そして翌日の月曜日、友樹は秘書室の米田から会議室に呼び出された。 友樹はとにかく彼が苦手で、亜由美と別れた後だけに何か言ってくるかもしれないと直感的に思ったが応じないわけにはいかなかった。
「おい、別れたらしいけど、本当なのか?」米田が睨みつけてくる。 「いや、別れたっていうか、もともと結婚もしていなかったんで…… 」 「はあー、籍を入れていなかったことくらい知っているよ。だけど、また町長の娘にちょっかい出すんじゃないだろうな」かなり威圧的である。 「そんな……」 予想どおり、険悪な雰囲気で迫られて友樹はその対応に苦慮していた。
「俺は将来、この町の町長になる人間なんだよ。衆議院議員の滝宮さんから確約されているんだよ」彼の口調が諭すような感じに変わって来た。 「そ、それはすごいですね」 「町長も娘と俺の縁談を考えてんだよ。お前も以前は頻繁に会っていたみたいだけど、彼女が高卒のお前なんか本気で相手にすることはないんだよ。変な噂が出たら困るんだ。二度と近づくじゃねーぞ」最後の一言だけは語気が強かった。 「は、はい……」友樹はとりあえず返事はしたものの (そういうことか、だけどプロポーズを受けてくれれば問題はないだろっ、でもなんかおかしいな)不可解な思いを持った。
そんなことがあっても、その週末の金曜日、仕事が終わる直前に 『今日から二泊で温泉に出かけるから、午後六時にホテル前に集合、着替えを忘れないように! 君に拒絶権はない』と亜紀からメールを受けた友樹は、 「よしっ」小さな声でガッツポーズをすると大急ぎで帰宅した後、準備を整えホテルに向かった。
午後六時十分前だったが、亜紀が車に乗り込むと 「温泉って、どこの温泉?」友樹がすぐに尋ねた。 「峡谷温泉」 「ええっ、二時間はかかるよ」 「うん、夕食は八時半って言っているから、それまで我慢してね」 「わ、わかった」 「亜由美さんは何も言ってこない?」 「うん、今のところは……」 「そう? 私の物語では一週間で電話してくる予定だったんだけどねー」亜紀は首を傾げたが 「もう、電話なんてしてこないよ、松谷とうまくやっているんだよ」友樹は気にもしていなかった。 「ふふふ、ふふ、有賀友樹君、君は甘い」 「ええっー、そうかなー、もうどうでもいいんだけど……」 亜紀の突然の口調変化に、彼は一瞬驚いたが、彼自身、思いは完全に亜紀に向いていて、彼女以外の女性と結婚なんてとてもあり得ないと思っていたので、もう亜由美のことなどは眼中にもなく、彼女のことなどは話したくもなかった。
しかし、 「まっ、物語はここからがクライマックスなのよ」楽しそうに亜紀が呟くと 「ふうっー、どうしても、何か問題を起こしたいんだね」友樹は大きなため息をついた後、苦笑いをした。 「そうねー」 「だけどさー、何か楽しんでいるように思うんだけど……」 「そりゃそうよ、現実に起きていることなんだから、こんな場面は滅多にないわよ」 「いやー、その辺がよくわかんないよ」 「まっ、それは売れっ子作家だからね」 「だから、ペンネームを教えてよ」 「だめ、結婚してくれたら教えてあげるけどね」 「何だよー、結婚申し込んだら駄目って言ったくせに」 「えっ、そんなことがあったっけ……」 「もう、いい加減にしてくださいよ」 「まあ、いいじゃないの、物語の結末はもう少し待ちましょうよ」
テンポよく会話が続いたあと、しばらく沈黙があったが 「ところでさー、町長が秘書の米田さんと君の縁談を考えているって、知ってる?」友樹が米田の話を切り出すと 「はあっー! 」今までにない驚き様だったが、相当に怒りがこもっていて 「ど、どうしたの……」その声に驚いた友樹は慌てた。 「誰から聞いたのよっ?」 「えっ、米田さん……」 「あいつ、そこまでくそなのっ」珍しく亜紀が眉間にしわを寄せた。 「やっぱり…… 嘘なの?」 「当たり前っしょ。以前にね、何度か公用車で親父を送って来たことがあってさ、会ったことがあるんだけど、にやにやして見つめてくるから気持ち悪くて、親父に『あいつは家に来させないで』って言ったのよ」 「そ、そうだったの」 「まっ、その頃から私はホテルにこもったから、顔を合わすことは無くなったけど、いつだったかなー…… なんか親父に私と付き合いたいって言ったらしいよ」彼女が眉をひそめると 「ええっー!」友樹は目を見開いた。 「親父はすぐに断ったらしいけど…… 」 「それでかー……」 「何かあったの?」 「うん…… 」
友樹がこれまでの状況を説明すると
「信じらんないけど、そんな奴がいるんだねー、でもあいつ、この前、町長交際費を勝手に使って衆議院議員の滝宮を接待していたみたいで、なんか問題になってるよ」 「ええっー」 「二日前、久しぶりに家に帰ったら、秘書室長が青い顔して親父と話してたよ」 「ど、どうなるんですか?」 「知らないわよ。あんたの方が詳しいでしょ」 「俺もわかんないですけど……」 「もういいじゃない、本気で取り合わないことよ」 「うん……」
そして八時過ぎに旅館に着くと亜紀が受付で、有賀友樹、亜紀、夫婦と宿帳に記載したのを見て友樹は驚いたが 「優しそうなご主人様ですね」と、女将に言われると 「そうなんですよ、それだけが取り柄なんです」と亜紀が微笑んだのを見て、彼はなぜかうれしくて仕方なかった。
部屋に入って着替えるとすぐに食事が運び込まれてきたが、目を見張るようなごちそうに友樹は懐が心配になってきた。
「旅館の費用の半分は俺が払うから……」彼がぽつりと呟くように言うと 「いいわよ、今日は友樹君の離婚祝いにしてあげる」 「り、離婚って言われても、結婚もしていないのに」 「まあ、いいじゃないのっ、小さいことは気にしないことよ」 「いや、全然小さくないよっ、自分のは……」思いを語ろうとした彼だったが 「友樹君ね……」突然遮られてしまった。 「君のことを書いた物語がすでに三冊、電子書籍化されているのよ。三冊目はまだひと月にもならないけど、とにかくその三冊の売り上げだけでも、先月分は、私のもとに三十万円入って来たのよ。まだまだ売れるわよ。七年前の処女作だって、売れ続けているんだから…… その三冊の利益の半分は君にあげたいくらいなのよ」彼女が続けると 「し、信じられない……」友樹は目を丸くした。
「それにね、君は私に結婚を申し込んだけど、生活はどんなふうに考えていたの?」 亜紀が真剣な眼差しを向けると 「えっ…… それは……」彼は言葉に困ったが 「君の給料は月に三十万円くらいでしょ」すぐに彼女が話し始めた。 「うん……」 「私、先月は二百四十万円なのよ」 「……」 「君はさー、結婚した後、君の三十万円だけで生活して欲しいって思っているでしょ」 「うん……」 「私のお金は自分には関係ないって思っているでしょ」 「うん……」 「だけどね、そこはわかって欲しいのよ。結婚した後も、私が物語を書き続けるとしたら、あなたには相当な迷惑をかけることになるのよ」 「迷惑?」 「そう、書き始めるとね、何もできなくなるのよ。あなたがお腹を空かせて帰って来ても、夕食はできていないかもしれない。朝、出かける時だって、眠っているかもしれない」 亜紀が真剣に友樹を見つめる。
「そんなことは、なんでもないよ」 「だけどね、突然、どこかの景色が見たくなって、二〜三日、どこかへ行ってしまうかもしれないし、一緒に行って欲しいって言うかもしれない。予定があるのに、突然キャンセルすることになるかもしれない」 「だ、だけど、夫婦なんだから、一緒に力を合わせればいいんじゃないの?」 「そう、その通りだと思う。私が物語を書き続けることを納得したうえで結婚してくれるんだったら、そうあって欲しいのよ」 「だったら……」 「だけどね、だからこそ、私が得た収入は夫婦のものなのよ、そのことを理解してくれる男じゃないと結婚なんてできないわよ」亜紀の大きな眼差しが懸命に訴えてくると 「……」友樹は唇を噛み締めて目を伏せた。
「それにね、正直に言うけど、お金にはあまり興味がないの……」 「ええっー」 「物語を書くことができればそれでいいのよ」 「小説家って、不思議ですね」 「まっ、私には秘密もあるしね」 「はあー」友樹が大きなため息をついた。
「例えばね、明日だって、私は一日中、物語を書いていると思うの、あなたはその間一人で時間を過ごすことになるのよ。女将さんに『奥さんはどうされたんですか?』って聞かれたらなんて答えるの?」 「えっ、妻は小説家なんですって……」 「それで、あなたは大丈夫?」 「うん、全然問題はないよ」
亜紀にとって旅館での夜と友樹は、なぜか新鮮で、また、何か書けそうだと思っていた。
そして翌朝、大広間で朝食を終えた二人が、ロビーでコーヒーを飲んでいると 「亜紀、亜紀じゃないのか?」一人の男が言い寄ってきた。 彼は、亜紀が大学時代、初めて夜を共にした大野(おおの)善(よし)臣(とみ)という男であった。
「うえっ」彼を一目見た彼女は戻しそうになったが、懸命にこらえ 「友樹君、悪いんだけど先に部屋に帰っていてくれる?」と眉をひそめると 「うん、わかった」彼女の気持ちを察した彼は、その男に軽く頭を下げるとその場を立ち去った。
「亜紀、久しぶり、元気そうだね」大野は彼女の前に座ると微笑んだが 「あのね、あなたの女じゃないんだから、呼び捨てにしないでよ」彼女が侮蔑の目を向ける。 「そんなこと、言うなよ。俺は、もう一度亜紀と付き合ってもいいと思っているんだ」 何故か上から目線の彼に 「はあーっ、私は思っていないわよ」彼女が横を向くと 「またまた、そんな心にもないこと…… あの時はさ、ちょっと迷ってしまっただけだよ。あの後も何人かと付き合ったんだけど、亜紀が一番だったよ」彼は笑顔を絶やさない。
「ふうっー、それで、今のお相手も男性なの?」 呆れ果てた亜紀が話を終わらそうとしたのだが、 「しっ、知っていたのか?」彼の驚きは尋常ではなかった。 「知っているわよ、友達と一緒にお腹抱えて、笑い転げたわよ」 「……」彼が俯いてしまうと 「あの後、誰かと付き合っているなんていう話は聞いたことないけど、まっ、男性と付き合っていたのなら、見た目には仲間か友達のように見えるよね」亜紀は傷口を突き刺した。 「お、俺にはそんな趣味はないよ……」彼の声がフェードアウトする。 「知ってるわよ、だけど、客観的に自分の評価を見直した方がいいんじゃないの?」 「……」馬鹿にされたことを感じた彼は、唇をかみしめて俯いてしまった。
しばらく沈黙があったが 「あっ、でも、こんなところに誰と来たの?」突然、亜紀が驚いたように尋ねると 「と、友達と来たんだ。き、君は? さっきの男は、仕事か何かなのか?」何故か彼は慌てていた。 「婚約者よ」彼女が優しく微笑むと 「ええっ、でも年下だろ?」 年下なんてやめろよ、と言わんばかりである。 「それがどうしたのよ」彼女が最後の侮蔑を向けると 「まっ、俺も女に不自由しているわけじゃないから……」思いがかなわないことを悟った彼は、なぜか虚勢を張ってしまった。 「あっ、そっ、頑張ってね」 亜紀は立ち上がると素早くその場を後にしたが、なぜかむかむかしていた。
部屋に戻った彼女は、友樹が何か聞いてくるだろうなと思っていたが、彼は、もし『誰なの?』って聞けば、必ず『嫉妬しているんだ』と言われると思い、絶対に聞かないと心に決めていた。
そして、十時、友樹は一人で散歩に出かけていたが、執筆に疲れた亜紀が「ふうっー」と息を吐いて、ふと窓から外に目を向けると、大野の横顔が目に入ってきた。駐車場に向かう二人の後姿は、女性の方が二倍近い身幅があって、亜紀は、( まっ、男でないことは確かね )と思って微笑んだ。
一方、絶対に聞かないと決心していた友樹だったが、昼食を食べ始めると 「朝の人は元カレ?」我慢できなくなってついに尋ねてしまった。 「まさかっ、やめてよ。友達の彼氏だったのよ、その友達は美女でね、大学内でも評判だったのよ」 自らの実話の主人公を友達にすり替えて話し始めた彼女は、何故か珍しく早口だった。
「うん……」 「その娘(こ)が、何を思ったのか、朝、ロビーで会ったあの屑男と付き合い始めてね、ロストバージン」 「ええっ、突然そこなの……」 「その娘(こ)はね、早く経験したいっていつも言ってたのよ。 まっ、悪い人間じゃなさそうだし、人畜無害な男だからって思い切ったらしい」 亜紀は当時の思いを説明したが 「ええっ、そんな単純に決めたの?」友樹は驚くばかりだった。
「なぜかわかんないけど、とにかく早く経験してみたかったらしいよ、何か理由はあったんだろうけどね」彼女が他人事のように続ける。 「ふーん、もっと大事にすればいいのに……」 「まっ、いろんな考え方があると思うけどね…… それで、あの男はね、その娘(こ)をものにしたことで、きっと勘違いしたのね」亜紀は淡々と話し続けた。 「な、なにを?」 「うん、いい女を手に入れたことで自分もいい男だと思ってしまったのね」 「ふーん、そんなものなの?」 「まっ、そんな男もいるのよ」 「それでどうなったの?」友樹は、亜紀の友達の話だということを完全に信じていた。
「いい女を捕まえたんだから、その愛を温めてみればよかったのに、別の美女に声かけられてよろめいてしまったのよ。 私の友達は、もともとそんなに思っていたわけでもないから、すぐに二人は別れたんだけど、その別の女性っていうのが、実は女装した男性で……」 「ぷっ」友樹が噴出してしまった。 「笑っちゃうよね。それで、今日の朝、また、付き合いたいって言うから、もう結婚してるよって……」 「ふうーっ、面白い人だね」友樹が微笑むと 「まっ、人畜無害だと思ったんだけど、その男は想像していた以上に馬鹿だったのね」 亜紀が眉をひそめた。
そして二晩続けて交わった二人は、日曜日の夜に亜紀が拠点にしているホテルに帰ってきたが、二人はそのまま眠りについてしまった。 翌朝、友樹が六時に目覚めると亜紀はすでにパソコンに向かっていた。 「おはよう」友樹が明るくあいさつすると 「おはよう、朝食はどうするの?」亜紀が振り向いて尋ねた。 「どこか、コンビニで……」 「そう? じゃ、気を付けてね」
友樹はそのまま仕事に出かけた。  
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