話は戻るが……
そんな彼が税金の徴収にやって来た東京で高島亜由美を目にしたのであった。 彼は道路を挟んで公園のベンチに腰を下ろすと、コートのポケットに手を突っ込んだままふるえながら彼女を見つめていた。
三時過ぎ、 「高島さん……」彼はやっと店から出てきた彼女に声をかけた。 「えっ、あっ、有賀君?」彼女の微笑は昔と変わっていなかった。 「あの……」 「久しぶりね、確か、春日町の役場だったよね」 「少し話したいんだけど……」彼が真剣に見つめると 「ごめんなさい、これから別の仕事をして、母の病院へ寄って、おうちに帰るのは九時頃になるのよ」とっさに視線を避けた彼女が申し訳なさそうに答えた。 「わかった。待っている、どこで待てばいい?」 「えっ……」瞬時に折り返された質問に彼女は困惑したが、やむを得ず近くのファミレスの名を口にした。
午後 九時過ぎ、指定されたファミレスで待っていると、小走りに店に入ってきた彼女は、友樹を見つけると微笑んで片手を軽く振ったが、昔、遠目にそんな姿を何度も目にしていた彼は、変わらない彼女の笑顔がとてもうれしかった。
「久しぶりね」彼女が微笑むと 「どうしてあんなところで仕事なんかしてんの、松谷と結婚したんじゃないの?」すかさず友樹が尋ねた。 「えっ…… 」 「何かあったの?」
「母が倒れてしまって、半年前に別れたの」しばらく目を伏せた後、彼女はさみしそうに微笑んだ。 「お母さんが倒れたから別れたの?」友樹が鋭い眼差しを向けると 「ズバット来るのね」彼女は微笑んだつもりだったが、その表情はどこか引きつっていた。 「それって、お母さんが倒れたから松谷が逃げたっていうこと?」何故か語気が強くなってしまった。 「仕方ないよ、なにも重荷を背負い込むことないじゃん」 「愛ってそんなものなのか?」言葉は静かだが怒りがこもっていた。 「そんな【愛】だなんて…… 恥ずかしいこと、言わないでよ」彼女が困ったように言うと 「だけど、君と結婚するっていうことは、何があっても君を守るっていうことじゃないのか、あいつは自分が動けなくなったら、奥さんに見捨てられても仕方ないって思っているのか?」 彼は彼女を見つめたまま真剣に訴えかけた。
「有賀君、ありがとう。でも、なかなかそんなにきれいにはいかないよ。だからあの人を恨んではいないし、今の人生を……」その視線に耐えかねた彼女は、しばらく目を伏せた。再び顔を上げて思いを語ろうとしたが
「ふざけるなよ、そんなことだったら、俺が立候補するよ!」 脳裏を亜紀の笑顔がよぎったが、かつて願い続けた思いが突然頭をもたげてきた彼の言葉には力強さがあった。
「ええっー、何を言ってるのよ。同情はよして、みじめになるから……」彼女が俯きがちに話す。 「なんで同情なんだよ。俺は君のお母さんも含めて、君と一緒になりたい」友樹は懸命に訴えるが 「そんな、同情してるのよ」彼女はなぜかよそよそしい。 「違う! 高一の時からずっーと好きだった。だけど松谷と付き合っているのを知って諦めた。もう君たち二人の幸せそうな姿を見たくなかったから、家を出て父親の実家があった春日町に行ったんだ。だけど、君がフリーなんだったら、絶対に立候補する」 目を反らさない友樹に 「そんな…… 」高島は俯いてしまった。
しばらく沈黙があったが 「うちにおいでよ、家は古いけど大きくてしっかりしている。近所の年寄りは皆、訪問医療を受けている。家で君が看てあげればいいじゃないか。結婚しよう」ついに友樹が思い切った。 「ちょっと、待ってよ」あまりの勢いに高島は息をのんだが 「俺みたいに目立たない何のとりえもない人間なんて、君のタイプじゃないのかもしれないけど……」様子の変わった友樹に 「ううーうん、そんなことじゃないの、あなたが責任感の強い誠実な人だってことはよく知っている。高一の時には魅かれていたこともある」ふと女のずるさが出てしまった。 「ええっー」友樹は驚いたが 「だけど、松谷君に告られてよろめいてしまった。有頂天になって…… 罰が当たったのよ」 でも、これは上辺(うわべ)に魅せられた女の本音でもあった。 「そんなこと言うなよ、お母さんの介護がなんで罰なんだよ。俺なんか何も知らない間に両親が死んでしまって…… 看てあげることができるだけ幸せだろ、罰だなんて言うなよ」 彼女は間髪入れずに突き刺してくる言葉に、ここまで張りつめていたものがよろめいてしまった。
「有賀くん、貴方はすごいね…… 高一の時、誰も来てくれなかったのに文化祭の片づけに来てくれたのはあなただけだった。皆、知らん顔していたのに、あなたはいつも足の悪い高間君のことを気遣っていた…… ちゃんと見えていたはずだったのに…… うわべの華やかさに負けてしまった。だけどこの重荷をあなたに背負わせるわけにはいかないよ」 彼女の人としての最後の思いが、揺らぐ思いを懸命にとどめようとしたが 「何言ってんだ、俺は諦めない、絶対に諦めない」 友樹の強い言葉に、彼女は目を閉じて俯いてしまった。
翌日、話を聞いた十二歳年上の兄、一樹は大反対したが、駆け付けた四歳上の姉、麻耶が 「お兄ちゃん、何を言ってんのよ。この子がどれほど高島さんのことを好きだったのか知らないでしょ。私はぐじぐじしているこの子を何度叱ったことか、諦めていたのに千載一遇のチャンスが来たのよ。この子はね、寝たきりの母親なんて関係ない、それくらい高島さんを思っているのよ。この子はね、これから何があってもあの高島さんとだったら乗り越えていけるって思っているのよ」懸命に語ると、兄は妹のあまりの迫力に押されてしまった。 しかし、兄の妻である義姉、彩香は、何かが引っかかっていた。 (そんな都合のいい結婚があっていいの、その女性は本当に友樹君を好きなの…… 苦しい生活の中で、迷っただけじゃないの……)
「友樹君、私はこの人の言っていることもわかるのよ」彩香が夫を見つめた後、話し始めた。 「お義姉さん……」 「だけどね、そこまで思っているんだから、一緒に暮らして面倒を見てあげればいい、だけど籍を入れるのは、子供ができるまで待ちなさい」 「義姉さん、でも……」 「今頃の時代だから、バツイチになってもかまわないっていう思いがあるのかもしれない。だけど、戸籍を汚して欲しくない。あなたのご両親に顔向けができない」 「だけど……」 「友樹、お義姉さんの言う通りよ……」そこまで懸命に弟を援護していた麻耶も彩香の言葉にはっとした。
両親が早くに亡くなってしまったこの家は、ここまで兄夫婦によって支えられてきたが、頼りない兄と違って、この義姉は冷静で、多くを語らないが、いつも物事の神髄(しんずい)を見ている。 そのことを無意識のうちに納得している二人は、この義姉の言葉に従わないわけにはいかなかった。
「その女性には、義姉さんが上手に話してあげるから…… 」友樹にとってこの人は、義姉でありながら、母親に近い存在でもあった。その人の言葉に彼が微笑むと 「お前ら、結局は彩香の話しか耳に入らねーのか、もう少し、この俺に敬意を払ったらどうなんだ……」一樹が眉間にしわを寄せて冗談のように話すと 「まっ、お義姉さんと結婚したことについては敬意を払っているわよ」麻耶が微笑む。 「かっー、もういいよ」
皆の笑いの中でこの話は決着してしまった。
その翌日、友樹は有友亜紀にメールを入れた。 『今までありがとう。近いうちに結婚するから、もう君の呼び出しには応じられない。ごめん。でも、楽しかった。君も早くいい人を見つけてください』
それを読んだ亜紀は 「ええっー、あいつ、そんな人がいたのっ! びっくりだわっ、何なのよ。私の方がお似合だと思うのに、どんな女か知らないけど…… お祖父ちゃん、喜んでいたのに…… かっー、まっ、仕方ないか」 独り言をつぶやいたが、一抹の寂しさはどうすることもできなかった。
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