蒼汰は、その日以来、心にぽっかりと空いてしまった大きな穴を埋めることはできなかった。 そんな状況を心配してくれる夏山省吾に、彼は、奈津美との出会いから、別れに至ったいきさつを説明した。
「とんでもない逆玉だったのか…… でも、お前、よく諦めたな」 「それこそとんでもないよ、俺なんかに背負えるはずがない」 「そうか…… 俺だったら、うれしかったかも」 「はははっはは、実際にそういう状況になると、簡単にはいかないよ」 「そんなものか…… 」夏山はそう言いながらも、自分は美人の彼女を手に入れたことで十分に満足していた。
その後、蒼汰は時間があればパチンコ店に入りびたり、はじける球を無表情に見つめ、時折思い出す奈津美の笑顔に、顔をしかめ、大きなため息をついていた。
一方、事情を聴いた奈津美の両親は、「今時、珍しい人種だな」と驚きながらも、落胆した。 その後、奈津美は父親の勧めで、何度かお見合いをしたが、彼女は決していい返事をしなかった。 その見合い相手は、客観的に診れば、いい大学を出ていて、スーツがよく似合い、話してみれば人としては素晴らしい人なのだが、奈津美にとっては、蒼汰以上ではなかった。
そして二人が別れて半年が過ぎた頃、蒼汰は、人間ドックで、再検を指示され、天地総合病院の循環器内科を訪れた。
30分後、診察室に入った彼は、看護師に案内され、面談室に通された。 中年の美しい女医に 「どうぞお座りください」と言われた彼は、 (なんか、やばい病気なのか…… )不安になったが 「初めまして、相田奈津美の実母、天地亜紀です」とあいさつされ 「ええっ」驚いて立ち上がった。 「ごめんなさいね」 「い、いえ、」 「私は母親と言っても、あの子には何もしてあげていないの、だから、あの子には絶対に幸せになって欲しくてね……」何故か悲しい思いが伝わってくる。 「は、はい……」
その後、蒼汰の思いを聞いた彼女は 「あなた、ちょっとおかしいわよ」と眉をひそめたが、その表情が奈津美にそっくりで彼は驚いた。 「えっ、どういうことでしょうか?」 「だってね、都市ビル開発鰍ネんて、何もしていないのよ。先祖から引き継いだ資産をただ維持しているだけなのよ。そりゃ、ビルやマンションが数えきれないくらいあるけど、賃貸料をもらって、減価償却分は、将来の建て替えのためにストックして、その残りで施設の維持管理しているだけなのよ。バカでもチョンでもできるわよ。だいたい、奈津美の父親なんて、見てみなさいよ、ぼっーとした顔して、何もしていないのよ」表情がかなり険しくなった。 「そ、そんな…… 」蒼汰は唖然とした。 「だいたい、あなたは大企業、大企業っていうけど、あの会社の社員数を知っているの?」 「い、いえ」 「社長を入れても30人くらいよ」 「ま、まさか…… 」 「本当よ、施設の維持管理はすべて委託しているし、新規事業なんて何もやらないんだから、10人でもいいくらいなのよ」 「……」蒼汰は驚かされてばかりだった。
「考えてみなさいよ、何の仕事があるのよ」 「そ、そう言われてみれば…… 」 「それに社長になるのがいやだったら、誰かにさせればいいじゃないの、配当金だけでも楽に暮らしていけるわよ。奈津美の父親だって、世間体があるから社長しているだけなのよ。奈津美が結婚したらすぐに社長なんて辞めて娘婿に引き継ぐわよ」 「ま、まさか…… 」
「旅館だってそうよ、彩さん、あっ、あの子の継母なんだけどね、今は他人に任せているんだから…… それに今の女将は自分の跡取りを育てているのよ。まかせておけばいいでしょ。それにもしね、あの旅館が大赤字になったとしても、都市ビル開発鰍ゥら補填すればいいのよ、あなただって社会人なんだから、そのくらいのことはわかるでしょ」 「は、はあ……」 あまりの勢いでまくし立てられて、蒼汰はただ茫然と彼女に見いった。
しばらく沈黙があった。
「あなたがね、別れたくて、そのことを理由にしているんだったら、それは仕方ないわよ」ようやく語り口調が静かになった。 「そ、それはないです」蒼汰もここはすぐに否定した。 「だったら、あなたの心配していることは馬鹿みたいなことよ、私の言っていること、わかるでしょ」 「は、はあー……」何か狐につままれたような感覚だったが、なぜか理解はできた。 しかし、あまりの勢いでまくし立てられた彼は、なにか丸め込まれてしまったような不安もあって疑心暗鬼になっていた。
「じゃあ、奈津美と結婚してくれるのね」 「え、でも、本当にそれでいいんですかね……」彼は思わず首を傾げた。 「いいわよ、もうじれったいわね、それより、あなたのご両親は、大丈夫なの?」 「えっ」 「本当に養子に出してもいいって思っているの?」
もう結婚前提の話にされてしまった。
「はい、それは間違いないです。親父なんか、資産家の娘と結婚して、母に内緒で小遣いをくれって言うような人間ですから……」 「ははっはは、面白いお父さんね、でもね、いざとなったらわからないわよ」 彼女が初めて笑顔を見せた。
「いや、そんなことはないです」 「でも、もし、反対されたら、あの中山夫妻じゃ説得できないから、私に言って…… 私が説得するから」 「中山夫妻って?」 「あっ、ごめんなさい。奈津美の今の両親よ。相田って言うのは私の旧姓なの」 「はあ……」 「あの子が、父親の家に入ことを決めた時にね、お祖父ちゃん、あのバカ社長の父親がね、中山の娘であることはできるだけ公にしない方がいいって…… 財産目当ての男が寄って来るし、事件に巻き込まれる可能性だってあるから、籍は結婚が決まってから入れた方がいいって…… 」 「なるほど…… 」 「なにせ、いろんなことが複雑なのよ、」
「はあ…… ところで失礼なんですが、お義母さんはおいくつなんですか?」 「44歳よ、あの子は19歳の時の子供なの」 「じ、19ですか……」 「もう、娘婿になるんだから話しておくけどね、私は大学に入って初めての合コンで、酔ってしまってね、あの男にやられたのよ」 「や、やられたって……」 「あの男はね、私がOKしたって言うんだけど、絶対に嘘よ」 「そ、それで…… 」 「あの男に妊娠したことを話したら、当時の社長、父親が出て来て、結婚の話になって、結局、大学を卒業したら結婚することにして、私は1年休学して、あの子を産んで…… だけど会っているうちにね、こいつと一緒になったら、馬鹿が映るって思ったのよ」彼女が顔をしかめた。 「そ、そんな…… 」 「まっ、私の両親も元気だったし、だから私はシングルマザーの道を選んだのよ。私のわがままだとは思ったけど、でも、彼の両親は良くしてくれてね、経済的にはすごく援助してもらった。彼は馬鹿なのに父親は立派な人なのよ」 「……」彼は、奈津美の父親はどんな人なのだろうと不思議だった。
「あの彩さんが、どうしてあんな馬鹿と一緒になったのか、そこがわからない」 彼女が眉をひそめた。 「あっちのお母さんは素敵な人なんですか?」 「すごいと思うわよ、あの人が育ててくれたから、奈津美はあんないい子に育ったんだと思うよ。もともと、私と生活していた時のあの子は、もっととげとげしくて鋭角的だったのよ」 「えっ、そうなんですか……! 信じられない」 「あの人と関わるようになってからよ、洋服だって女の子らしいものを着るようになったし、会うたびにだんだんと穏やかになっていくのが良く分かったわ」 「そうなんですか……」
「ねえ、この女性、誰だか知っている?」 彼女がスマホを開いて、1枚の写真を見せた。 「えっ、いや、知らないです。でもきれいな人ですね」彼が微笑むと 「やっぱり、わからないよね」 「ええっ……」 「奈津美よ」 「ええっ! も、もう一度見せてください」 彼は穴が開くほどスマホを見つめたが、とても奈津美だとは思えないほど、美しい女性だった。
「あの子はね、メイクをすればこれだけの女性に変身できるのよ」 「びっくりですね」 「わたしはね、娘が皆から『美人ですね』って言われるような女性であって欲しいのよ。だからね、一度だけ美容院であの子を作り上げたのよ、みんな驚くだろうって思ってね」彼女が微笑むと 「はい……」蒼汰も続きが気になった。 「でもね、家に帰ったあの子を見た時、あの彩さんがね、『ママはいつもの奈津美ちゃんの方が素敵だと思う』って言ったのよ」彼女がため息をついた。 「なんか、それはそれですごいですね」 「そうでしょ、あの子はすぐにメイクを落としてもらったらしいよ」 「そうですか…… 」 「あの子はそれがわかるような女性に育てられていたのよ、私はがっかりしたけど、でもね、所詮私の思いは血なのよ、血の自己満足よ、女性として着飾ったまま生きていくのか、飾らないで生きていくのかって考えれば、彩さんの方が正解なのよ、その時に、負けたって思ったわ」 彼女が遠くを見つめて思いを語った。 「……」 「あの子もすごく信頼しているしね」 「すごい方なんですね」 「そうね、今ではあの子をあの家へ行かせて良かったって思っているのよ」 彼女の瞼には涙が浮かんでいた。
「奈津美さんがお父さんのもとで暮らすようになったのは、やはり跡取りの問題があったからですか」 「そうなのよ、そのことが無ければ、奈津美は私と一緒にこの天地の家に入る予定だったのよ」 突然思い出したように言葉が力強くなった。
「そうですか……」 「だけど、お祖父ちゃんから、一度だけ考えてくれないかって言われて、二人にも頭を下げられてね。その後も、彩さんが何度も訪ねて来て、そのうちには、この人が母親の方が奈津美は幸せかもしれないって思ったりして、それで最後はあの子に選択させたのよ」 「彼女はお母さんの新婚生活を邪魔したくなかったみたいですね」 「そうね…… 」
「山本君、もう、問題はないよね」 「あっ、はい、なんかすっきりしました」 「だけどね、もう一つあるのよ」 「えっ…… 」 「私たちにも子供はいないんだから、もし、夫よりも私の方が長生きしてしまうと、この病院まで、奈津美が責任を負うことになるのよ。だからよろしくね」 「お、お義母さん、そ、そんな……」
「ははっはは、冗談よ。夫は奈津美のファンだから、何とか自分の娘にできないかって、未だに思っているけど、甥や姪をみんな医大に行かせようとしているから、あなたに迷惑をかけるつもりはないよ」 「驚きました。もう汗が出てきました」 「はははそ、でもね、あの子ってすごいでしょ。どれだけの人から大事にされているのか、わかるでしょ」 「そうですね、それはよくわかりました。大事にします」 「まっ、浮気は3回までにしておいてね」 「お、お義母さん……」
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