三月中旬、未だコートが手放せない東京都中央区のお昼時、有賀(ありが)友樹(ともき)は通りすがりの弁当屋で忙しく接客している女性の顔を見て、息が止まるのではないかと思うほど驚いた。 (た、高島じゃないのか…… 高島だっ、間違いない、高島亜由美だ……! どうして、こんなところにいるんだ……! ) かつて十年前、高校一年で同じクラスになった友樹は、高島亜由美に心を奪われてしまった。特段に美人というわけではなかったが、明るくておっとりとしたそのものの言い方、困った時のしぐさ、見つめれば見つめるほど、彼はその愛くるしさに魅かれていった。勇気のない彼には何もできなかったが、それでもそっと見ているだけで彼は幸せだった。 兄に言われるまま、進学校に進んだ彼にとっては、彼女を見ることだけが学校に通う唯一の楽しみだった。
しかし高校三年の春、そんな彼女が同級生の松谷裕也(まつたにゆうや)と付き合い始めた ことを知った彼は目の前が真っ暗になってしまった。 松谷はイケメンでファンも多く、父親はどこかの会社の社長で、金ももっている。出身は東京なのだが、なぜかここ静岡県丸々市の祖父母の家からこの高校に通っていた。
(かなうはずがない、仕方ない……) 何か努力をした訳ではない。彼女とどうにかなりたいと願っていたわけでもない。それでも友人たちに囲まれて微笑む彼女の笑顔を、時折、覗き見するだけで彼は幸せであった。 だが、たった一つのそのささやかな思いが絶たれ、それを知った日から、彼の心が弾むことはなかった。 その極め付きは夏休みに入った二日目のことであった。 兄の会社に忘れ物を届けるため、乗り込んだ路線バスに松谷と高島が乗り合わせていたのである。バスの中央から乗り込んで、後方側に目をやって楽しそうに話している二人を見た時、友樹ははっとして驚いたが、それでも目が合って軽く頭を下げた。しかし、二人は気にも留めずに笑顔で話し続けていた。 おそらく視界に入っただけで、彼を見たという自覚はなかったのだろうが、挨拶もしてくれない二人のその様が、友樹にはショックだった。 バスの前方側に進み、席に着くと静かに目を伏せた彼の耳に、聞きたくもないのに二人の笑い声が押し寄せてくる。 次のバス停で降りようとした二人だったが、 「あっ、有賀くん、こんにちは」ふと友樹に気づいた高島亜由美が明るく微笑んだ。 「……」友樹も静かに頭を下げたが、それでも(さっき、目が合ったのに……)と思ってしまった。 しかし、しばらくすると、彼女の崇拝者である彼の心に (そうか、何かに一生懸命になっている時は、目に入っても気が付かないもんな、楽しそうだったもんな……)そんな思いが浮かんだ。 だが、この日、友樹はもう楽しそうな二人を決して見たくはないと強く思ってしまった。
この頃、彼は東京の大学へ進学して、都会で生活してみたいという漠然とした思いを持っていたが、松谷と高島が東京の大学を目指していることを知った彼は、進学を諦め就職しようと心に決め、兄夫婦にそのことを打ち明けたのだが大反対にあってしまった。 親代わりの兄は、顔色を変えて激怒したのだが、友樹が春日町役場の名前を出した途端に、急に態度を変え 「わかった。まっ、あそこなら爺さんの家もそのまま残っているし、町長も良く知っているから電話してやる」とまで言い出し、かえって友樹の方が驚いてしまった。
そして卒業後、高島たちは東京の大学へ進んだが、友樹は家から二時間程離れた亡き父親の実家がある春日町役場への就職を決めた。 この春日町は人口三千人程度の小さな自治体ではあったが、平成大合併の荒波のなか、単独での行政運営を維持してきたところで、昔ながらの慣習が続く静かな町であった。 友樹の祖父、有賀友助は町の名士として名を遺した人で、すでに亡くなり、家は空き家になっていたが、その孫である彼は、快く地域の人々から迎えられ、十八歳で社会人としてスタートを切ったのであった。
そんな彼が二十歳になって、一月初め、町主催の成人式に出席した時のことであった。 招待者は友樹を入れて五十三人、四十二人の出席者のうち、三十人が大学生か専門学校生で、友樹の目に彼らはどことなく華やかで、輝いているように見えた。 高校時代の知り合いもいて、何人かの男女と話はしたが、すでに仕事をしている自分とは違って、幸せ色に輝いている彼らを身近で感じた時に友樹は初めて (何も就職しなくても、松谷たちとは離れた、どこか別の大学に進めばよかったんだ、なぜこんなところに来たんだろう) そんなことを思ったが、それでも二年間近くここで過ごしてきた彼に、もう道を変える勇樹はなかった。
これまで、同期の女性職員に誘われ、付き合っているのかどうかわからないような時間を過ごしたこともあったが、そのうちに彼女は離れて行ってしまった。 そんな彼が三年目の春を迎えると、彼女のいない彼のことを心配する上司やら、先輩、町議会議員、時には近所の老人たちまでが、次々と年頃の女性を紹介しようと彼のもとにやって来た。 友樹も人並みに彼女が欲しいという思いはあったので、そうした女性たちと会っては見るのだが、どの女性もピンとこなかった。 十八歳で働き始めた彼は、生真面目で堅実な人間であったため、女性との交際の先にはいくらか結婚を意識していたが、まだ遊びたいだけの同年代の女性たちからすれば結婚なんてとんでもないことで、話が合うはずもなかった。 決して自分から断ることはしなかったが、それでもそうした女性たちは面白みのない彼の前から静かに離れて行った。
そのうちには周囲の者たちも諦めてしまい、二十五歳を迎えた頃にはそんな話はほとんどなくなってしまっていたのだが、その誕生日の翌日、副町長から隣町の居酒屋へ呼び出された彼は、そこにいた女性を見て驚いた。
(えっ、高島かっ! ) 彼女の高校時代の面影がフラッシュバックしてしまった。 (いや、似ているけど違う…… でも、よく似ている)
「済まなかったね、急に呼び出して」副町長が詫びると 「いえ、とんでもないです」友樹はその女性に目で挨拶すると彼女の向かいに腰を下ろした。 「この娘は、私の姪なんだが、付き合っている人はいないっていうもんで、ふと君のことを思ってね」 「あ、ありがとうございます。有賀友樹と言います」彼が頭を下げると 「お忙しいのに突然に申しわけないです。佐藤明日香です」彼女が明るく微笑んだ。
副町長によると、 この女性は二十四歳、東京の女子大を出た後、商社に勤めていたが、ストーカー被害にあい、心配した両親が強引に呼び戻したらしい。一人娘のため、両親は養子に来てくれる人を捜しているらしく、そんなことから友樹が呼び出されたのであった。
彼女がかつて恋焦がれていた高島亜由美に似ていることから、彼は初めて積極的に付き合い始めたのだが、彼が生まれ育った丸々市にある両親の実家に住んでいる彼女は、常にブランド物を身に着け、時にはエステに通うため静岡市まで足を延ばし、仕事もしないで気ままに生きているらしく、時間の経過とともに友樹は高島亜由美との違いに愕然とした。
(顔が似ていても、全然違う。性格が全然違う……) そんなことから、彼の様子に気づいた彼女は、別の男性と付き合い始めてしまい、友樹は副町長から謝られ、この交際は幕を閉じてしまったのだが、彼は忘れかけていた高島亜由美の笑顔を思い出してしまった。
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