その翌週の月曜日、いつものように楽しそうに綾と手をつないで園の入り口にさしかかった理穂に町野正子が 「斎藤さんでしたわよね」と声をかけてきた。
「はい、おはようございます」 「あなたのお家には車は無いのかしら……」腕組みをした正子が斜(はす)に構えて蔑んだように尋ねた。
「いいえ、ありますけど…… 」
「この明麗(めいれい)保育園は格式ある有名な保育園です。徒歩で通うのはどうかと思いますよ」 両手を腰に当てた彼女は理穂に向き合うと威圧的になってきた。
「そうなんですか…… でも特に通園手段は規定されていないと聞いていますが……」
「そう言うことじゃないのよ、世間一般の見た目の話をしているのよ! この保育園にふさわしくない方が通っていることを周囲の方々が知れば、この保育園の格が落ちるでしょ!」 正子は驚かない理穂に苛立っていた。
「その周囲の方々って、どういう方なんでしょうか?」理穂は話していることがよくわからず、聞きなおしてみたが
「はあー」正子は呆れた様子だった。
「少なくてもここまでの道すがら、様々な方々と挨拶して登園していますが、いずれの方も笑顔で挨拶して下さり、あなたがおっしゃるような方はいないように思うのですが……」 できることなら争いたくない理穂が穏やかに、静かに答えるのだが
「そんな近所に住んでいる人だけじゃないのよ、この道を通勤で通う人だっているでしょ、そんな人が、みすぼらしい服装の母親が、この明麗(めいれい)保育園の制服を着た子供を連れて歩いていたら何て思うかしらね……」 正子は懸命に冷静さを保とうと、再び腕組みをして斜に構えた。
「何とも思わない…… と思うのですが……」理穂は応えに困っていた。
一見すると、穏やかでおとなしそうで、見る人によれば天然なのかと思わせるような雰囲気を醸し出している理穂は、正子のような人種からすれば、責めやすく、言いやすく、虐めやすいタイプに見えるのは否めなかった。 しかし、理穂のすごいところは、何が起きようと、自分の認識では理解できない理不尽な人間を前にしては、絶対に立ち位置をかえないということであった。
「何ですって、あなたは私を知らないの?」 ついに切れた正子が、再び両手を腰にあてると理穂を睨み付けた。
「すいません、来たばかりで…… 知りませんけど……」
「何ですって、国会議員、町野さんの奥様よ、失礼でしょ!」 取り巻きの一人が目を見開いて睨み付けた。
もう俯いて泣き出すのではないかと思っている正子は、顔色一つ変えずに淡々と話す理穂に苛々していた。
「何が失礼なのかわからないんですけど……」理穂はもう相手にはしたくなかったが……
「それが失礼なのよっ、国会議員の奥様なのよ!」
「ですけど…… そんな風に言っていたら、誰も一票を入れなくなるのではないですか……」
「何ですって!」
「少なくとも、私はご主人には一票を入れたくないですけど……」理穂は、一瞬、正子をちらっと見て、頭を下げて前へ進もうとしたが
「何ですって、今の言葉忘れないでよっ!」
正子は、この女はもう泣き出すのではないかと薄ら笑いを浮かべていたのに、思いもよらない反撃にあって、それも静かに申し訳なさそうにそんなことをはっきりと口にされて、ついヒステリックに叫んでしまった。
「すいません、忘れてしまうかもしれません…… 」理穂は振り向きながらそう言うと再び歩き始めた。
「待ちなさいよ、皆さん署名を集めましょう!」
「それが良いですわ、そうしましょう」
「国仲さん、署名の素案を作って下さるかしら」
「いいえ、私はいたしません。もうあなたのそばにいることも止めます。子供に恥ずかしいような生き方はもう止めます。私のことも併せて署名を集めて下さい」
「待ちなさい、忘れたの? また昔みたいになってもいいの…… あなたの子どもを辞めさすことなんて簡単なのよ、それでもいいの?」脅すような正子に
「お好きなようにして下さい……」彼女も意を決したように答えた。
「この方だけでなく、うちの娘も辞めさせてくださいな…… 少なくても園長先生はあなたに従うような方ではないと思いますよ、国会議員のあなたのご主人にどんな力があるのか知りませんけど、園長先生があなた方に屈するとはとても思えませんよ…… 失礼します」 矛先が国仲美鈴に向いたのを聞くと、理穂は再び立ち止まり正子に向って蔑んだように静かに言い放った。さすがの理穂も少し頭に来ていた
「待ちなさいよ、二人とも覚悟しておきなさいよ、絶対に許さないから!」
その様子を窓から見ていた園長は、部屋を出ると建物に入って来た理穂達を迎え、 「おはようございます。朝からご苦労様でした」とすがすがしい笑顔で挨拶をした。
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