北井高校が帰って来たその日、西野から電話をもらった彼はうれしくて、昔を思いだしていた。 彼はその思い出にのって、山崎彩に電話を入れた。
『彩ちゃん、久しぶり』 『お久しぶりです。3月末に帰った来たら、すぐに電話くれるのかって思っていたのに……』 『あっ、ごめん、ごめん、新しい生活が始まって、なんか忙しくて……』 『相変わらず、軽いノリですね』 『何怒ってんの? ご機嫌わるいなー』 『いいですよ、彼女でもないんだから、電話くれなくてもいいですよ!』 『ちょっと、勘弁してよ、1度会って話したいことがあるんだよ』 『……』 (コクられるのか……! ) 一瞬、そんな思いが彩の脳裏をかすめた。
『聞いてる?』 『えっ、きっ、聞いてますよっ!』 『彩ちゃんさー、変なこと聞くんだけど、彼氏はいるの?』 『……』 (こいつ、ほんとにコクるのか…… ) 彼女は胸が苦しくなってきた。
『いるのか……』 『いませんよ、そんなもの!』 『えっ、そうなの? だけどそんなものって…… 』
『そんなものですよ。それともファーストキスの責任でも取ってくれるんですか?』
突然の言葉に一瞬動揺した一樹の脳裏に10年前、高校3年、インターハイ予選の決勝が蘇った。
67対65、2点ビハインドで残り12秒、仲間が懸命にパスをつないで一樹に回してくれた。 ドリブルで一人抜いてゴールを目指した彼は、残り2秒のクロックを見て、スリーポイントラインの手前2メートルの位置で飛び上がると渾身のジャンプシュートを放った。 ボールが頂点に達した時、ビッーー、ブザーが鳴った。 緩やかな弧を描いてリングを目指したボールは、誰もが固唾(かたず)を呑(の)んで見守る中、リングの手前側の淵にあたり、輪の中で2〜3回、ガタガタッと暴れたが、リングに吸い込まれることなく、外に落ちてしまった。 瞬間に、悲鳴と歓声が鳴り響き、体育館が揺れるような激震の中、一樹は右手の握りこぶしに力を込めた。 立ったままリングを見つめ動かない一樹を仲間たちが、気遣った。 挨拶の後、相手チームの選手から握手を求められた彼は、開かない右手を見つめた後、左手でそれに応えた。 控室で後任のキャプテンを決めた後、選手が出て来るのを待っていたマネージャーの彩は、一樹が出て来ないことが気になっていた。 「彩、行ってやってくれ、頼む、お前じゃないとだめだ」 皆から懇願された彼女は中を覗いてみた。 未だに拳を握りしめたまま、震えるその右手を見つめて、涙を流している一樹を目にした彩は、慌てて駆け寄ると、彼の隣に腰を降ろし、 「先輩、ありがとう。こんなにすごい夢を見せてもらってありがとう」 涙を浮かべ微笑んだ。 「……」 そして彩は、無言の一樹の背に手を回し、覗き込むように彼の唇に自らの唇を寄せた。 はっとして驚いた一樹は、静かに彩を見つめると 「あと五p、いや後三p届かなかった……」 右手の握りこぶしを顔の前で震わせながら彼は涙を流し続けた。 彩はその握りこぶしを両手で包み込むと、親指から静かに1本ずつ伸ばしていった。 右手の手のひらが現れた時、一樹は肩の力が抜けて、やっと我に返った。 「彩、ありがとう」彼は救われたような思いだった。
控室を出ると皆が拍手で迎えてくれた。 青春の1ページである。
『ちょっ、ちょっと待って、だけど、あれは……』 彼が慌てると
( 何だ、コクられるんじゃないのか…… ) 胸の高鳴りが一気に冷めてしまった。 『大丈夫ですよ、仕掛けたのは私なんだから…… でも勘違いしないでくださいよ、あの日、何かしてあげないと、先輩がさまよい続けて…… とにかく何かに失敗した子供を抱きしめる母親みたいな思いだったんですから……』
『ありがとう、なんか、救われたような思いがあったの、今でも覚えている……』 『いいですよ、私も、時の人だった山田一樹の唇を奪ったんだから……』 『ごめん……』 『何謝ってんですか、謝られたら惨めですよ……』 『ごめん……』 『いいですって、それで彼氏がいなかったら、どうするんですか?』 『いや、一度飯でもって思って…… 確認したいこともあって……』
その週の金曜日、夜7時に二人は和食の店、『彩(いろどり)』で待ち合わせた。 「彩ちゃん、西野のこと覚えている?」 「そりゃ、覚えてますよ……」 「あいつさー、北井高校で、バスケ教えてて、インターハイで1勝したんだよ」彼が嬉しそうに話すと 「知っていますよ」冷たい視線で彼女が答える。 「彩ちゃんさー、この前からご機嫌悪いけど、何か怒ってる?」 「怒ってませんよ、『彼氏いるのか?』って聞かれたから、コクられるのかって思ってドキドキしていたら違うみたいだし、それでもひょっとしたらって思っておめかしして来たら、全然、そんな雰囲気じゃないし、何なんですかいったい!」彼女は、この食事の意味が解らず、少し苛々していた。 「ごめん……」 「勘違いしないでくださいよ。電話でも言ったでしょ。別に先輩と付き合いたいなんて思っていませんから! でも…… でも、もし山田一樹にコクられるんだったら、女としてはうれしいですから…… でも、コクられてもあなたのものにはなりませんけどね」 「はははっはっ、彩ちゃんって、そんな人だったかー、なんか、楽しいね」 「そりゃー、もう17歳じゃないんですから、27ですよ。人生の甘いも酸いも、味わってきましたから……」 「そうかー、市役所、大変そうだもんなー」 「そうですよ、大変なんですよ、今日だって既婚者に食事に誘われたんですよ」 「ええっ、そういう大変さなの?」 「頭来たから、奥さんは知っているんですかって、睨み付けたら『あの、そのー、あっ、用事思いだした』って逃げて行きましたよ」 「大変だなー」 「ほんとにっ! もうシヤクショじゃなくて、死ねくそっ、ですよ」 「ぶはっ、ははっ、はははっはは、彩ちゃんおもしろいっ!」 「だけど、一体、どうしたんですか? この美女に彼氏でも紹介したいんですか?」 「そういう訳でもないんだけど、でもちょっと近いかな」 「もう私は結婚するつもりはないんです。学生時代、3人の男と付き合いましたが、屑ばかりでいやんなりました」 「何かあったの?」 「何もないですよ!」彼女は投げ捨てるように答えた。 「だけど何か引きずっているような気がするけど、まさか俺じゃないよね」 「はあー! 先輩、馬鹿ですか?」 「ごめん、ごめん、だけど何があったの?」 「高校の卒業式の日に振られたんです。だから、先輩じゃないですよ!」 「そうなの…… それってバスケ部?」 「もう、いいじゃないですか!」 一瞬、彩のどきっとした表情を彼は見逃さなかった。 「バスケ部なのか…… 」 「……」彼女は不安そうに考え込んでいる山田を見つめていた。 「だけど、バスケ部で彩ちゃんのこと、誰が袖(そで)にしたの?」 「もういいですって!」 「そんな奴いないだろう、みんな彩ちゃんのファンばかりじゃないか!」 「それがいたんですよ、この彩様を袖にした奴が……」 「お願いだよ、大事なことなんだ、教えてくれないか?」 「いやですよ!」 「じゃー、一人ずつ電話して聞いてみるしかないなー」 「ちょ、ちょっと止めて下さいよ。さっき名前が出たじゃないですか!」 「えっー、西ちゃんなのっ?」一樹は驚いて尋ね返した。 「そうですよ、西野のくせに、あり得ないっしょ!」 「ははっ、はははっはははっ」 「先輩、何がおかしいんですかっ!」 「それ、違う、絶対に違う。何か勘違いしているよ、彩ちゃん、絶対に勘違いしているよっ」 「えっ、どういうことですか?」 「だって、あいつ未だに彩ちゃんのことが好きで好きで、どうしようもないんだよ、だけどコクる勇気がなくてウジウジしてるんだ」 「えっー、そんなー、今頃、そんなこと言われても…… 」 「ちゃんと教えてよ、彩ちゃんはどうして振られたって思ったの?」 「えー、卒業式の日、彼の学生服のポケットに手紙入れたのに、彼は来なかった」 「えっ、手紙には何て?」 「後輩との試合が済んだら、部室の裏の公園で待っているから、一人で来てって……」 「そう、彩ちゃん、確認してみようよ、絶対読んでいないって!」 「そんなこと言われても…… あんな奴に2度も振られたら生きて行けない」 「ちょっと、それはおおげさだろう」 「大げさじゃないですよ、西野のくせに、ずかずか入り込んできて…… 西野のくせに…… 」 「彩ちゃん、ちょっと待ってて……」
彼は席をはずすと西野へ電話を入れた。 『西ちゃん、お前、この前も確認したけど、今でも彩ちゃんのこと死ぬほど愛してるんだよね』 『愛してますよ、もう覚悟決めましたから、告白しますから!』 『わかった。だけど1つだけ聞きたいんだけど、お前さー、高校の卒業式の日、学生服はどうしたの?』 『えっ、そんなこと急に言われても…』 『ちょっとさー、彩(いろどり)まで来てほしいんだけど、来るまでに思いだしといて!』 『いやちょっと、これから……』 『来ないとお前の人生、済んでしまうよ』 がしゃっ 『先輩、先輩っ…… また切られたよ』
(学生服、どうしたかなー…… )
部屋へ帰った一樹が 「あいつ、呼んだから」と微笑むと 「えっ、そんな……」 彩は俯いてしまった。 「どうしたの、急にしおらしくなって!」 「えっ、いや、そんなことはないです」 「彩ちゃん、まだ好きなんだね」 「そんなことはないです。西野のくせに……」 「だから絶対に違うって!」 「どうするんですか、来て、私の顔見て帰ったら……」 「そんなことないって、さっき彩ちゃんのことをまだ死ぬほど好きなのかって聞いたら、『覚悟決めた』って言ってたよ」 「ええー、何の覚悟なんですか?」 「告白する覚悟、告白するって言ってたよ」 「うそ、絶対うそ!」 「彩ちゃん……」 「どうするんですか、ほんとに告白されたらどうするんですか! 西野のくせに、告白するんですか、ほんとに……」最後は消え入るようだった。 「言うべきじゃなかったと思うけど、ごめん、あいつにはっきり言わすべきだったなー、ごめん、彩ちゃんがあんまり心配するから、つい…… ほんとにごめん」 「そんなー、ほんとなんですか?」 「もう来るよ、君がいることは言っていないから、驚くと思うけど、でも、あいつの意思は固いと思うよ」 「じゃあ、もし告白してくれなかったら、先輩がもらってくれますか?」 「おい、ちょっと待ってくれよ、俺でもいいのかよ?」 「そうじゃないけど、西野に振られて、大学でもいい男に会えなくて、もう結婚はしなくてもいいって思ってたんです」 「うん……」 「だけど、先輩から誘われて、コクられるのかって思って、先輩だったら人間性もわかっているし、何より山田一樹だから…… 先輩だったら結婚してもいいかなって思ったんです。でも、愛だ、恋だ、じゃないですよ。山田一樹の奥さんだったら、皆がうらやましがるでしょっ!」 少し微笑んだ彩を見て
「何だよ、それ!」一樹も少し気持ちが楽になった。
「……」彼女は俯いてしまった。
「いいよ、あいつが告白しなかったら、俺と一緒になろう」
「はははっは、そんなわけないでしょ、そんな同情は嫌ですよ」 彼女は突然顔を上げて微笑んだ。
その時であった。 「失礼します」 そう言って入って来た西野は、彩を見て心臓が止まるのかと思うほど驚いた。 「遅いじゃないか」 「えっ、あっ、でも約束があったから断り入れて大変だったんですよ」 「そうか、約束があったのか、そりゃ悪かったな」 「よく言いますよ、俺の返事、聞きもしないで電話切ったくせに!」 「まあ、ここに座れよ」 「はい、久しぶり」西野はようやくチラッと彩を見ると頭を小さく下げた。 「お久しぶり」微笑んだ彼女の瞳がぬれていることに気づいた西野は、再び驚いて、一樹の顔を見た。 「泣かしちゃったよ、結婚申し込んだら泣き出したよ」 「先輩っ!」 「嘘よ、嘘だから」彩が微笑んだ。
「二人は何年ぶりなんだ?」
「3〜4年ぶり?」彩が西野に微笑みかけた。
「そっ、そうかな」西野の笑顔はひきつっていた。 「あっ、それよりお前、学生服のこと、思いだした?」 「ええ、家にありましたよ」彼はそう言いながら、持って来ていた包みをほどき、クリーニングされ、カバーのかかった学生服を取り出した。
「ほおー、どうなっているかな」 「えっ、どうしたんですか?」 「ちょっと、ポケット見て見ろよ、もうないかもしれないなー」 「あっ、何かありますよ」 そう言った西野がポケットから透明の小さなナイロン袋にしまわれているものを取り出した。 「それだな……」 「開けてみろよ」 「……」 読んで西野は驚いた。
『試合が済んだら、部室裏の公園で待ってる。一人できて… 彩』
「えっ、何、何なのこれ……」
「なんなのじゃねえよ、お前、なんでこれ読まなかったんだよ!」
「そんなこと言われても」
「彩ちゃんが卒業式の日、お前のポケットに入れていたんだよ」
「そんな…」
「ほんとにお前は愚図だな!」
「先輩……」
「彩ちゃんはずっと待っていたけどお前が来ないから、振られたんだって思って今まで引きずっているんだよ、お前、西野のくせにふざけているよ……」
「先輩……」彩が微笑んだ。
「お前、なんか言うことあんだろう」
「ごめん……」
「ごめんじゃねえよ、ほんとに愚図い奴だなっ、お前が告白しないんだったらね、俺は彩ちゃんと結婚するよ、いいのか」
「先輩……」
「先輩じゃねーよ」
「彩ちゃん……」
「……」
「彩ちゃん、けっ、結婚して欲しい」 「急に結婚かよ、順番があるだろうが」
「いいよ、結婚してあげる」
「ありがとう、ほんとにいいのか、俺でいいのか、先輩じゃなくてもいいのか」
「しつこいやつだな、俺はお前の次なんだよ、お前が告白しなかったら、俺と結婚するはずだったんだよ」  
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