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作品名:水面(みなも)に落ちた小石 作者:此道一歩

第5回   動き始めた思い
 かすかではあってもお互いに思いを抱えてしまった二人は、日々の生活の中で少しずつ歯車が狂い始め、笑顔で冗談を言い合っていたその関係はよそよそしくなっていった。

 和也は焦っていた。
( 俺のせいだ、彼女の笑顔がひきつっている…… 何とかしなければ…… )
それでも思い切りのつかなかった彼の背中を押したのは理穂の兄であった。

七月の初め、「理穂に内緒で会いたい」
彼女の兄、英一からの連絡を受けた彼は、午後二時、梅雨の雨が激しく降りしきる中、指定されたカフェに出向いた。

「和也君、君が来てからもう3ヶ月になる。店も順調でありがたいと思っている。君がもうあの店に欠かせない存在になっているのもわかっている」
「ありがとうございます。お兄さんにそんなに言っていただくとうれしいです。」
( 恐らく、理穂のことなのだろう…… )
そんな予感を持って出向いてきた彼は、
( 何を切り出してくるのだろう、場合によっては思いを打ち明けたい )
そんな決意を持っていた。

「非常に話しにくいのだが、理穂の気持ちには気づいているよね?」
彼はまっすぐな視線を和也に向けると、静かに念を押してきた。
「はい」彼は静かに目で頷いた。

「あの子は、高校の頃から祖母の店を手伝って遊ぶことはほとんどしなかった。だから彼氏がいたこともない。今の思いは、初めての経験だろうと思う。笑顔だけが取り柄なのに、最近のあの子はいつもあんなに辛そうな顔をしている…… もうこれ以上あんなあの子を見たくないんだ、勝手な話をしているのはよくわかっている。 だけど、もし君にその気がないのなら、静かに去って欲しい!」
 彼は苦しい胸の内を語った。

「お兄さん……」
「私たちは幼い時に両親を亡くして、祖母に育てられたんだ、今はその祖母も亡く、私にとってはたった一人の血のつながった肉親なんだ、わかって欲しい!」

低い声で続ける彼の持っていき場のない思いが痛いほど伝わってきた。

 和也は俯いたまましばらく考えた。
(いいのか、本当にいいのか、このお兄さんの思いに応えていいのか……
きっと会社へ戻るときが来るぞ、その時に理穂さんを不幸にするようなことにはならないのか?
いっそのこと話してしまうか…… いや、今は駄目だ、絶対に引かれてしまう……
でも、流れるべくしてここまで来たような気がする、それに理穂さんを諦めることはできない、絶対にできない!)

彼は呼吸を整えると
「申し訳ないです。はっきりさせないでずるずると来てしまいました。私は理穂さんと一緒になってあの店でずっと暮らしていくことができるのであればどんなに幸せだろうっていつも思っていました、でも……」
和也がそこまで話した時に英一が遮った。

「君が何かを背負っているのはわかっている。その先は話したくないんだろう、いいよ、そこは話さなくていいよ、罪を犯して逃げている訳じゃないだろ……」
「そんなことではありません……」
「じゃあ、いいよ! 話したくなるまで待つよ。だから、理穂への思いがあるのなら、あの子を今の泥沼から救い出してやって欲しい!」

和也の思いを知った兄は余計な弊害は排除したかった。
兄からすれば和也が大事な妹を託す男になるのであれば、彼の背負っているものを是が非でも知りたかったが、そのことが彼の妹に対する思いの弊害になるのであれば、待つしかないと結論せざるを得なかった。
兄の切ない思いであった。

「ありがとうございます。ずっと身動き取れずに悩んでいました。ほんとにありがとうございます」
 和也は胸のつかえがとれたようなさわやかな思いで礼を繰り返した。
「でも、将来、何があってもあの子を置いて出て行くようなことにはならないよね」
「もちろんです。絶対にそんなことはしません」
カフェを出ると、雨は上がり時折晴れ間がのぞいていた。

その夜、堤が破れたかのように運命の川がごう音とともに流れ始めた。

「理穂さん、後から話したいことがあるんだけど……」
彼がこんなことを言うのは初めてであった。

( 出て行くのかもしれない…… )
そう思った彼女は、胸が苦しくなって
「はい……」小さな声で答えるのが精一杯であった。

片付けが済んだ後、二人は店のテーブルで向き合っていたが、理穂は俯いたまま顔を上げなかった。
( 出て行くって言えば、気持ちよく送り出してあげよう )
気持ちの中でそんな思いきりが付いた時だった。

「理穂さん、結婚してくれませんか?」突然切り出した和也に
「えっ」顔を上げた彼女は何が起きたのかわからなかった。
「君とずっと一緒にいたい! 結婚してくれないか?」重ねる和也に
頭が真っ白になっていた理穂は、その言葉を理解すると突然両手で顔を覆って泣き始めた。
「ごめん、君の気持ちには気づいていたし、俺もずっと君のことを思っていた。でも気にかかることがあって……」
彼は理穂の隣に移動すると、彼女の肩に手を回し、包み込むように語りかけた。
「……」無言で顔をおおったまま頭をふる彼女だったが
「今は話したくないことがあって…… 」
「いい、そんなことどうでもいい! 一緒にいてくれるんだったら、どうでもいい、死ぬまで聞かなくてもいい!」
涙にぬれた目を上げて彼女は和也に抱き着いた。
その夜、和也は初めて二階へ上がり、彼女のベッドで二人は結ばれた。
その翌日、朝から晴れ渡った日であった。和也が二八歳の誕生日を迎える直前、二人は入籍し正式に夫婦となった。

電話で連絡を受けたエリカが母親にそのことを話すと、彼女は和也の実母の遺品をエリカに託した。
 和也の実母が彼の父から送られた婚約指輪は、一カラット、カラーグレードはE、カットはExellent、クラリティはIF、GIA発行の鑑定書がついていたが彼にはよくわからなかった。
彼は、「母の形見なんだ」と言って理穂にそれを渡した。
せめて写真だけでもという兄夫婦だったが、お金がないであろう和也を気遣って、理穂は頑なにそれを拒んだ。

こうして結ばれた二人は、幸せをかみ締めながら静かに時を刻んでいった。

理穂は夢のような毎日に、太陽のような笑顔を振りまきながら一日一日を過ごし、店も順調で固定客も増え、わずかではあるが売り上げも右肩上がりになっていた。

夏はサラリーマンの数は減るものの、学生の数がそれを上回り、何とか売り上げを維持することは可能であった。

秋になると、気候に恵まれた中、木曜日の休みには必ずといっていいほど二人で出かけた。
ショッピングをしていると、理穂は赤ちゃんを抱いた母親に目を奪われ、振り向いてまで二人を見つめていた。
彼女は子どもが欲しくてならなかったのだが、その兆候が表れないことに少しいらだっていた。和也は二八歳、自分は二四歳、子どもはその気になれば直ぐにできるものと思っていたが、世の中には妊活している人があまりにも多いことを知って驚きと不安に押しつぶされそうになっていた。

和也は不安を語る理穂に
「大丈夫、たまたま今はその時期じゃないだけ…… 色々なものが整ってくるとそういう流れになってくるよ、今まで一人で頑張って来たんだから、もう少し新婚生活を楽しみなさいって言っているんだよ」優しくそう言って慰めるのであったが、

「ありがとう、なんか安心した…… でも、それ誰が言っているの?」まじめな顔で尋ねる彼女に
「えっ!」驚いた彼も一瞬、誰だろう? と思ったが、
「俺が言っているから間違いない」と言い切った。

「もう、和也さん、結構いい加減なところがあるのね…… 昔もそうやって女性を口説いていたんでしょ、聞いたんだからね」
「えっー、誰から聞いたの?」
「知らないわよ!」
「ははははっ、理穂!」


ただ、この頃から時々ではあったが、和也は斎藤グループの社員たちのひそひそ話をよく耳にするようになっていた。
つい二〜三日前のことである。
「人事部長が、資料室に飛ばされたらしいよ」
「社長の命令らしいよ」
「違うよ、社長が何も言わないから、社長秘書が好き勝手やっているんだよ」
彼はこんな話を聞いて、少し不快感を覚えていた。
つい先週にも、
「また、社長命令だってよー」
「どうなってんだ、社長、ちょっとおかしいよ」
 こんな小声の会話を耳にしたばかりで、少し心配になっていた。
それでも、専務と常務が支えてくれるだろう、二人のことをよく知っている彼はできるだけ考えないようにしていた。

初めての正月は理穂の兄夫婦に招かれ、初めて理穂の両親と、祖父母の仏壇に手を合わせた。
義姉の実家から届いたという豪華なおせち料理をいただきながら理穂の高校時代の話に花が咲いた。
「この子はね、大学はやめてしまったけど、英語はペラペラなんだよ」兄が話すと
「そう言えば、いつかお店に外人が来て、困っていた時、彼女が何か話したら、直ぐに出て行ったことがあったなあ…… でもすごいなー どこで勉強したの?」

「独学なんだよ」
「えっ、ほんとなの?」和也が理穂を覗き込んだが彼女は小さく顔を振って微笑んでいるだけだった。
「とにかく外国人捕まえて話しするんだよ」
「えっ、それほんとなの?」
「お兄ちゃん、もう止めて、恥ずかしいから!」
「えー、私も聞きたい、理穂ちゃんってそんな娘(こ)だったの?」義姉が少し驚いたように尋ねる。
「いや、すごい、俺も聞きたいです」
「当時は、とにかく、道であったらすぐに話しかけるんだ、上手く話せなかったら、『あの人はきっと方言を話してたのよ』って言って、絶対に落ち込まない」
「はははっ、想像できない!」
「お兄ちゃん!」
「いいじゃないか、俺もあの頃はお前のことを尊敬していたよ」
「英会話のCD買ってやったら、いつも聞いてたし、外国人に会えなかったら、ホテルへ行くんだよ」
「なるほど、ホテルなら可能性高いですよね」
「一度はフロントで叱られたことがあるらしいよ、でもそこの外国客担当の女性が何か資料貸してくれたんだよな」
「そう、なんか接客用のマニュアル! これ覚えたら支配人に話してあげるって言われて……」
「それで覚えたの?」
「もう必死で覚えたわよ、それで支配人に許可もらって、土日は、制服着てその担当の人のお手伝いさせてもらっていたの……」
「でもお前、アルバイト料もらっていただろう」
「そう、一時間に二千円もいただいてびっくりしたわよ!」
「それは、それだけの価値があったんだね、その担当の人もだけど、その支配人もすごい人だね」
「いい人だったわよ」

「何がすごいって、女子高生に勉強させてやっているんだ、そのくらいの手伝いは当然だろうって考えるか、たとえ相手が女子高生であっても、その価値がある人にはその対価を支払うのか、そこだよね、勉強してそこまでの価値を人に認めさせた理穂もすごいと思うよ、でも女子高生のそれを受け入れたその支配人はすごい人だと思うよ」

「なんか、そんなに褒められると照れちゃう……」理穂は恥ずかしそうに俯いた。

「そう言えば、時々電話口で英語を話してる?」和也が思い出したように尋ねた。
「ええ、ホテルが困った時に電話してくるの……」
「えっー、それどういうことなの?」驚いた和也が続けて尋ねると

「ホテルだっていろんな英語を話せる人はそんなにいなくて、特に後進国から来た人の英語って、けっこういい加減なところがあるから、きれいな英語しか経験したことのない人はまず対応できないの、人手が足りなくてどうにもならない時には、電話口で私が通訳してあげるの…… 」平気でそんなことを口にする理穂を見て、三人は唖然としていた。

「えっ、何か変?」
三人がポカンと口を開けて自分を見つめていることを不思議に思った彼女が、皆を見回すように問い返すと
「ははははっはっ、お前、そんなことしていたの?」兄は笑うしかなかった。
「理穂ってすごい人なんだなー、感心するよ」

そして結婚して初めての春を迎え、暖かい日差しに幸せな日々を送っていた理穂は、子どもが欲しくてどうしようもない時期があっことも忘れ、GWには、休みをとって二人でどこかへ出かけたいと考えていたが、突然の吐き気に慌てて病院へ出向くと、妊娠していることを告げられ、幸せの上に覆いかぶさってきたさらなる幸せに、いくらかの不安を覚えたが、和也の笑顔がそんなつまらない思いは吹き飛ばしてしまった。


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