「だが、何よりもう一度人間を信じてみたかったのだ。もう一度信じて、人間は信じるに値する存在だと思いたかった。お前がここに来ることを結局受け入れたのはやり直したかったからだ。人間との関係をもう一度やり直したいから。」
ジャノは家路を辿る。先程のシュンケの言葉が胸に突き刺さって離れない。 空族の皆、シュンケ、信じてくれてありがとう。ジャノは心の奥底から空族を愛おしく思った。ジャノは家に着くと何も言わずただナーシャを思いっきり抱きしめた。突然のことにナーシャは驚くが。 「ごめん。僕はずっとここにいるよ。」 ナーシャの耳元で約束を交わす。シュンケに何か聞かされたのだとナーシャは勘づいた。しかし何を聞かされたにせよジャノが自分の傍にいてくれるならそれでいい。安堵と幸せな気持ちが蘇りたまらなく嬉しくなってジャノの体を抱きしめ返す。二人の心と体は愛のもっとも深い所で繋がった。
その頃、トーマスは入念に荷物の準備をしていた。出発は明日の午前だ。人里に下りて物資を調達する大切な役目。ミスは絶対に許されないからと荷車のメンテナンスにも余念がない。この荷車に村で収穫されたポクールの実を積み、それを町で売り金貨に変えるのだ。その金貨で皆から頼まれたものを買ってくる。それをかれこれ三年続けている。 「よし、荷車の調子はいいな。」 トーマスは納得すると今度は荷車を引く馬の世話をしようと愛馬、サンキットの所へ向かった。すると何やら前方に人影が揺れているのが見えた。何だろうとトーマスが目を凝らすとその人影はカリンだった。 「何だ、カリンか。どうした?買い物の追加か?」 呑気に尋ねる。しかしカリンは深刻な顔をして黙ったままだ。トーマスは気にせずサンキットの毛並を整えるべくブラッシングを始めた。 「いよいよ明日だ。今度も上手くやるさ。足りないものがあったら今のうちにいっておけよ。今回逃したら次は半年後だ。」 トーマスは自分の役目に誇りを持っている。空族は基本自給自足だ。しかし険しい山の中では収穫出来るものにも限りがあった。だから不足しているものはどうしても人間の力を借りねばならない。薬などその最たるものだ。 「しかしシュンケも良い場所を見つけてくれた。五年前にここに辿り着いた時はこんな険しい山腹でどうやって暮らしていくのかと頭を抱えたがまさかここにこんなに良質なポクールの木が生えているとは思わなかったぜ。」 トーマスはそう言うと懐からポクールの実を一つ取り出した。つやつやに輝く緑色の小さな実。 「このポクールの実から綿を取りだしそれで糸を作るとえらく高級な糸になるらしい。この一個のポクールの実で三ペルだぞ。この実は我らの大切な生命線だ。」 トーマスは愛しそうにポクールの実を眺めながら 「人目を避けて生きる我々への神様からの贈り物だ。」 大切そうにまた懐にしまった。カリンはトーマスの話を暫くは黙って聞いていたがやがて意を決したような真剣な表情で口を開いた。 「トーマス、頼みがあるんだ。」 「頼み?何だ、頼みって。」 しかしカリンはここで言うべきか躊躇している。 「何だ、遠慮せずに言ってみろ。」 トーマスがカリンを促す。ためらっていたカリンだが今度こそ覚悟を決めた。 「明日、僕も一緒に連れて行って欲しい。」 「!!」 カリンの頼みごとを聞き驚愕したトーマスのブラッシングする手が止まった。カリンの顔をまじまじと見つめる。 「何を言いだすんだ。」 トーマスの顔はまたまた冗談をとでも言いたげだ。だがカリンはいたって大真面目。揺るがない真剣な眼差しは冗談でも嘘でもないことを物語っている。トーマスはカリンの本気を見て先程までの笑みを消した。 「本気で言っているのか。」 「うん。」 カリンは力強く頷く。 「一緒に行くというがどうやって行くつもりだ?シュンケに許しを貰ったんだろうな。」 そう聞かれカリンの表情は困惑したものとなり答えるのを一瞬ためらった。 「シュンケにも誰にも言っていないよ。皆には黙って行きたいんだ。」 カリンの答えを聞いてそれまでたいして本気にしてなかったトーマスの顔が曇る。 「黙ってなんて行けるはずがないだろう。この任務がどれほど危険なものなのか分かっているのか?命がけなんだぞ!」 「分かっている!分かっていてお願いしているんだ!」 カリンは珍しく声を荒げた。トーマスはこんな必死なカリンの顔を見るのは初めてだった。どうしてここまで必死なんだろう。 「なぜ一緒に行きたいのだ?」 トーマスはカリンの意図するものを聞き出したい。生半可な答えでは許さないぞとばかりに詰め寄って聞くと 「絵の具が・・・。」 「絵の具?」 「青色の絵の具が欲しいんだ。今、持っているやつはもうないから新しい青の絵の具が欲しくて。」 カリンの答えを聞いてトーマスは何だそんな事かと内心思った。もしかしてもっと重大な意味合いがあるのではと思ったが杞憂だったようだ。 「だったら俺が買ってくるよ。いつものやつでいいんだろう?」 だがカリンは首をブンブンと横に勢いよく振った。 「駄目なんだ。頼んで買ってきてもらったものでは僕の空が描けない!」 トーマスには何のことだか分からなかった。僕の空って一体・・・?トーマスの困惑する顔を見てカリンは自分の胸の内を切々と打ち明ける。 「皆僕の絵を見て素晴らしいだとか綺麗だとか言ってくれる。それは僕も嬉しい。でもそれでは僕は満足出来ないんだ。」 「実際お前が描く絵は本当に素晴らしい。何が不満なんだ?」 「僕が心の中に思い描いている青空は違うんだ。僕はまだそれを描けていない。」 トーマスはカリンが何を言いたいのかますます分からなくなってきた。 「僕の翼はこの通り役に立たない。生まれてきてから一度も自分の力で空を飛んだ事がない。空族に生まれついたのにただの一度もだよ?」 カリンは寂しそうな目をして語る。 「でも絵を描いている時だけは僕はキャンパスの中を自由に飛んでいられるんだ。」 「だったらそれでいいではないか。それに飛べないのはお前だけではないぞ。この俺だってそうだ。」 「青空を描いて描いてその度に空を飛ぶけど僕が本当に飛びたい空はこれではないんだ。本当に飛びたい空がこの心に中にあるのにそれをキャンパスに描けない。手元に僕が欲しい青の絵の具がないから。」 カリンの悲しげな目に悔しさも入り混じってゆらゆら揺れる。 「・・・。」 「今ある絵の具をいろいろ混ぜて僕の心の中の青空を再現しようとしたよ。でもどんなに試してみてもその色が生み出せないんだ。」 「綺麗な青じゃないか。あれはカリンにしか生み出せない色だぞ。」 トーマスはカリンが今まで描いてきた絵を思い出しながら言うが 「でも違うんだよ。僕が描きたい空はまだ描けていない。描きたい空を描くには今まで持っていた絵の具では再現出来ない。もっと違う青の絵の具が必要なんだ。」 カリンは懸命に訴える。だがトーマスにはそれが理解出来ないでいた。だが理解出来ないのも無理はない。カリンが実際に今まで描いてきた空と心の中にある描きたい空の違いなどカリンにしか分からないことだ。 「僕は僕だけの空を描きたいんだ。それが僕の空の飛び方なんだ。」 カリンの一言一言にトーマスの胸がさわさわと騒ぎ始めた。カリンの気持ちがなんとなく分かってきたからだ。 トーマスの翼は酷く小さくこれでは全く使い物にならない。だが、だからこそ人里に行くことを許された。マントさえ羽織れば翼の存在などはたから見たら分からないからだ。それゆえ人里に下り町の中を自由に歩ける。 しかしカリンの翼は違う。トーマスの翼より一回り大きくこれではマントを羽織っても背中に何かあると勘付かれてしまう。 それが翼だと気づかれるかは微妙なところだが怪しまれるというリスクは避けられない。カリンは人里に行くことも許されず、かといって空を飛ぶ事も出来ない。カリンが唯一自由になれる時はキャンパスに向かっている時だけなのだ。 トーマスは思わず目を閉じた。自分だってあの大空を飛べたらと何度思ったか数えきれない。空族に生まれながら飛ぶ事も叶わないこの体を憎んだこともある。でもそれでも自分には人目を気にせず歩ける最低限の自由はある。 だがカリンはどうだろう。カリンには本当に描きたい空があって、でもそれを描くことが叶わないという。それは空想の中でさえ飛ぶことが出来ないということだ。せめてキャンパスの中の空を自由に飛ばせてやりたい。トーマスの気持ちはどんどん傾いていく。 「今までの青ではお前の青は生み出せないんだな?」 トーマスが念を押して聞いた。 「うん。手元にある絵の具でいろいろ試してみたけど僕の空は再現出来なかった。でも新しい違う青ならそれが出来るかもしれない。」 トーマスには絵心がない。町にあるありったけの絵の具を買い集めてもカリンのお眼鏡に敵う保証はない。 「僕はこの目で見てこの手で触って選びたいんだ、僕だけの空が描ける自信を持ちたい!」 カリンの熱意は相当なものだ。カリンだけが持つこだわりは誰にも曲げられやしない。まさしく不退転の決意だ、誰にも捨てさせることなんて出来ない。トーマスは一つ大きくため息をつくと 「お前の本気は分かった。それでどうやってシュンケにバレずに行くつもりだ?」 トーマスがそう聞いてきた途端カリンの顔に一気に喜びが溢れだした。カリンはポクールの実が山積みになっている荷車を指差した。 「あの荷車の中に隠れて行こうと思うんだ。」 どうやらポクールの山に潜ってここを脱出しようと企んでいるようだ。カリンはトーマスの了解を得られたと解釈し嬉しそうにしているが 「いくらあれに隠れてもばれるだろう。お前の体重がプラスされれば荷車を運ぶジム達にばれる。」 荷車を山から下ろし河岸に向こうまで運ぶ役目のジム達はいつもよりだいぶ荷車が重い事に気づくだろうし怪しみもするだろう。だが不安がるトーマスに対してカリンは明るい声だ。 「それならいつもよりポクールの実をたくさん積んでいるとトーマスが言ってくれれば問題ないよ。」 カリンは意気揚々として言うがトーマスはおいおいと内心思った。 「俺にそんな嘘をつかせるつもりか。」 トーマスのやれやれという表情を見てカリンは本当に申し訳なく思った。いきなり地面に膝をつき頭を下げる。 「本当にごめんなさい!僕のわがままにつきあわせてしまって。」 心の底から謝るカリン。トーマスは慌てた。 「そんな事をしないでくれよ。」 トーマスは恐縮した。そしてカリンを立たせようとしたその時だ。突然頭上から声が降ってきた。 「おもしろそうじゃん。」 これはルシアの声だ。二人は驚いて上を見上げる。 「「ルシア!」」 トーマスとカリンの声が重なる。と同時に今の話を聞かれたかと内心焦った。カリンは何と言ってごまかせばいいのか一生懸命考える。一方、トーマスは心のどこかでほっとした。話を聞いたならルシアはカリンを止めるだろう。カリンとルシアは仲がいいのだからカリンを危ない目に合わせるわけがない。だがトーマスの思惑はあっけなく外れた。 ルシアは地上に下り立つと当たり前のように言ってのける。 「カリン、行けばいいよ。」 感情が見えないつるりとしたルシアの声。でもカリンは思いがけなく背中を押されよほど嬉しいのだろう、満面の笑みを浮かべている。トーマスはそれを見てようやく諦めたのか一つため息をついた。ルシアは翼をたたみ荷車の傍に立った。 「明日この荷車を運ぶのは僕とジムとトマックとラサール。トマックとラサールは鈍感だからいつもと違う事に気が付かないだろうけどジムは察しがいいから怪しまれるかもな。」 ルシアはトマックとラサールに失礼な事をいったが、まぁこれもいつもの事だ。 「でもまぁ、僕が上手いこと言いくるめてやるよ。」 ルシアは得意げな顔で言う。カリンはルシアの手を取り何度もありがとうと言った。
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