そしてそんなある水曜日の午後、彼は、相田奈津美と同じ経理課に席を置く鈴木渚から食事に誘われ驚いた。 以前の彼であれば、すぐにその誘いにのっていたのかもしれない。 でも、奈津美の可愛さに魅せられてしまった彼は、美人ではあるがとても可愛さを感じることのできないこの女と時間を共有することはできないと思ってしまった。 それに何よりも、彼は奈津美を悲しませたくなかった。 ただこの時、彼は鈴木渚の目を見て、彼女が奈津美のことを知って声をかけて来たのではないかと思った。
その2日後、夏山省吾から、鈴木渚と付き合い始めたことを聞いた蒼汰は、なぜか不快極まりなかった。
その週の金曜日、居酒屋で 「ねえ、嫌になったら遠慮しないではっきり言ってね」奈津美の表情がいつもとは違っていた。 「えっ、急にどうしたの?」 「うん…… 」眉をひそめた彼女は、あまりにも悲しそうだった。 「何かあったの?」 「うん…… 」何故かはっきりとしない。
彼女を抱かないことを、彼女は何か勘違いしているのかもしれないと思った彼は 「今夜いい?」と尋ねたが 「うん、いいけど…… 」何故か歯切れが悪い。
その後、ホテルで交わった彼は、なぜか違和感を持った。 「何かあったの?」 「うん…… 」 こんなにはっきりしない彼女は初めてである。
「俺のいないところで起きたことは、俺にはわからないし、君が考えていることもわからない。何か気になることがあるんだったら、言葉にしてくれないとわからないよ」 「うん…… ごめんなさい、だけど…… 」 「はっきり言ってよ、思い違いや誤解っていうのはけっこうあると思うよ」
しばらく沈黙があった。
「鈴木さんを食事に誘ったんでしょ?」 「ええっ! 誰から聞いたのっ……!」彼は飛び起きてしまった。 「……」 「あの女が言ったの?」 「……」彼女が小さく頷いた。
「信じられない、なんて女なんだ……」彼は呆れてしまった。
状況を聞いた彼女は、微笑んだが 「でも、本当に嫌になったら言ってね」と悲しそうに言う彼女を見て 「結婚しよう」彼はついに言ってしまった。
「えっ、結婚ですか?」彼女が眉をひそめたが、可愛さは見せない。 「だめ?」 「いや、うれしいですけど、私と結婚すると大変なことになりますよ」 彼女の不安が伝わってくる。
「えっ、どういうこと?」 「一人娘だし……」 「大丈夫、俺は次男だから、養子になっても構わないよ」 「そうなんですか……」彼女は微笑んだものの、何か気がかりがあるようだった。
その時、奈津美が自分の境遇を話し始めた。 彼女の実母は医者で、シングルマザーだった。 彼女が中二の時に父親のことを尋ねると、母親が父親の住所と名前を教えてくれたので、彼女はそこを訪ねたが、あまりにもすごい家なので驚いて躊躇していると、中から美しい女性が出て来て 「奈津美さんね」と言って彼女を家に招き入れてくれた。 慌てて帰って来た父親と初めて対面して、彼女はとてもうれしかった。父親の奥さんであるその美しい女性もとてもやさしくて、素敵な人だった。 その後、彼女は時々、父親の家を訪ねて歓待され、とても居心地が良かったが、半年ほどすると、実母と父親夫妻を前にして、実母の再婚を打ち明けられ、母親とともに再婚相手の家に入るか、父親夫妻の家で暮らすか、選択を迫られた。
ただそこには実母の複雑な思いがあった。 父親夫妻には子供がいなくて、跡を取る者がいない、さらにその妻も一人娘で、実家の旅館を継ぐ者がいなくて、今は他人に任せている。 北峡谷温泉の旅館は、奈津美の継母の実家だったのである。
その結果、奈津美は、実母の新婚生活を邪魔するよりは、父親のもとで暮らすことを選択した。
そこまで話を聞いた蒼汰は 「ちょっ、ちょっと待ってよ。君のお父さんの会社って?」慌てた。 「都市ビル開発っていうの」 「ええっ! 」 この都市ビル開発鰍ヘ、県内にいくつものビルやマンションを所有していて、維持管理だけで相当な収益を上げている会社であることは、さすがの彼も知っている。
「旅館の方は、閉めても構わないって、義母が言うんだけど、歴史もあるし、従業員さんのこともあるし……」
彼は頭がくらくらし始めた。 彼は中学生の頃、自分は次男なんだから、どこかの資産家の娘と結婚して、楽に暮らしていくことができたら、言うことはないのに…… 漠然とそんなことを考えていたことがある。 しっかり者の兄貴は 「そんなうまい話があるか!」と馬鹿にしたが、陽気な父親は 「それが一番、少々ブスでもお金があれば幸せだ。お前の考え方は間違っていない。その代わり、ちゃんと父さんに小遣いを持ってくるんだぞ、もちろん母さんには内緒だ」と言いながら笑っていた。 そんな父親を見ながら、 「よっし、任せておけ」彼は本気でそんなことを考えていたこともあるが、それでも、現実の世界は厳しく、そんな子供の頃の思いはどこかに消えてしまっていた。
しかし、突然目の前に現れたそんな夢のような話に、彼は一歩引いてしまった。
「ちょっ、ちょっと待ってよ。君と結婚するということは、将来的に、それを背負うことになるの?」彼は尋ねないわけにはいかなかった。 「うん……」 「相続人は君しかいないの?」 「うん……」彼女が頷いた。
しばらく沈黙があった。
「悪いんだけど、ちょっと時間をくれるかな?」 「やはり、山本さんだったら悩みますよね」 「えっ…… 」 (誰でも悩むだろ)と彼は思ったが 「普通の人だったら、多分喜んでくれるだろうって思うんですよ」 「そりゃ、財産があって、将来は社長の席が約束されるんだから、一瞬はすごいって思うよ。ラッキーだって思うかもしれないけど、企業を背負うっていうのは、そんな簡単なものじゃないよ。俺だって、次男なんだから、逆玉にあこがれたこともあるけど、こうして仕事をしてみると、何かを背負うっていうのが、どれほど大変なことかよくわかる……」彼が真剣に話すと 「やはり、山本さんはすごいですね、そんな責任のことまで考えちゃうんだ」彼女は嬉しそうだった。 「そりゃ、考えるよ。君のお父さんが責任をもってくれている間はいいよ、お金の心配もしないで、楽しい生活がおくれると思うよ。でも、いつかはそれを引き継ぐことになるんだろ、?」 「でも……」 「ごめん、結婚を申し込んでおいて、こんなこと言うのは悪いんだけど、時間が欲しい」 「はい、わかりました」奈津美も覚悟はしていた。
そして、翌週の金曜日 「ごめん、どんなに考えても、俺は君の境遇を背負えない。俺は、ただ、単純に君と一緒になりたかっただけなんだ。本当にごめん」彼は真摯に頭を下げた。
「やはり、そういう結論になりますか…… 」奈津美が独り言のように呟いた。 「ごめん。『会社も旅館も俺に任せろ』って言いたいけど、それはあまりにも無責任すぎると思うんだ。情けないけど、俺はそんな人間なんだ。本当にごめん」 「いいですよ、仕方ないですよ。山本さんに初めて誘われた時から、山本さんはそんな人なんだろうなって思っていました。だから、結婚は難しいかもしれないって…… 」 「ごめん」彼には謝ることしかできなかった。 「……」 「だから、もう今日を最後にしたい」 「えっ、どうしてですか、結婚しなくても、今迄みたいな関係でいいじゃないですか、私は絶対に無理は言わないんで…… 」彼女の瞳が訴えてきたが 「いや、それは駄目だよ。君はちゃんと君の将来を守ってくれる人を見つけないと駄目だよ」 蒼汰は即座に思いを伝えた。
「そんなこと言われても…… 」彼女は俯いてしまい、二人はその日を最後にしてしまった。
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