛であること、あらゆる人が誰も彼もが自分のことをそういう目で見ている気がして、外もあるけないこと、そもそも外出出来る気がしないこと、こんな状態では一生、引きこもりになるんじゃないかと不安でたまらないこと…。こんな思いをするくらいなら生まれてこないほうが良かったとまで、毒づいた。
 うんうんと一通り千草の愚痴を聞いてくれた慶子は、ぽつりぽつりと話し出した。
「あなたはね、小学校に上がる直前に四十度の高熱を出したの。それが数日続いてね……」
「あ、うん。覚えてるよ。アタシ何日も寝込んでた」
「そう、お母さんもお父さんもそりゃあ心配してね。お医者さんを呼んだんだけど、全然熱が下がらなくて、今夜がヤマですって言われてね」
「ドラマみたいだね」
「茶化すんじゃないの! この子は」
「私もお父さんも必死であなたの快復を願ったわ。私はあなたの枕元で夜通し保冷枕替えたり、苦しむあなたの手を握ったりしていたわ。お父さんなんていてもたってもいられなくなって、近所の神社にお百度を踏みに行ってくるって言って朝まで帰ってこなかった」
「朝方近く、ようやくあなたの熱が下がり始めたときは、天にも昇る心持ちだった。神様に感謝したわ。汗だくになって帰ってきたお父さんと抱き合って喜んだわ」
 父がお百度まで踏んでくれていたとは知らなかった。千草の受話器を持つ手が震えた。
「だからね、もしかしたらあの時、あなたは死んでいたかもしれないの。そしたらその先の人生はなかったのよ。あなたは今生きてることが奇跡なの! 今はあなたにとってはつらい時期かもしれないけど、それを忘れないでほしいの……」
 母の言う通りだと千草は思った。あのとき、私は死の淵だったのだ。そこから戻ってきた。三途の川を渡る寸前だったのだ。医者は両親に奇跡的だといったらしい。
「……ありがとう、お母さん」
 小さな声だったが、感謝を込めてそういうと千草は電話を切った。涙がとめどなくあふれ出した。手の甲で何度も拭う。すでにハンドタオルもぐっしょり濡れ切ってしまっている。さっきまで流していた涙とは違う涙だった。母、慶子を悲しませてしまった後悔の滂沱だった。あの時死んでしまっていたら、もちろん今の私はここにはいない。三途の川を渡りかけた私は誰かの呼びかけによって呼び戻された。とっても近しい誰かであったはずなのだが、誰かは覚えていない。あれは父だったのだろうか? それとも他の誰かだったのだろうか。大人の男の人であったことだけは覚えている。だがその顔は靄(もや)に包まれているようで判然としないのだった。
 ともかくも言えることは、あのとき千草の道ははっきりと分岐したのだ。そして生きる方向に舵を切った。道は分かれたのだ。あの時、千草が死んでしまった世界もずっとあるのだろうと朧(おぼろ)げながら思うことがある。一人っ子だった最愛の娘を亡くして、きっと両親は悲しみに暮れてその後の人生を生きるのだろう。そして年老いた両親は、手をつなぎながら秋の夕暮れに公園を散歩しながら、亡くなった千草の年頃の女の子が、ブランコや雲(うん)梯(てい)で元気よく遊んでいるのを見る。やがてベンチに座った両親は、目を細めながら、あたしたちにもあの年頃の娘が居ましたねぇ……千草は今頃天国で何をやってるんでしょうねぇ……と囁きあうのに違いない。
 二人の座ったベンチの後ろには真っ赤な夕日が沈みかけ、二人の長い影が公園のベンチ越しに伸びている。そうなのだ、この世界は一つだけではない。高熱の死の淵から生還した千草を喜ぶ両親。その海よりも深い愛情に包まれて、健やかにおおらかにつつがなくすくすく育った少女時代。そして多くの友人に囲まれた華やかな学生生活。言い寄ってくる異性は数あれど、自分から積極的に男性を好きになる事がなかった二十代前半。就職してようやく出会えた運命の人。初めて自分から好きになった人と結ばれた幸せを噛み締めていた数日前まで……。
 この世界はリアルで、この哀しみもこの苦しみもリアル。だけど宇宙の果てにはきっと雅人が死なない世界もあるに違いない。そしてその宇宙では、きっと私と雅人はそれこそ寿命が尽きる百歳までも病気一つせずに仲良く暮らしているに違いない。そう、この宇宙は自分が生きてる一つだけじゃない。少しずつ形を変えて、別々の宇宙が隣あっているのだ。それが多元宇宙。隣り合った多元宇宙ではほんの少しの差でしかないかもしれない。それはきっと千草の髪がロングではなくてセミロングくらいの違いかもしれず、やっぱり雅人はラブドールと心中しているのかもしれない。だけど、似たような宇宙が延々と続いているその端と端ではその差は拡大する。著しく大きく変わっていることだろう。雅人も千草も健康で長生きをして子供や孫にも恵まれ、長寿を祝って孫やひ孫、玄孫(やしゃご)に囲まれにこやかに微笑み、記念写真に笑顔で収まる雅人と千草がいる多元宇宙があっても不思議ではないのだ。
 そこまで考えると、ふっとこの胸にずっと巣食っている重苦しい苛立ちとも哀しみともつかない黒々としたぞっとする塊が、少しだけ軽くなったような気がした。果てしなく続く多元宇宙という考え方を受けいれることで、雅人を失った苦しみや裏切られた哀しみを相対化させようと、千草の心が企てていることは明らかだった。このどうしようもない閉塞感から逃れられるならそれでもいいと千草は願った。時計を見た。午前一時半。母、慶子に電話してから二時間半も経過していた。眠らなくては……、と千草は思った。再びベッドに入った。唇の端に口内炎が出来かかっていた。舌でその患部をさぐりながらいつのまにか千草はまどろんでいた。



 朝になった。結局、熟睡は出来なかった。口内炎は酷くなっていた。洗面所に行って鏡を見る。ずっとベッドで泣きはらしていたせいか、頬に幾筋も涙の痕がついている。髪は乱れ、顔はやつれ果てていた。
 のろのろと顔を洗って、チューブから歯ブラシに磨き粉をつける。洗面台には当たり前のように雅人の歯ブラシがあった。もう絶対に使われることのない雅人の歯ブラシ。この家にはどこもかしこも雅人で溢れていた。半年間、千草が雅人と愛を育んできた住まい。無理して両親にお金を出してもらって買った分不相応なタワーマンション。私のことを愛しているといったのに、雅人はtypeXを選んだ。残された私はまるでピエロじゃないの! 世間はきっと私のことをラブドールに夫を寝取られた女として笑いものにしているに違いない。このままじゃ私は外も歩けないわ! 一生笑いものよ。一生この部屋から出ることもままならないわ…。
 昨日、母に愚痴った内容そのままが頭に浮かんでは離れない。一度は母慶子に聞いてもらって心の沼の奥底深くに沈めたはずなのに、こうして性懲りもなく浮かんできては千草の心身を蝕むのだ。遠い多元宇宙の先では、雅人と幸せに長寿を全うしている世界もあるのかもしれないとこの状況を相対化させて苦しみの軽減を図ってはみたが、結局それは概念でしかない。のしかかる現実の重さとリアルにはどうしたって勝てないのは自明だった。だとしたら、このどうしようもない現実を受け止めるしかないではないか!
 世界でいちばん愛していた夫に裏切られた千草の絶望は深かった。千草は涙の痕を拭って顔を上げた。その瞳には強い決意が滲んでいた。何故、雅人は自分よりtypeXを選んだのか、その理由が知りたかった。その理由が分からなければ、この理不尽な哀しみと怒りは一生千草につきまとって、事あるごとに自分を苦しめるだろう。何故なら、“夫をtypeXに寝取られた女”の烙印は消えないままなのだから! 今日から私は涙を捨てるのだ。泣いてどうなるというのだ。もう雅人は帰って来はしない! それよりも、自分のようなtypeXに夫を奪われる妻をこれ以上出さないようにすることだ。千草は腹をくくった。そうだ、「type]被害者の会」を立ち上げよう! 歯ブラシの先端で口内炎の患部をやや強めに擦ると、鋭い痛みが頬から脳天に走った。そう、これから私はこの痛みに耐えていくのだと千草は誓った。



 私を残してtype]と心中した雅人の物なんて、全部捨ててやる! そう決意した千草は、まず手始めにゴミ袋を片手に洗面台に向かった。雅人の歯ブラシとヘアブラシ、整髪料やローション、ヘアジェル、カミソリなどをゴミ袋に叩き込んだ。次いで浴室でシャンプーやリンス、キッチンに行ってマグカップやごはん茶碗、箸などを捨てたところで早くも千草は疲れてしまった。多すぎるのだ。このマンションはどこを見渡しても雅人の物だらけで雅人と暮らした半年間が染みついていた。そう簡単に雅人を忘れ去る事なんて千草にはできなかった。全てを捨ててリセットなどという今時のゲームのようには、人の心は簡単に割り切れるものではなかった。愛憎半ばする気持ちがまるで数分単位で交錯することすらあった。さっきまでとてつもなく憎かったのに、次の瞬間には心の底から愛しい。こういう心の振幅の大きさに千草は揺れ続けていた。
 さっきまで愛しいと思い顔をうずめていた雅人のスーツの内ポケットから鍵が出てきた。これは一体何の鍵だろう? 千草が今まで見たこともない鍵だった。それはいわゆる普通のディスクシリンダー錠でキーホルダーもなにもついていないそっけないもので、ファスナー付きの牛革じゃばらカードケースの奥底に無造作に入っていた。
 鍵の謎は翌日にあっさりと解けた。集合ポストに雅人宛のアパートの更新はがきが入っていたのだ。宛名は会社になっていたが回送されてきたのだった。ピンときた千草ははがきを片手に訪ねてみることにした。

 マンションから二駅……。こんなところに雅人が賃貸アパートを借りていたとは。今更どんな秘密が出て来ようが驚きはしなかったが、千草は自分が全く知らないところで雅人が部屋を借りていたという事実に失望を禁じえなかった。二階の角部屋。サビた手すりの階段を上がるとき、数人で遊んでいた一階の部屋の子供たちが動きをとめて、物珍しそうにじっと千草のことを凝視しているのを感じた。子供たちの視線を背中に感じながら、千草は角部屋のドアノブにシリンダー錠を差し込んだ。案の定、ドアは開いた。狭い玄関に入ると六畳一間しかないアパートのすべてが見渡せた。それは驚きの光景だった。その六畳狭しと女性ものの洋服が並んでいた。店舗によくあるようなハンガーラックが並びハンガーから洋服がぶら下がっていた。いくつもの段ボールが積み重なり、その上にもまたビニールがかかっているワンピースやジャケットが折り重なっていた。部屋の隅にはドレッサーがあり、さらに姿見も置いてあった。ドレッサーの上にはコスメ製品もあるようだった。
 これは一体……。千草は眩暈を感じた。洋服はすべて通販で買ったものらしかった。ハンガーラックの横には引き出しのついた三段のチェストがあった。引き出しをあけると下着類が入っていた。きれいに畳んだブラとショーツがぎっしりと入っていた。ショーツは小さく仕切られた仕切り版に合わせてきれいに畳んで入っている。千草はおそるおそるいくつかを手に取ってみた。清楚なページュ系のシンプルなブラもあれば、レースをふんだんに使った黒や紫のセクシーなブラもあった。ショーツもTバックもあれば、フリルが付いた可愛らしいものなどあらゆる種類が揃っていた。二段目の引き出しにはストッキングやガーターベルトがあった。三段目は色とりどりのベビードール類が区分けされていた。
 部屋の真ん中に立ち尽くした千草は思った。これは、衣裳部屋なんだわ。雅人が用意したtypeXのための衣裳部屋。この部屋で雅人はtypeXにいろいろな衣装を着せて楽しんでいたに違いない。私に内緒でこの部屋でtypeXと着せ替え遊びをしていたのかと思うと暗澹たる思いが込み上げてきた。
 千草はドレッサーに近づいた。クレンジング、ファンデーション、マスカラ、アイシャドウ、ネイル……一通りのコスメグッズが揃っていた。中には千草が使っているブランドもいくつかあった。このドレッサーに座らせて、雅人がtypeXに化粧を施している姿を想像すると千草は悪寒が走るとともになんともやりきれない気分になった。
 こんな部屋まで用意してあなたをコケにしていたのに、それでもあなたは《type]被害者の会》を本当に立ち上げるつもりなの? もうひとりの千草が耳元で囁いていた……。


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