矢のように速い川の流れは渡る者の命をいとも簡単に川底に引きずり込んでいくだろう。おまけに川幅は十メートルをゆうに超えている。小さな船で渡ろうものならすぐに木端微塵になる。河の向こうの森は魔物でも棲んでいそうなおどろおどろしい雰囲気。時折オオカミの遠吠えが聞こえてくる。ととどめは鋭い山肌をさらす連峰。人間はおろか鳥さえも訪れることを拒んでいるかのような冷徹さと険しさだ。その山のどこかにナーシャたちが暮らしている。 「ナーシャに会いたい。」 ジャノは思わず呟き、そして苦笑いした。 「何を考えている。今はそんな事を考えている暇はないだろう。」 自分自身にそう言い聞かせるとまた作業に戻った。自分で描いた設計図と手元の機械仕掛けの翼を交互に見比べながら調整し、精密機械のような指先で歯車の凹凸を手直ししていく。ジャノは翼の完成に己の人生の全てを賭けていた。ナーシャとその仲間たちを自由にしたい、それだけがジャノの願い。 夜通しで作業を続けた。太陽が再び空に昇り大気が青く輝き、朝日がジャノの横顔を照らすが当の本人は時間が経つのも忘れて作業に没頭していた。 すると突然後ろから自分の名が呼ばれた。 「ジャノ。」 ジャノはその声の持ち主が誰のものかすぐに分かった。 「ナーシャ!」 ジャノは立ち上がりナーシャを迎える。会いたかったと思わず口に出してしまいそうになるのを寸前で止め、作りかけの翼を得意げにナーシャに見せた。 「ここまで出来たよ。」 ナーシャも嬉しそうにそれに触れた。ナーシャはこの翼がそう遠くないうちに完成するだろうと信じて疑わなかった。ジャノなら出来る、そう信じている。 ナーシャの顔を見て気が緩んだのかジャノのお腹の虫が鳴りだした。ぎゅるるる。 ナーシャはくすっと笑うと「そうだと思ったわ。」と言いながらバスケットを見せた。バスケットの中から美味しそうな匂いがしてくる。 「作ってきたの。」 ナーシャが照れながら差し出した。 「ありがとう。」 ジャノは喜びにあふれ、このまま空まで飛び上がりたい気持ちを必死で抑え蓋を開けた。 野兎の肉と根菜の炒め物。卵のサンドイッチ。レタスときゅうりのサラダ。蜜柑。ジャノは蓋を開けるといなやお弁当にかじりついた。一心不乱で食べるジャノ。 そんなジャノの様子を優しく見守るナーシャであったが次第にある不安が頭をもたげてきた。ジャノは満足に食事を摂れていないのではないか。見たところ徹夜したように思える。 実際、ジャノはあまり食事を摂れていなかった。持参してきた少しの食糧はとうに消費してしまった。自分の故郷にいる時も自給自足はしていたつもりだった。近くに流れる穏やかな川で魚を釣り、自分の家の庭の畑でトマトやししとう、ナスなどを栽培し、足りない乳製品などは町へ買い出しに出かける。 しかし、ここでの生活はそんな生易しいものではない。難易度と危険度が段違いだ。目の前の河は魚釣りなど悠長なことをさせてくれない。野生動物は俊敏でなかなか捕獲出来ない。動かない木の実や野草、そして持参してきた水でなんとか空腹を凌いでいた。ましてや作業に没頭しているとなると体が疲れるのは当然だ。ジャノの頬はここに来てたった一日でこけてしまっていた。ナーシャはジャノが体調を崩さないか心配でたまらない。
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