しずくの覚悟を決めた悲壮な眼差しを見ている内に、鶫守の心の中になんとかしてやりたいという思いが芽生えてきた。深い事情を抱えているならそれを叶えてやりたいとも思った。それに本当は夜鶫の鏡を見ても死なない。見せてもいいんじゃないかというところまで気持ちは傾いていく。 「オーディションに受かる為には夜鶫の鏡が必要なんです。どういうことをしたから落選したのか前もって分かればそれをしなければいいのですから。合格していたならそれでいいし。たった一年間でもいい。この先どう進めば私は有名人になれるのか。右へ進めばいいのか左に進めばいいのかそれだけでも知ることが出来れば後は私自身でなんとかします。どんな運命でも変えてみせます!とにかく一度だけでもいい、私の名前が日本中に知れ渡れば死んでも本望なんです!!」 ここまで言われたら見せないわけにはいかなくなった。どうせ見せても死なないのだし。 「お願いします!!」 しずくは鶫守に必死に縋り、精いっぱい頭を下げた。鶫守はしずくの決意が痛ましかった。 「分かった。そなたに夜鶫の鏡を見せることにしよう。」 「!!」 しずくの顔が一気にぱあっと明るく輝いた。瞳には眩しいくらいの光が射し、辺りの空気を鮮やかに華やかに染め上げる心からの笑顔。鶫守の心はその笑顔に一瞬にして撃ち抜かれた。 鶫守の心臓がドキドキと鳴り出した。鶫守は体と心に起きたこの非常事態をなんとか乗り切ろうと慌ててしずくから視線を逸らす。それぐらい今のしずくは眩しかった。 しずくは、やおら焦りだした鶫守を不思議に思ったのかじっと鶫守を見つめた。見つめられた鶫守は益々動揺する。しずくは鏡を見せてもらえる期待感溢れる瞳で見てくる。 だがここで鶫守にとって困ったことが起きた。 夜鶫の鏡を見せても死なないということがばれてしまう。その事実が広まったらたくさんの人間がここに押しかけてくるだろう。それをなんとか防がねば。 焦る鶫守。残念なことに動揺している鶫守の頭の中に鏡を見たことを黙っていてもらえばいいという単純明快な答えが思い浮かばなかった。あれこれ考える内に鶫守ははたと思いついた。 「ただし条件がある。」 「条件?」 「そうだ。わしは夜鶫の鏡の守り人だ。なのでいかようにも鏡を見る条件を変えることが出来る。」 「?」 しずくはきょとんとした目で鶫守を見ている。その瞳にドキマギしながら鶫守は話を続けた。 「鏡を見る為の代償が命というのを変えよう。」 「え!?」 しずくは驚いた。その胸の内にある喜びがどんどん外へと溢れてくる。後から後から喜びが溢れ、体は歓喜の渦にすっぽり埋まり心が嬉しい悲鳴をあげている。 「一週間、わしの畑の手伝いをしてくれ。それで命はとらないと約束しよう。ただしこれはそなただけの超特別サービスだ。他の誰にも言ってはならぬぞ。絶対に言ってはならぬ。特別扱いしたのがばれるとなんであの人にはああしてあげたのに私にはこうしてくれないのと言い出す輩が出てくるからな。収拾がつかなくなる。だから絶対にこのことは内緒だぞ。約束出来るか?」 「はい!!絶対に約束します!!」 しずくは心の底から誓った。
その日からしずくは鶫守の屋敷に寝泊りしながら畑仕事を手伝った。屋敷はデカイので客室はたくさんある。しずくはその一室を借りて生活した。 しずくは朝の五時に起きて鶫守の為に朝食を作り、鶫守と共に朝食を食べた。それが終わるとさっそく畑仕事だ。収穫の秋だからやることは山ほどある。大きい畑に実った野菜や果物を収穫しているとあっという間に日が暮れる。始めのうちは鶫守が手取り足取り畑仕事のやり方を教えていたがしずくは勘が良いのですぐにマスターした。その覚えの良さに鶫守も感心した。 畑仕事を生き生きとやっているしずくにはかつて見せた心の闇など微塵も感じさせない明るさがあった。それが鶫守には嬉しかった。ここにいるだけでも現実の辛いことや世間に対する執念を忘れて欲しかったからだ。しずくの安らぎの役に立てているのだと思うと鶫守の胸は躍った。 夕方には畑仕事を終え、しずくは夜食作りに取り掛かった。しずくの作る食事はお世辞にもおいしいとは言えなかったがそれでも鶫守はうまいうまいとバクバク食べた。しずくの気持ちが嬉しかったのだ。 畑仕事は重労働だ。しずくは部屋に帰るとバタンキューで寝てしまった。 鶫守はしずくには手を出さなかった。手を出そうと思えば出せたがそうしなかった。 そりゃあ鶫守も男、好きな女と一つ屋根の下にいて悶々とするのは仕方がない。 しかししずくを汚したくなかった。ダイヤモンドの原石を穢しては駄目だと思った。自分は妖怪、相手は人間、そういうのを抜きにしてもしずくには手を出せなかった。あまりに憧れが強すぎるとかえっておいそれと手は付けられないのかもしれない。 しずくと時を過ごしていくうちに鶫守は益々しずくへの憧れを強くしていく。しかし同時に惚れれば惚れるほどしずくが遠い存在に感じられてくるのも事実で。鶫守はこの短い日々の中で確信していた、秋川しずくは女優として必ずや成功すると。 こうして一週間が過ぎた。 いよいよ夜鶫の鏡を見る日が来た。 「今日までよくやってくれた。そなたに鏡を見せよう。わしについてこい。」 「はい!」 しずくは喜びと期待で顔を赤らめている。鶫守はそれを見て胸が痛くなった。鏡を見たらしずくがここにいる理由はなくなるのだ。今日でお別れだと思うと身が切られるような痛みを覚え、心は切なくなっていてもたってもいられなくなる。 だが秋川しずくは大女優になる女だ。 鶫守はしずくの為だと自分に言い聞かせて鏡のある部屋へとしずくを導いた。 美しく磨かれた廊下を右に左に曲がりながら進んでいく。 やがてしずくが来たことない部屋の前に辿り着いた。風光明媚なふすま絵はない、その代わりに分厚い木の扉に厳重な鍵がかかっていた。 扉の前に立っているだけでも中から厳かな気配が伝わってきてしずくは俄然緊張してきた。このわけも分からない威圧感は夜鶫の鏡が醸し出しているのだろう。 鶫守が鍵を開け扉を開いた。そこに現れたのはごく普通の十畳ほどの和室。しかしその一番奥には外からは想像出来ない程の豪華絢爛な飾り棚とそこに大切そうに飾られた鏡があった。鏡には白い絹布が掛けられている。 「あれが夜鶫の鏡・・・。」 しずくは喉をごくりと鳴らして呟いた。緊張感が頂点に達する。魔鏡は恐ろしい程の威圧感を放っていて遠くにいてもその威圧感に気圧されてめまいがするほどだ。 しずくは思わずふらついた。 「おっと。」 慌てて鶫守がその背中を支えた。 「大丈夫か?」 「はい、大丈夫です。」 しずくは体勢を整え、気持ちを奮い立たせて遠くの鏡を見据えた。
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