そして日曜日の夜、家に帰った彼はうれしくてうきうきしていたが、何かが引っかかっていた。 それでも、お湯につかった彼は (結婚したらどこに住むんだ? どこかマンションがいいなー、あっ、町長にあいさつに行かなくっちゃ…… ううっー、なんか行きにくいなー) そんなことを考えながら、「ふうっー」と大きく息を吐いた瞬間、 「あっ、 えっ…… あっ、ペンネーム!」 突然思い出した彼は、慌てて浴槽の中で立ち上がったが、 (いや、待て、会った時の方がいい)
一度は気持ちを抑えたのだが、風呂から出て、ベッドに腰を下ろすと、しばらく考えていた友樹は、なぜかもやもやして (くそー、秘密って何なんだ……! 子どもがいるとか? まさか、本当は男なんだ、とか…… そんな馬鹿な…… ううっー、秘密ってなんだ! ) 気になってどうしようもなくなった彼は、無意識のうちにスマホを手に取ったが 「いや、電話だとはぐらかされるかもしれない、やはり会った時にしよう」 懸命に自らに言い聞かせ、悶々とした思いのまま眠りについた。
そして、金曜日の夜、彼は町役場からホテルへ直行したが、フロントの女性に声をかけられた。 「有賀様」 「は、はい」驚いて振り向くと
「有友様は先ほどお出かけになられましたが…… 」と言われ 「ええっ、あ、ありがとうございます」 彼はお礼を言って頭を下げたものの (なんで名前を知ってんだ)と不思議に思った。
慌てて携帯を取り出した彼は、亜紀に電話を入れたが繋がらない。 「何かあったのか…… 」彼は突然不安に襲われたがどうすることもできず、三十分ほどロビーで待っていたが、そのうちには止む無く自宅へと向かった。
自宅へ着くと、部屋の電気がついていることに驚いたが、なんとなく人がいるような気配に慌てて、玄関を開けたが鍵はかかっていない。 玄関には女性もののパンプスと、スリッパが一足並んでいた。 「誰かいるの?」彼は慌てて声を張り上げたが 「おそいっー!」奥から亜紀の声が響いた。 彼は驚いたが、それでもほっとして玄関に座り込んでしまった。
亜紀の声を聞くまでの彼の不安は、亜由美の時のそれとは全く違っていた。 今までこんな思いで、誰かを心配したことはなかった。 ほんの一時間ほど、連絡が取れないだけで、こんなに心配することがあるのか…… そう思った時、彼は自分がどれほど亜紀のことを愛しているのか、思い知らされてしまった。
ふっと、我に返った彼が居間に入ると隣家、中村のお爺さんと亜紀が向かい合ってお茶を飲んでいた。 「おい、友樹、新婚のくせに遅えじゃねーか」中村の爺さんがからかうと 「えっ、ええっ!」驚いた彼が亜紀を見つめたが、彼女はウインクしてきただけで、彼にはその意味が全く分からなかった。 「ど、どういうこと? 話したの?」彼が小声で尋ねたが 「聞こえてるぞ、なんでわしに隠すんだ」爺さんが少し機嫌を損ねた。
「まあまあ、爺ちゃん、感謝してるよ。だから一番に話したのよ。この人は何も知らないんだから」亜紀が懸命に繕うと 「えっ、そうなのか……」中村も驚いた。
友樹は何が何だか全く分からなかったが、中村の話によると……
彼が春日町役場に勤めることが決まった時に、中村が町長を訪ね、「娘と友樹を一緒にさせろ」と迫ったらしい。 町長は東京で小説家として成功していい暮らしをしている娘が、こんな田舎に帰って来るとは思えないと言って断ったのだが、中村は引かず、中村に頭の上がらない町長は困り果てていたらしい。 しかしある日、理由はわからないのだが、なぜか町長が突然亜紀を呼び戻したらしく、それを知った中村が「年寄りの言うことが聞けねーのか」と再び迫ったらしい。 困惑した町長は、止む無く、友樹に一度だけ娘に会ってくれないかと話したのだが、それが二人が初めて会うきっかけとなったのだった。
「へえー、じゃあ、お爺さんのおかげなんだ。感謝します」すべてを中村から聞いた友樹は納得して微笑んだが、その傍らで亜紀はただにこにこしているだけだった。
「そうだろ? あのくそみたいな女が来た時にゃ、おらー、腰が抜けそうになったぜ」 彼が笑うと 「す、すいません……」友樹は気まずそうに俯いた。 「まっ、これでいいよ。亜紀ちゃんの両親も、祖父ちゃん、祖母ちゃんも草葉の影で喜んでいるよ」 「ありがとう」亜紀の瞼には涙が浮かんでいた。
「えっ、ええっー、な、何なんですか、ええっー、町長は…… 」突然声を張り上げた友樹に 「えっ、知らねーのか?」中村は驚いたが、亜紀は首を傾げた。
亜紀の実の両親は、彼女が一歳の時に交通事故で亡くなってしまい、祖父である当時の町長であった有友伊三郎夫妻に育てられたのだが、彼女が五歳の時に、崩れかけた山の視察に出向いた伊三郎は、突然の土石流に襲われ命を落としてしまった。 その頃、友樹の祖父である友助が、子供のできない秘書室長夫妻に、有友の家に入り、町長の後を継ぐように説得していたのだが、なかなか快諾が得られないでいた。 しかし、町長が災害で亡くなるという緊急事態に、秘書室長夫妻は、世話になってきた町長の妻と、彼がいつくしんできた孫のため、有友の家に夫婦養子として入る決心をし、そのまま、選挙に立候補し、町長になったのであった。その一連の段取りをつけたのが有賀友助、友樹の祖父であった。 その二年後、前町長の妻、亜紀の実の祖母が他界し、亜紀は血の繋がっていない現町長夫妻に育てられることとなった。
話を聞いた、友樹は 「ごめん…… 何も知らなくて、ごめん」悲しそうに亜紀に謝ったが 「何謝ってんのよ、そんなしんみりしないでよ。当の本人は今の両親から大事にされて大きくなったんだから、何も悲しいことなんてなかったわよ。どこに行っても、亜紀ちゃん、亜紀ちゃんて、町の人からも大事にされて…… おやつを買いに行ったってお金なんて払ったことないんだから……」 「えっ、ええっ、万引きしてたの……」 「ばかね、なんでそんなことになるのよ。店でね、お菓子を買ってお金を払おうとすると、いいよ、いいよ、ってお金取ってくれないのよ」 「町のみんながな、伊三郎の孫を心配してたんだよ」中村の瞼に涙が光る。 「すごいですね…… 」友樹も目頭が熱くなるのをどうすることもできなかった。
しばらく沈黙の時が流れた。
「ところで崩れたところって、どこなんですか?」何気なく尋ねた友樹だったが 「はあっー、お前、知らねーのか?」中村の驚きは尋常ではなかったが、亜紀もこれには驚いた。
二人に見つめられ 「ど、どうしたんですか?」友樹は慌てた。 「お前、まさか、崩れたところ、友助さんが治したのも知らねーのか?」 「ちょ、ちょっと、待ってください。何ですか、それ?」
前町長が亡くなった山は、もともとは保安林で、友助が所有者であった。一見、何の問題もなさそうなところであったが、地形を知り尽くしている友助は、この場所の危険性をいつも訴えていた。彼を信頼していた当時の町長は懸命に国に防災を訴え、国会議員の滝宮も「近いうちに予算が付くから」と言っていたため、一度は安心したものの、翌年も予算が付かず、二人は困惑していた。 たまりかねた友助が裏から手を回して調べてみると、滝宮自身も、「あんなところに予算をつけるのだったら、これを先にやってくれ」と言って別の町の防災を提案していたらしく、それを知った友助は 「あんな奴はあてにできない、俺が何とかする」と言って、個人で調査を依頼したのだが、災害が起きたのはその直後であった。
町長が亡くなったことを知った滝宮は現場にやって来て、 「国が悪いんだ、私が懸命に予算措置を促したのだが…… でも、すぐに予算をつけるから…… 」辛そうに言い訳をしたのだが、 「お前が伊三郎を殺したんだ、このくそ野郎!」腹の虫の収まらない友助は滝宮に殴りかかろうとしたのが、周囲の者が懸命に彼を止めたらしく、事件になることはなかった。 しかし友助から真実を聞いた町の者たちは、その時から誰も民自党を相手にはしなくなったらしい。 それでも、翌年は予算が付くだろうと思っていた友助だったが、その年は全国的に災害が多発し、優先順位はかなり低いから二〜三年待って欲しいと滝宮の秘書から連絡を受けた友助は、「ふざけるなっ」と怒鳴りつけて電話を切ると、再度調査を指示した。
彼はその工事費をねん出するため、田畑、山林、宅地など、自宅以外をすべて処分し、貯金もはたき、当時二億円をかき集めたのだった。 地区の田畑、山林はほとんど友助の所有だったが、地区の者たちは彼の好意のもと農業や林業を続けている者が多かった。 そんな者達は、友助の思いを知って、銀行から借り入れをするなどして、自らが借りている田畑、山林をそれぞれが買い取った。 また、彼が所有していたアパートや借家は、地元不動産業が時価で引き取り、彼は血のにじむような思いで、工事費をねん出したのだった。
「そんなことがあったのですか……」話を聞いた友樹は言葉が出なかった。 「町の誰もが知っていることよ」亜紀が優しくささやくと、彼女を見つめた友樹の瞼に涙があふれた。 「祖父ちゃんて、すごい人だったんだ」 「そりゃそうよ、だからよ、友助さんの孫が帰って来るって聞いた時にゃ、皆がどんなに喜んだことか…… 特に年寄りのいる家じゃ親切にしてもらっただろ」 確かにその通りだった。 どこの家に行っても玄関先で話をするようなことはなかった。必ず茶菓子が出てきた。昼時だと、必ず昼飯を食わされた。それも結構強引だった。何かミスがあっても、誰もが笑って許してくれた。 そんな町で生活しながら、彼はのどかだなー、田舎の人っていい人ばかりだと思っていた。 でも、考えてみれば、別の部署では怒鳴りつけられている職員もいたが、自分にはそんな経験はない。 「祖父ちゃんのおかげなのか……」彼は初めて祖父の偉業を知ってうれしくなった。
その夜、中村のお祖母さんが用意してくれた食事をとりながら 「友樹君、ここいいよ、めっちゃいい、結婚したらここに住むよ」 「ええっ、ここに住むのっ! 」彼が驚くと 「ええっ、うちの実家の方がいい?」 「い、いや…… でもどこか、ちょっとしゃれたマンションとか…… 」 「マンションなんて春日町にはないでしょ」 「まっ、でも、ここは……」 「ここがいい、絶対ここがいい」亜紀の脳裏にはこの家を舞台にした物語がその形を整えつつあった。
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