そしてその3日後、初めて中山家を訪れた蒼汰はその建物の前に立って驚嘆した。 「そうか、いくら迎えに行くって言っても断られたのは、これを見せたくなかったのか……」 蒼汰が呟くように口にすると 「ごめんなさい」奈津美が眉をひそめて謝ったが、蒼汰はその可愛さにドキッとした。
こんな環境にありながらも、そのことを鼻にもかけず、生きて来た彼女の人生を思うと、彼は瞼が熱くなった。 実母が見せてくれた写真のようにメイクの力で美女に変身して、さらに中山の娘であることを公にして生きていけば、彼女の周りには無数の男が集まって来ただろうに…… 彼女にだって、そんなことはわかっていただろうが、それでも、この道を歩いてきた彼女を幸せにしなければ……
彼はそんな思いで建物を見上げた。
中山の両親に歓待された彼は、言い知れぬ心地よさにひと時を過ごしたが、ただ、奈津美の実父に対する実母の評価がなんとなくわかるような気がしていた。 いい人であることに間違いはないが、そのあまりの軽さに蒼汰は驚いてしまった。 結局、彼は上手いこと丸め込まれてしまって、年度初めには都市ビル開発鰍ノ入社することになってしまい、そのうちには森菱商事内でも二人のことが噂になり、奈津美が都市ビル開発椛纒\の一人娘であることも公の事実となってしまった。
同期の夏山省吾は、そんな状況を見ながら、誰もが掌を返したように蒼汰や奈津美に接することに虚しさを感じていた。 そんなある日、隣に座る先輩から 「まっ、金があるからブスでも我慢するか、金はないけどいい女と一緒になるか、考え方はいろいろあろうけど、俺はお前が正解だと思うよ、なかなかあんな美人はものにできないよ」と言われ、彼は苦笑いをしたが、心のどこかで誇らしくもあった。 しかし、いつも彼の決意を迷わすのはこの誇らし思いだった。
その夜、ある決意をして鈴木渚と食事に出かけた彼だったが、道すがら、すれ違う男が彼女に目を向ける様や、食事をしながらも彼女に見とれる周囲の雰囲気を感じて、彼の心は揺らいでいた。 だが 「山本さんが、どうして奈津美と付き合っているのかわからなかったけど、納得できたわ」 彼女が微笑むと 「えっ、どういうこと?」 「だって、都市ビル開発の一人娘なんだもの、容姿なんて関係ないでしょ」 わずかではあるが彼女の言葉を投げ捨てるような言い方に 「そうか? 俺はかわいい人だと思うけどね」夏山が反論すると 「どんな趣味してんの? 訳が分かんない」鈴木の目が陰険で、夏山は心のどこかでプツンと何かが音を立てて切れたのを感じてしまった。
「蒼汰はそんな奴じゃないよ、彼女が都市ビル開発の一人娘だと知って、一度は別れたんだ」 語気は強くないが、夏山が厳しい視線を向けると 「えっ……」鈴木は、話の内容よりも、彼が反論したことに驚いてしまった。 「だけど、彼女の母親に説得されて…… 」彼は唇を噛み締めて目を伏せたが 「……」何も言わない彼女に 「最初の頃、俺も良く分からなかった。あいつが奈津美ちゃんを可愛いっていうのが全く分からなかった。だけど、……」一度は言葉をとどめたが 「……」口をへの字に曲げて顔をしかめた鈴木に 「君と付き合っていくうちに、彼女の可愛さがわかるようになった」ついに口にしてしまった。 「どういうこと! 私みたいに可愛くない女とは付き合えないっていうことっ⁉」 彼女は突然席を立つと店を後にしてしまった。
「ふうっー、終わった…… これが正解だ、これでいい」彼は大きく息を吐き出すと、目を閉じた。
一方、蒼汰と奈津美は結婚後の新居について悩んでいた。 「父さんはね、一緒には住みたくないのよ」 「えっ」 「でも、ママは…… 」奈津美が眉をひそめると 「どうかしたの?」 「うん、ママは昔から心臓に持病があって…… 今は心配しなくてもいいところまで回復しているんだけど…… お手伝いさんはいるんだけど、一人ぼっちにするのが心配で…… 」 「そりゃ心配だね」 「父さんは好き勝手に生きているから、私たちがいない方が気が楽なんだろうけど……」 「うーん…… 」 「血が繋がっているわけでもないのに、ママにはすごく愛されている…… ずっと感謝している、だから…… だけど蒼汰さんはどうしたい?」 「ええっ、俺は養子になるって決めた時から、実家に住むんだろうって思ってたけど…… でも、奈っちゃんのしたいようにしたらいいよ」 「本当にいいの? 中山の家でもいいの? 」 「全然いいよ、」 「ありがとう、でも窮屈になったら言ってね」 「うん、でもお父さんはいいの?」 「あの人はいいのよ、あっ、それから車のことだけど、この前、ベンツにするかって言ってたよ」 「ちょ、ちょっと待ってよ。車はいいって、今ので十分なんだから、ちゃんと言っておいてよ」 「うん、言ったんだけど、乗らなきゃ、それでもいいって……」 「かあっー、なんか信じらんない。それになんか、生活費のこととか、家の維持費のこととか、どうなるのかなー、給料だってよくわかんないし」 「私も取締役になっててね、年に800万くらいもらっているの」 「はあっー、800万!」 「あっ、ごめんなさい、言っていなかったね」 「だ、だけどさー、800万ももらってんのに、なんで仕事してたの?」 「それは…… ママが社会勉強した方がいいって……」 「ふー」彼はまるで異世界にいるみたいだと思って、大きなため息をついた。
さらに、退職の年度末が迫ってくると、彼のもとへあいさつにやって来る業者が後を絶たなかった。 清掃会社に、電気の設備関係、セキュリティー関係、不動産関係など、数あるマンションやビルの維持管理にかかる仕事を受けている企業だったが、この機に新たに参入をもくろむ企業までが、彼のもとにあいさつにやって来て、彼は困り果てていた。
そんな時、ふと奈津美の実母、天地夫妻から食事に誘われ、彼は奈津美とともに和食の店に出かけた。
「どう? 少しは落ち着いた?」奈津美の実母、亜紀が尋ねると 「いえ、落ち着くどころか、毎日、驚くばかりで…… 」蒼汰が顔をしかめると 「ははっはは、そりゃ、そうよね。普通に生きてきた人が、中山の感覚について行けるはずがない」 「はあー、おっしゃる通りで…… 」
その後、蒼汰が状況を話すと 「だけど蒼汰君ね、結婚するって決めたんだから、もう腹をくくったら」 「えっ」 「要はね、君が立ち位置を変えなければいいのよ」 「は、はあー」 「とんでもないお金ができて、皆がぺこぺこしてくれると、誰だって鼻が高くなるわよ。そのうちには自分が一番みたいに思って、自分の言うことを聞かない人をだんだんと遠ざけていくようになる」 「お、俺は……」 「わかっているわよ、今の君ならそうはならない。だけどね、人間なんだもの、だんだんと麻痺していくわよ。だけど、君が立ち位置を変えなければ何の心配もないわよ」 「は、はい!」蒼汰はこの話を聞いて、その通りだと思った。 彼は初めて会って以来、なぜかこの実母には何でも相談できそうな気がしていて、既に心を許していた。
「だけど、浮気は3回までにしてね」 「えっ」 「お母さん!」奈津美が声を荒げた。 「あ、ごめん、ごめん、だけどね、どうせ、あんたの父親は、すぐに蒼汰君をクラブにでも連れて行ってさ、自分の仲間にしようとするわよ。すぐに社長にだってされてしまうわよ。そしたらさ、若い美女たちから『社長、社長』ってもてはやされてね、つい酔った勢いでベッドインするかもよ」 彼女が奈津美に笑いかけると 「お、お義母さん!」蒼汰が声を上げると同時に 「も、もう、お父さんには近づけないから」奈津美が唇をかみしめた。
「あんたもばかねー、阻止するんじゃなくて受け入れるのよ。その覚悟をしておけばいいのよ、覚悟さえしておけば、浮気の一つや二つ、なんてことないわよ」母が顔をしかめると 「お、お義父さんもそうなんですか」驚いた奈津美が尋ねた。 「そ、それは…… 」義父は俯いてしまったが 「はははっはは、この人は一回だけよ」奈津美の実母が大笑いした。
蒼汰はその様子を見ながら、俺は絶対に浮気はしない…… 心にそう誓った。
完
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