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作品名:朝舞探偵事務所〜この蜜柑を君に〜 作者:空と青とリボン

第1回   1
私は生まれてからその日まで一度も転んだことがなかった。赤ちゃんの時も幼児期も転んだことがなかった。私は普通の人間ではないから転ぶことが出来ない。並みはずれた反射神経を持っているせいだ。わざと転ぼうとしなければ転べなかった。
 だけどあの日の私は違った。とても浮かれていた。幼い両手に溢れるほどに蜜柑を抱え駆けだした。この蜜柑を皆におすそ分けしたくて。そしたら皆の喜ぶ顔を見ることが出来ると思っていたから。
それなのに・・・。
足がもつれて転んだ。思いっきり転んだ。生まれて初めて転んだ。道路に膝を打ち付けズボンも膝のところが擦り切れ血が滲み出てきた。毛糸で出来たお気に入りのズボンが破けてしまった。初めて経験した転倒は思いも寄らずショックだった。擦りむいた膝が痛い。
 でもそんなことより私の一番の気がかりはアスファルトの上にコロコロと転がっていく蜜柑だった。
あんなに楽しい気持ちが一瞬にして崩れ、どうしようもない悲しみだけが胸に持ち上がってくる。転ぶ瞬間まではこの蜜柑を近所の同級生に分けようと心弾ませていた。とてもうきうきしていた。
でも今はそれは叶わない。どうしてこうなるんだろう。どうしてみんなに上手く蜜柑を渡せないんだろう。なぜ寄りによってここで転ぶんだろう。振り絞って出した勇気は転がる蜜柑と共に消えた。
その時の光景を今でも昨日のことのように思い出す。
 
 幼い頃の私は・・・今もそうだけどかなりの引っ込み思案だった。自分から他人に声をかけることが出来ない。それは物ごころついた時からそうで気が付いた時には友達が出来にくい性格になっていた。保育園、幼稚園、小学校と友達が出来ず、毎朝共に登校をしている班の中にさえ親しく喋る友達はいなかった。
友達がいないということを寂しいと思っていた。寂しいけどそれとは裏腹に友達を作ることに怖さも感じていた。
小学校時代。授業の合間の休み時間、教室の中は親しげにお喋りをしている級友たちで埋め尽くされていた。楽しげな笑顔、やんちゃな笑顔が溢れている。
しかし私は独りだった。常に独りだった。自分の机の席から一歩も離れることなく本を読む。珍しく席を離れる時はトイレに行くときだけだった。
だから早く休み時間終われと心の中でいつも願っていた。なぜなら授業が始まればみんなひとりに戻る。授業の間だけ教室の中で私だけが孤独なんだという事実を忘れることが出来る。
帰りの下校も一人。家に帰っても友達のところへ遊びにいくでもなく、家で大好きな本を読む。そんな毎日。
友達がいないことが当たり前になっていたあの頃。友達がいないから自分の秘密がバレないで済んだ。でも心のどこかでバレてもいいから友達が欲しいと望んでいた。そんな矛盾を胸に抱えて生きていた。
 蜜柑を落としたあの日もそうだった。小学校3年生の時だったか。いつものように私は一人で本を読んでいた。
そんな時、母親が私に声をかけた。
「この蜜柑、皆に配ってあげなさい。」
私は本から視線をあげ母が差し出した蜜柑を見た。母のどこか悲しげで優しい眼差し。見るからに美味しそうな艶やかな蜜柑。その瞬間私の胸にとある光景が浮かび上がった。それはその蜜柑をおいしそうに食べる近所の同級生の顔。
いつもの私だったらそんなこと出来ないと恥ずかしがって断ったかもしれない。自分からみんなの所へ行って「これ食べて。」と勧めるなんて、そんな勇気がいること出来るわけがない。
しかしなぜかこの日の私はそれまでの私ではなかった。この蜜柑をみんなに分けてあげて喜ばせたいと思ったのだ。
なぜその日に限ってそう思ったのか自分でも分からない。でもその時はそう思った。
さっき家に帰ってくる時、皆が山本さん家の庭先に集まって遊んでいたのを見かけた。今行けばまだそこにいるだろう。
「うん、行ってくる!」
私はなんだかドキドキしていた。母から両手いっぱいの蜜柑を譲り受けみんなの元へと駆け出した。この蜜柑を渡した時のみんなの喜ぶ顔が見たくて。
けれど家の前の道に出た時だ。
私は転んでしまった。生まれて初めての転倒。あまりに心が先を急いで足がそれについていかなかったのだ。
ドテッ!!
かなり激しく転んでしまった。アスファルトの上にのしせんべいのように倒れこむ私。両手から蜜柑が零れ落ちた。
「大丈夫?」
たまたま近くにいた近所のおばさんが心配して声を掛けてくれた。
でも私は黙ることしか出来なかった。生まれて初めて転んだこともショック。でもそれ以上に、そんなことなんて目じゃないくらいに私は悲しくなった。
蜜柑が道の上を転がっていく。コロコロと寂しく、孤独を象徴するように転がった。
私は茫然とした。これじゃ蜜柑をみんなに渡せないと思ったからだ。例え落っことしても皮をむけば食べられるのにそんなことまで気が回らなかった。ただただ蜜柑を渡せなかったことがショックで悲しかったのだ。
振り絞って出した勇気が全て台無しになったような気がした。お前にそんなことは似合わないと神様に言われた気がした。今となればたかが転んだだけのことだと笑い飛ばせるのに当時小学生の私にはそれを笑い飛ばすことが出来なかった。
お前は孤独がお似合いだと通告されたようで悲しみに押しつぶされそうになっていたのだ。
あんなに勇気を出してあんなにわくわくしていたのに。これをきっかけにして友達が出来るかもしれない、そんな風に希望で胸を膨らませていたのに。
その希望も勇気も一瞬にして消えた。あんなに浮かれていた数分前の自分を思い出して涙が出てきた。あんなに楽しみにしていた自分は消えた。

 あれから十数年経ってもあの日のことを昨日の事のように思い出す。あの時の悲しみ、あの時の寂しさはいつでも生々しく思い出せる。
どんなに望んでもどんなに勇気を振り絞っても一瞬にして虚しく終わってしまうことがあるのだとその時私は悟ったのだ。
 そしてそれは大人になった今でも続いている。
あの頃よりは少しは積極的になれたとは思う。でも自分に自信が持てない。友達はやっと一人出来たけど、その友達もいつか自分から離れて行ってしまうんじゃないかと内心怯えている。だから一歩先に踏み出せないでいる。
もし私が普通の人間だったら・・・。
普通の人間として生まれていたら違う人生があったのかな・・・。
私は自分の腕をぎゅっと抱きしめた。この肌が私を苦しめる。
もし違う人生があったら・・・。


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