夕方、帰宅した友樹が、亜紀のシナリオに沿って思いを話すと、 「ありがとう……」彼女は悲しそうに微笑んだが俯いてしまった。 ただ、彼は亜紀から聞かされた話に納得していたのか、彼女を見る目が少し変わっていた。 (まさか下向いたまま、笑ってなんていないよな…… 本当に悲しいのか? いやいや、悲しくなんてないだろ、だってこんなところに住みたくないんだし……) 彼は俯いたままの亜由美を見つめながら、無意識のうちにそんなことを考えていた。
翌日の月曜日、仕事をしながら、亜由美のことばかり考えている自分に気が付いて、 (もう出ていくんだったら、早く出て行ってくれればいいのに、その方がすっきりするはずだ) 自ら気丈に言い聞かせ、彼女は出ていくはずだと、懸命に思い込もうとしていた。 それでも、帰宅して、家に電気がともっているのを見ると、いくらか「ほっ」とした思いがあった。 が、火曜日になると「あっ、今日も出ていかなかったのか……」と少し不思議になった。 そして、水曜日、 「あっ、まだいるのか、彼女も悩んでいるんだろうな…… もしかしたら、ここで生きていく決心をしたのかもしれない」そんな独り言を呟いた。
さらに木曜日、 「あっ、まだいる。もしかして、このまま……」亜紀の推測を思い出しながらも何故かうれしくて仕方なかった。
そして金曜日、亜紀の話に納得していたはずではあったが、それでも心は亜由美を振り払えてはいなかった。頭では理解していたはずなのに、心では灯りが付いていることを願っていた。 「お願いだ……」と願いながら家の前に立つと、灯りはついていなかった。 (そうか、最後まで悩んだのか…… いや、でも、もしかしたら脅かそうとしているのかもしれない、電気を消したまま、待っているのかもしれない) 慌てて鍵を開けて、居間の電気をつけるとテーブルの上に一枚の置手紙があった。
『ごめんなさい、最後まで悩みました。決してあなたを求めていないわけではないのに、ここでの生活になじめないだけなのに、ここを出て行っていいのかどうか、未だに答えは出ていません。でも、こんな思いのままではあなたに嫌な思いをさせるだけと思い、一度ここを離れて自分を見つめてみたいと思います。私の人生の中で一番大変だった時期を支えてくれたあなたのことは一生忘れないと思います。本当にありがとうございました 亜由美』
それを読んだ友樹は、唇をかみしめると懸命に涙をこらえた。 出ていくのなら早く出ていって欲しい…… そんな思いもかすかにはあったが、それでもこみあげてくる虚しさはどうすることもできなかった。
すぐに電気を消した彼は、しばらく暗闇の中で呆然としていたが、おもむろに携帯を取り出すと亜紀に電話を入れた。
『もしもし、友樹です。今日出ていきました』彼の落胆が伝わってくる。 『そう…… 手紙かなにか、あったの?』 『はい…… 最後まで悩んでいたみたいです』 『ふーん、手紙、読んでみてくれる?』 『えっ、でも…… 』 『今更、なにもったいぶってんのよ。私だって人の手紙なんて聞きたくないけど、今日出て行ったっていうのが気に入らないのよ』亜紀が口調を変えた。 『ど、どうしてですかっ、ぎりぎりまで悩んでいたんですよ』 『ばか、どうせ手紙に書いてあったんでしょ。荷物だって早めに準備していたはずよ。今日決心したわけじゃないわよ。最後まで悩んだように見せたかったのよ』言葉には憎しみと言うよりは腹立たしさが込められているようだった。 『そ、そこまで……』 『それだけだったらいいわよ。少しでも友樹君を傷つけないように考えたのなら、それはいいわよ。でも、手紙にわけわかんないこと書いていたら、あの女、はっきり言って性悪よっ』 『わ、訳がわかんないことって?』 流れの中で静かに沈み込もうとしている彼がはっとした。 『あのね、終わったんだから、あとくされのないように、感謝の気持ちと【さよなら】だけを書いているのならいいわよ』 『……』 『でも、場合によったら帰ってくるかもしれないっていうようなことをほのめかしていたら、最悪よっ!』
『……』
『何も言わないってことは図星のようね……』 『それでも、ここを離れて、ここの良さがわかってくれたら、また帰って来てくれるかもしれないじゃないですか……』もう望んでいるわけでもないのに、そんな反論が口をついてしまった。 『馬鹿、本当に救いようがないわね、そんなことを思いながら死ぬまで待つつもりなのっ?この前の話を聞いていなかったの? 』 亜紀もここは緩めない。
しばらく沈黙があったが 『い、いや、わかってはいたけど…… でも、もしかしたらって…… 』 声がフェードアウトする。 『私は、迷わせるような手紙を残して金曜日に出ていくって思っていたわよ』 彼女がはっきりと言い切った。 『そ、そうなんですか…… 』 『そりゃそうよ、自分たちを受け入れてくれたあなたの気持ちを理解して、その気持ちに魅かれるような女性だったら、東京で元カレに会ったりはしない。あの女はその時点で、頭ではわかっていても欲望に負けたのよ。あの女が、元カレのことを抜きにして今回のような悩みを持つんだったら、それはそれで救われるチャンスがあっていいのかもしれない。でもね、あの男が背中を押した以上、あの男のところに帰るわよ』 これほど説得力のある説明はなかった。
『そ、そうかもしれないですね……』 頭ではわかっていても未だに心がついてこない友樹はもう何を求めているのかさえ分からなくなってしまった。
『なにしょんぼりしてんのよ、面白くなるのはここからよ』彼女はこの暗い流れを瞬時に変えてしまった。彼女の笑顔が見えるようだった。 『お、面白くなるんですか?』 『そりゃそうでしょ、その男は外見は素敵なんでしょ…… でもね、そいつはね、一度は逃げたのよ。どんなにきれいごとを言ってもそれが本質なのよ。彼女は彼の言葉の端々にそれを感じることになる。昔はわからなかったことでも、あんたと暮らした後だから、いろいろなことが分かり始めるし、いろいろなことを不満に思うよ。そしたらさ、そんなに長くは続かないよ』 『そ、そんなものなんですか……』思いもよらない話に彼は驚くばかりだった。 『そんなものよ、だけどその時に、あんたのところに様子伺いに来るかもしれないね』 『ほ、本当ですか……!』 『馬鹿、喜ぶんじゃないわよっ。その時に喜んで受け入れたりしたら、あんたは彼女の上をいく馬鹿よ』 『ど、どうしてですか?』 『ふうっー…… もう疲れるわね、そうなるとね、また今回と同じことを繰り返すことになる。それを心配しているから手紙を読んで欲しいのよ』 『わ、わかりました』
友樹が手紙を読むと
『なるほどね、セーフティーネットにされたね。その元カレの方に魅かれてはいるけど信じ切っていないんだよ。だから、何かあって、もし友樹君の所に帰って来たとしても、違和感のない手紙を書いたんだよ。帰ってくれば、あんたはいつでも受け入れてくれるはず、彼女はそう思ってんだよ。その手紙を読んで、それがわからない?』
『……』
『普通だったら、お世話になったあんたの気持ちを引っ張るようなことはしないでしょ、自分のことしか考えていないのよ。答えが出ていないわけないじゃん』
『確かにそうですね。亜紀さんの話を聞かなければ、俺は毎日、今日は帰ってくるかもしれないって思いながら帰宅して、一ヶ月、二ヶ月と過ごしていくんだろうなって思いました』 友樹が初めて微笑んだ。 『違うよ、あんただったら一年でも過ごすわよ』 『さすがにそこまでは……』 『まっ、いいじゃない、あとは、もし帰って来た時に心を乱されないように、笑顔で『付き合っている人がいるんだ、君のおかげで新しい一歩を踏み出したよ、ありがとう、お互いに幸せになろうね』って、はっきり言えば、物語の第一部はそこで完結よ』
『わ、わかりました。ありがとう』
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