翌朝、友樹が目覚めると、亜紀がすでに朝食の用意をしていた。
「あっ、思い出した! ペンネーム教えて」キッチンのテーブルに着いた友樹が尋ねると 「私の携帯、隠した?」亜紀が振り向きもしないではぐらかした。 「ええっー、昨日、何度かけてもつながらなかったよ」 「あっ、ホテルに忘れて来たのか……」 「……」 (ペンネームは……)
「友樹君さー、昨日、何で五人だって思ったの?」 「えっ…… 」彼は返事に窮したが 「もしかして、噂に惑わされた?」亜紀が続けると 「ええっ、知ってるの?」彼女は噂のことは知らないはずと思っていた彼は目を丸くした。 「ははっはは、知らなかったんだ」 「いや、知ってるよ」 「そうじゃなくて、噂の出どころよ」亜紀が振り向いた。 「ええっ、誰かが噂を流したの?」彼は驚いてばかりだった。 「うん、滝宮の私設秘書らしいよ」 「ええっ、衆議員の滝宮?」 「うん、町の人達が何人か、親父のところに知らせてくれたらしいよ」 「じゃ、どうして否定しないの?」 「だってさ、町の人は誰も信じていないし、あいつは、自分の愚かさを露呈しているだけでしょ、取り合うのもばからしいよ」 「なるほど……」
「あなたにその噂を教えてくれたのって、米田でしょ」 「うん……」 「そうかー、君は私よりも米田を信じたのか……」彼女はフライパンに目を向けたまま独り言のように呟いた。 「そ、そんなことはない、絶対にないです」慌てた友樹は立ち上がると語気を強めた。 「じゃあ、どうして五人だって思ったのよ…… 」 「それは……」
「あっ、あんた、遠慮して五人って言ったんじゃないでしょうね」彼女の推測は鋭い。 「い、いや、そんなことは……」彼が俯くと 「かあっー、思ってたんだ。あなたね、私と付き合っていて、何も思わなかったの? そんな女だと思ったの……」決して怒ってはいなかったが 「い、いや、おかしいって思った。初めてあって、話した時に、噂のような人じゃないって思ったんだけど、だけど…… なんか、突然、ベッドに引っ張り込まれて…… すごく慣れているっていうか、経験豊かっていうか…… 」友樹が慌てると 「はあー、私が強姦したみたいに言わないでよ、友樹君だって鼻の下伸ばして、幸せそうだったでしょ、左手は活躍していなかったけど…… それにねー、物語の中で何人もの女性を演じて、何人もの男性を相手にしてきて、あの時だって、物語の中のシナリオに沿っただけよ」最後は少し無機になっていた。 「はっ、はあー! えっ、左手?」 彼ははっとして開いた左手を見つめたが意味が分からない。
「自分の目と感性って、すごく大事なのよ。まっ、私の美貌に免じて許してあげるけど、噂には惑わされないことね」亜紀が振り向くと 「うん、わかった」友樹はその笑顔にほっとした。 「私ってなかなかいいこというでしょ」彼はこの会話の中になぜか亜紀のやさしさを感じた。
「ねえ、ペンネームは?」 「だめ、結婚してくれるんだったら教えてあげるけどね…… 」つい、今までのように反応してしまった亜紀だったが 「えっ……」友樹が驚くと 「あっ、結婚するのか…… 」はっと我に返った彼女が呟いた。 「そうだよ、教えてよ」
「うーん、やっぱり駄目か…… 知りたいのか…… 」 「うん、知りたい」 「でもね、私の小説を読んだらもう結婚したくなくなるかもよ、それは私の秘密でもあるのよ」 「ど、どういうことですか?」
彼女はバックの中からプリントアウトした物語を取り出すと、 「こういうことなのよ……」そう言いながらそれを彼に差し出した。
「作者は、マヨネーズ?」友樹は驚いたが 「まっ、読んでみて」
途中まで読んだ友樹は 「こ、これってエロ…… ポ、ポルノ小説? 官能小説なんですか……?」目を見開いて顔を上げた。
「ははは、はっはっ、感応した? 」目のあった彼女はとても愉快そうだった。 「なな、何ですか……」 「そこまで驚かなくてもいいっしょ」 「い、いや、驚きますよ」彼女から目を離さなかった友樹は、再び原稿に目を落とした。
「結婚、止(や)めてもいいよ」さらっと流す彼女に 「ど、どうして止めるんですか……!」瞬時に顔を上げた友樹の語気が強くなった。 「いいの? 奥様は官能小説家よ、人によってはエロ小説って言う人もいるわよ」彼女が微笑むと 「そ、そんなことは全然かまわないけど、でも、これには驚きました」 「まっ、公にはしないからそこは安心して」 「えっ、別に知られてもいいですけどね」 「それは駄目よ、親父が倒れてしまうわよ。それにあなたの兄弟だっているんだから……」 「はあ…… だけど、少ししか読んでいないけど、なんかすごい光景が…… なんか目の前でベッドシーンが……」彼は呆然(ぼうぜん)としていた。 「はははっはは、そうでしょ、男女の交わりって、神秘なのよ。まっ、エロいととらえるか芸術ととらえるか、そこは人それぞれだけど…… それを動画で見て堪能するのは簡単でしょ……」 「そりゃ、文字より動画の方がわかりやすいですよね」我に返った友樹が微笑む。
「そうなんだけどさ、だけど動画で見ればそれ以上のものは生まれてこないでしょ。 でもね、文字の世界は違うのよ、頭の中で上映するんだから、実際以上のものが想像できるし、生まれてくる」 そういう彼女を見ていて、友樹は、もう一人の亜紀を見ているように感じた。
「なんか、ただエロイのとは違うみたいですね」 「例えば目の大きい女性が…… って書けば、自分の好きなタイプの顔を思い浮かべるでしょ、だけど動画だと演じている女性の顔を変えるわけにはいかないでしょ」亜紀がますます流ちょうに語り始める。 「それはそうですね、でも文字では表現に限界があるでしょ。動画には及ばないと思うんだけどなー」彼はふと気になったことを言葉にしたのだが 「ふふふっふふふ、有賀友樹君、そこが、違うのよ。そこを文字で描き切るのよ。マヨネーズの物語はそれができているから、読んでくれるのよ。だから絶対に妥協はしないし、とことん描き切らないと完結にはしない」亜紀の信念みたいなものを感じて 「な、なんか、尊敬します。言っていることっていうか、目指しているものがわかるような気がします」彼は完全に彼女の世界に引き込まれてしまった。
「まっ、私に言わせれば、芸術ね、文芸なのよ」 「なんか、すごい! でも、俺は動画の方がいいかも…… 」友樹が眉をひそめると 「ええ、主演するのが一番でしょ」亜紀が笑ったが 「な、なんてこと言うんですか、ただ、文字よりも見る方が……」 「いいわよ、これからも小説家でいていいのなら…… そんなこと、どうでもいいわよ」 亜紀の安堵が伝わってくる。
「と、ところで、ペンネームのマヨネーズには何か意味があるんですか?」 「そりゃ、友樹君、男と女なんだから、神秘的だし、文芸なんだけど、それでもやっぱりドロドロしているでしょ」亜紀が微笑むと 「ははっは、ははっ、そういうことか、それに美味いし」友樹も笑顔で応えた。
笑いの余韻が残る中 「それでね、実は今日、出版社に呼ばれていてさ、編集長が、ぜひ挨拶したいって…… 」 「編集長に会ったことないの?」 「うん…… なにせマヨネーズはベールに包まれているからね、今までは担当者の木村洋子っていう、大学時代の親友なんだけどね、この洋子としか接触していないのよ」 「ふーん……」 「だけど何かあった時に、私を知っているのが洋子ただ一人っていうのは、会社としても問題になるからって、無理言われちゃってさ…… 」 「秘密は守ってくれるの?」 「もちろんよ、それでね、一緒に行かない?」 「ええっ、東京に? これから行くの?」 「うん、洋子もぜひ会いたいって…… 五時の約束だから、楽に行けるよ」 「わ、わかった」
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