和也たち三人が実家に移り住み、少しずつではあるが理穂の生活も形を整えつつあった。 そんな中で彼女は、娘の綾を特別な家庭の子供にはしたくなかったため、保育園については、公立へ転園したいと思っていたのだが、義母、玲子の強い思いに押され、和也たちが通った明麗(めいれい)保育園に綾を通園させていた。
綾が転園して、十日ほど経ったある日のことであった。 「あの斎藤さんは、どういう方なのかしらねー、徒歩で通ってくるなんて、この明麗(めいれい)保育園の名前に傷がつきますわよね、お車は無いのかしらね、服装もなんか質素で貧乏くさいわよね……」
町野衆議院議員の妻、町野正子が蔑むような目つきで、手をつないで楽しそうに歌を口ずさみながら門に入って来た理穂と綾を見ながら、周囲の取り巻きに語りかけた。
「おはようございます」笑顔で明るく挨拶する理穂に、取り巻きを含む五〜六人の母親たちは軽く頭を下げるだけであった。 「どうしてあんな人が入園できたのでしょうね? それもこんな途中で……」 取り巻きの一人が正子を覗き込むように話すと 「ほんとにね、また園長に聞いてみますわ……」 「あっ、あの人、確かお好み焼屋の奥さんですよ……」 「えっー、なんてことなの……」
夫の町野一郎は、早くに亡くなった父親の地盤を引き継ぎ、二十九歳で初当選したのだが、一年後の解散でも、議席をしっかりと守り、その後も無難に乗り切り、来年の任期満了に伴う総選挙に向けて四期目のために地盤固めに奔走している三十八歳の若手のホープであった。 当初は頭も低く、さわやかな好青年というイメージが強く評判も良かったのだが、三期目に入ると幹事長にもかわいがってもらうようになり、恐いものがなくなったのか、横柄な態度が目立つようになっていた。
夫が変わっていく中で、当然のごとく妻の正子も気を使ってくれる周囲の人達には上機嫌で、いつの間にか自分を特別扱いしてくれない人間を忌み嫌うようになっていった。
しかしここにも彼女をそうした人間にしたててしまった原因があった。 ある日、銀行に出向いた正子は、多くの客に紛れて順番を待っていたのだが、それを見た支店長が慌てて彼女を応接室に通し、平身低頭して、彼女の要望に応えたのであった。 気を良くした彼女は上機嫌で帰宅した。 それから何日かして、熱を出した息子を連れて、地域で最も大きな総合病院の小児科の待合で多くの人達に囲まれて待っていた時、病院の事務長がそれに気づき、彼女を別室へ案内すると最優先で子供を診てくれたのである。 再びこれに気を良くした正子は、その時以降、そうしたことを暗に求めるようになっていった。
話は戻るが、正子の取り巻きの中で、二十歳代の最も若い国仲美鈴は、過去の経験を思い出し、帰宅途中の理穂に話しかけてきた。
「斎藤さん、ちょっとよろしいですか?」 「あっ、はい」 二人は少し奥に入った所にある喫茶店で話し始めた。 「斎藤さん、健康のために歩いて通園されているんですよね?」 「はい、そうです。今の季節、朝は気持ちいいですよね」 「はい、実はわたしもそうしたいのですが、町野議員の奥さんが…… 」 彼女は取り巻き連中の話を持ち出して心配そうに状況を説明した。
「私も以前は歩いて通園していましたので、何かあるたびに嫌がらせをされて……」 「そうだったのですか、ありがとうございます」 「いいえ、恥ずかしいのですが、私も知らない間に取り巻きの一人になってしまって、なかなか抜け出せなくて……」 「大丈夫ですよ、そんな腐ったような人の勢いなんて、いつまでも続かないですよ。世の中、そんな風になっていますから……」明るく理穂が言うと 「でも、心配なんです。園長にも話すって言っていましたし……」 「園長がそんな人にしっぽを振るような人だったら、こちらから辞めさせてただきますから……」 「斎藤さんは強いですね……」 「だいたい、私はこんなところじゃなくて公立に行かせたかったのに、主人の母が是非にって言うからここに来たんです。だから、いつでも辞めますよって、そんな感じなんです。 だから国仲さんも気にしないでください」
その日のお昼過ぎ、園長を訪ねた町野正子は 「園長先生、こんなことは言いたくないのですが、この明麗(めいれい)保育園に徒歩で通うというのはいかがなものでしょうか」話し始めは比較的おだやかであった。
「町野さん、この保育園では通園手段の規定はしていませんよ。徒歩だろうが、自転車だろうが、全く問題はありませんよ」静かではあるが揺るがない園長の言い方に
「でも、高級車が並ぶ時間帯に徒歩の人がいるなんて、この明麗(めいれい)保育園の品位に関わると思いませんこと?」正子はすかさず追い打ちをかけた。
「そんなことは思ったこともありません。この保育園が世間様に認めていただいているのは園で育つ子供の資質です。元気で明るくて思いやりのある子を育てていきたいというのが当園の切なる願いです」依然として立ち位置を変えることなく、園長は淡々と話した。
「それはそうですけど……」
「綾ちゃんとお母様が手をつないで楽しそうに登園してくる様子を見たことはないですか。あのお母様には深い愛情を感じますね……」 園長は意識的に理穂親子を引き合いに出した。
「いえ、その斎藤さんですけど、どこかのお好み焼屋さんらしいですよ!」
「それがいけないのですか? お好み焼屋をしている家の子供はこの園に来てはいけないのですか。そんな規定はありませんよ。国会議員の子どもも、サラリーマンの子どもも、お好み焼屋さんの子どもも、皆同じ、皆大事な園児ですよ」 少し顔色を変えた園長であったが、最後は静かに締めくくった。
「私は納得できません、品格のある保育園だから息子を入園させたのに、主人に話してみます」正子は相当に激怒していた。 「そうですね、子どもさんの教育についてはご夫婦でしっかり話し合われた方がいいですね」
「そういう意味じゃありません!」彼女は言葉を吐き捨てるように退室して行った。
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