その翌年の二月、理穂は元気な女の子を出産し、綾と名付けた。 彼女の産前産後は大変であったが、アルバイトも見つかり、和也はこの時期を何とか乗り切ることができた。 この子はすくすくと育ち、笑うと引き込まれてしまいそうで、理穂に似て瞳の大きな女の子であった。
出産前からイライラし始めた和也の母、玲子は、無事に出産したことを聞いて一安心したが、その後は孫に会いたくて自分では感情をコントロールできなくなっていた。
和也の結婚や、理穂の出産は父親には伝えられていなかったので、彼は妻の再びの変貌に驚き、またエリカに助けを求めた。
「母さんはどうしたんだ、まだ和也のことで怒っているのか? あの子の居場所がわかって落ち着いていたんじゃないのか!」
困惑する父に 「そんなこと知らないわよ! だいたい夫婦の問題は夫婦で解決してよ、私だって忙しいんだから!」
そうは言ってみたものの、エリカはやはり母のことは心配であった。
母の部屋へ出向いた彼女は、 「ママ、会いに行きなさいよ……」 「えっ、でもねー」 「あのさー、今はね、子育てで大変だから、一時半から兄さんが買い出しに出ると五時半まで店は準備中の札がかかっているのよ……」 「それじゃー、チャンスはないじゃないの!」
「だからね、準備中の札に気が付かないふりして店に入るのよ、そしたら絶対に赤ちゃんの気配があるはずよ、そこをきっかけに、『私も同じぐらいの孫がいるんだけど訳があって会えないの』とかなんとか言ってさ、抱かせてもらうのよ!」
「あなた、天才ね、娘で良かったわ、絶対に父さんの側にはつかないでよ!」 一瞬微笑んだ母親は、娘に念を押した。 「大丈夫だって!」
その翌日の午後、玲子が和也の店を訪ねると、確かに入り口に『準備中』の札がかかっていたが、さすがにこれに気が付かないというのはあり得ないと思った彼女は 「こんにちは、どなたかいらっしゃいますか?」静かに尋ねると
「はーい」明るい返事とともに理穂が生まれてまだ三カ月にもならない綾を抱いたまま出てきた。 顔を上げた理穂は時々訪ねて来ていた女性だと気が付くと微笑んで 「すいません、この時間は休ませていただいているんです」 彼女が我が子をあやしながら話すと同時に、 「まあ、赤ちゃんができたの? それでこの時間はお休みだったのね、何かあったのかと思って心配になって、覗いてみたの?」 「ありがとうございます。もう初めての子で身内もあまりいないもので、けっこう大変で仕方なく……」 「そうだったの……」玲子は微笑みながら近づくと 「かわいい、私にも三か月の孫がいるんだけど、遠くにいるから抱くことができないの…… お願いだから抱かせてくれない?」あまりにも切なそうな話に 「ぜひ抱いてやって下さい! 助かります」理穂は微笑んで静かに綾を玲子に預けた。 「かわいい……」 こんなに深く暖かい愛情を持った女性に抱かれて、赤ん坊がぐずるはずはなかった。 その子は、穏やかな顔をして静かに眠り始めた。
「すごい、お上手ですね……」感心する理穂に向って 「……」玲子は無言のまま幸せそうな表情を浮かべ、軽く頷いた。 「このまま抱いているから、少し横になったら……」優しく囁いてくれるこの女性に 「ありがとうございます、でも大丈夫です」 理穂はそうは言ったものの、椅子に座ったままうたたねを始めた。
( 一人で頑張って、疲れているのね ) 玲子はそう思いながらうれしそうにすやすやと眠る孫を見つめていた。
二十分後、はっとして目を見開いた理穂はどきっとした。 「すいません、長いこと……」 「大丈夫よ、私はこんなかわいい子を抱くことができてとても幸せ……」 「ありがとうございます、代わりましょうか?」 「もう少しだけ、お願い!」 「私はありがたいですけど、疲れますよ、もう下におろしても大丈夫と思いますけど……」 しばらくして、店に置いてあったスイングチェアに綾をそっと降ろした玲子は 「ありがとう、とてもうれしかったわ、これからも時々抱かせてもらいに来てもいいかしら……」 「えー、助かります、是非来てください!」 喜んで答える理穂に玲子は嬉しそうに頷くと帰っていった。
( 和也さんと関係がある人かと思ったけど、何でもないのか )
夜、その話を聞いた和也は ( 母さんか? ) 一瞬そう思ったが、そのことは考えないようにした。
自分がどれほど愛されているのかを知っている彼には、母の思いが痛いほどわかっていた。 会えば彼女は涙を流す、それを目にした自分は母の愛と自らの思いの狭間で辛い思いをすることになる…… それが解っている母は、自分の前には絶対に姿を見せない…… 幼い頃からこの母の愛情をあふれるほど受けてきた彼は、母がそう言う人であることをよく知っていた。 だから、ここを考え始めると、彼は前へ進めなくなってしまう。そのため、(母さんか?)という思いは彼の頭の中で直ぐに別の話題にすり替えられた。
その後、月に一〜二度のペースで足を運んだ玲子は、孫の寝顔を瞼に思い浮かべながら穏やかな日々を過ごしていた。 綾が歩き始め…… 言葉を片言で言うようになり…… 玲子は孫に会いに行くのが楽しくてならなかった。 時には手を引いて外を散歩することもあったし、綾の洋服を買ってくることさえあった。 話を聞いて、その女性が間違いなく母親であることを確信した和也は、幸せそうに綾に触れる母の笑顔を瞼に浮かべ、母への罪悪感が薄れていくことに安堵していた。
そのため 「洋服までいただいてしまって……」と気にする理穂に、 「いいじゃないか、その人の楽しみになっているんだろう、それを奪うのは気の毒だよ、こっちだって助かっているんだし、気持ちよく甘えさせてもらおうよ」 そう言ってただ一つの母の幸せを守ってあげたいと考えていた。
それぞれがそれぞれの思いの中で、何とか気持ちをやりくりしながら、一日一日と日が過ぎて行き、彩は二月で二歳になろうとしていた。
この間、綾に会いに来る玲子はとても幸せそうでだった。 時には綾が風で高熱を出して慌てる理穂に付き添って病院へいき、なかなか熱が下がらない綾に胸が締め付けられるような思いをしたこともある。 中耳炎になった綾を風邪気味な理穂に代わって一人で病院へ連れて行ったこともある。 幼い子の日々は決していいことばかりではないが、それでも玲子はこの孫と共有する時間が幸せだった。 自らが風邪をひいて咳が止まらない時は、どんなに会いたくても綾ちゃんにうつすと大変だからと、ひと月近く孫に会うのを我慢したこともある。
しかし、二歳になった綾が四月から保育園に通い始めることを聞くと、 確かに大事なこと! 頭ではそう理解しても、入園の四月が近づいてくると、春にも拘わらず心に風穴の空くようなやるせない思いに、家での玲子はふさぎ込むことが多くなった。
母のことを考えた和也は、保育園への入園をせめてもう一年遅らせたいと思っていたが、「そろそろ集団生活に慣れさせていかないと……」と言う理穂の考えももっともで、止む無く納得せざるを得なかった。 だが理穂も、綾に会うことを楽しみにしている女性のことが気にはなっていた。
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