二日後、理穂は和也から呼び出され会社に出向いた。 初めて見る斎藤グループ本社に、会社は何階にあるんだろう、と思いながら入口へ入ると、正面にある受付に進み 「あのー、すいません、斎藤グループは何階にあるのでしょうか?」と尋ねたが、
「このビル全てが斎藤グループでございますが、本社のどちらへお越しでしょうか?」
「あのー、社長の所へ……」
「失礼ですが、お約束はされていますか?」
「いえ、具体的にアポイントは取っていないのですが、午後にと言われていまして……」 もう一人の受付嬢が直ぐに秘書室へ電話を入れて確認すると 「あの誠に失礼でございますが、奥様でいらっしゃいますか?」
「あっ、はい、お忙しいのに申し訳ありません」理穂が深々と頭を下げると
「失礼いたしました。お顔を拝見したことがなかったもので、誠に申し訳ございません」
「とんでもないです。主人がいつもお世話になっております」再び深々と頭を下げる理穂に
「とんでもないです。どうぞこちらへ」 そう言うとエレベーターへ案内され、七階へと向かった。
「あのー、主人は皆さんにご迷惑をおかけしていませんか?」 二人きりのエレベーターで理穂が尋ねると、
「奥様、とんでもないです。新社長が着任いただけるということで、社員がどれほど喜んでいることか、社内が一気に明るくなりました」
「そんなに言っていただけるとうれしいです。でも何かありましたら遠慮せずに言ってやって下さいね。言い難ければ私にご連絡下さい」
「奥様、何も心配なさらなくても大丈夫と存じます。でも何かあれば必ずご連絡いたします。もし、悪い虫が付きそうになったら、直ぐに連絡しますから……」
「ありがとうございます。心強いです」理穂は笑顔で応えた。
七階でドアが開くと、二人の秘書が待っていた。その内の一人はもと総務課長の栗山であった。
「奥さん、お呼び立てして申し訳ございません。社長とご一緒に聞いていただきたいことがございまして……」
「とんでもないです。でも栗山さんがそばにいて下さるので、すごく安心です。お好みしか焼いたことのない和也さんに社長なんてできるはずないって思っていたんですけど、栗山さんがそばにいて下さるって聞いて私も気持ちがすごく楽になりました」
「とんでもないです。私なんか、社長の手のひらの上でいいように踊らされています」
「栗山さん、あの日の『バカ息子』の連発で目が覚めたんですかね?」
「奥さん、それはもう言わないでください。社長があなたのご主人だってわかった時、私は心臓が止まるかと思いましたよ、ほんとに穴があれば入りたかったですよ……」
「いえいえ、ああいう風に言って下さる方がいないと、あの人は駄目ですよ。直ぐに都合のいい方を向いて、『これが自然の流れだ』とか言って小理屈並べますからね」
「奥さん、そんなことないですよ」
「いいえ、そこが心配です。何かわけのわからないこと言いだしたら直ぐに連絡くださいね。そこは栗山さんのお力になれると思いますので……」
「ありがとうございます。社長から何か言われるより心強いです」
社長室に入ると 「和也さん、すごい会社なのね、受付で斎藤グループは何階ですかって聞いたら、全部ですって言われて腰が抜けそうになったわよ…… 」
「そうか、あまり会社のこと話していなかったからなー、今日はちゃんと見学して帰ったら……」
「いやよ、恥ずかしいもの、わたしね、兄さんにね、中小企業は大変だから事務でも手伝おうかって考えているのって言ったんだけど、斎藤グループって知ったら、迷惑になるからやめときなさいって言われたの。何も知らないって恥ずかしいわね、ここのどこで事務手伝うのよね……」
「奥さん、楽しい、ほんとに楽しい、社長が幸せなのが解ります」
「えっ、そんなー、ありがとうございます」
「あっ、忙しいのにごめん、ごめん、店のこと?」
「はい、お店をどうされるかということなんですが……」
「えー、そんなことまで考えてくださるんですか、会社とは関係ないのに……」
「いいえ、全く関係ないとも言えないんです。社長にはあそこで息抜きされたいっていう思いがありますから……」
「えっ、じゃあ、私が続けましょうか?」
「奥さん、それはお許しください」
「そうですよね、社長の奥さんってわかったら大変ですものね、でも、昔から内のお好み焼が好きで、来てくださっている方もいるから、閉めるのも申し訳なくて……」
「そこでご提案なんですが、9月退職者の中に、あの店を引き継ぎたいという者がいまして、もともとはラーメン屋かうどん屋をやりたいと考えていたのですが、店舗を借りるだけでも相当に費用が掛かります。そのため、長年の夢をあきらめかけていたのですが、お好み焼も大好きな人で、夫婦でやりたいという確認は取っています。条件として、味を引き継いでくれることと、住居、店舗共で月六万円で考えています。もう少し高めでもいいかとも思ったのですが、退職後は収入も無くなり、厳しくなります。今の住居が八万円ということでしたので、六万円ならと思っています。なによりも人柄の良い人で、総務課で課長補佐をしている人です。途中で大病を患ってしまって、出世ができなかった人ですが、年下の私みたいな者でもちゃんと立てて下さって、人としては申し分ない方です。この提案は私からのお願いも含まれていますが、そこはご容赦いただきたいと思います」
「ありがとうございます。じゃ、レシピをお渡しすれば、今の味を継続して下さるんですね。うれしいです。何でしたら、もっと安くてもかまいませんよ、ねえパパ?」
「ええ、栗山さんがそんなに思われている方なら、ただでも構いませんよ」
「いいえ、そこはそういう訳にはいかないと思うのです。失礼ですが所有権を調べさせていただきましたら、亡くなられたお父様の名義のままになっています。理穂さんが嫁がれた以上、この店の所有権は、先祖を祀られるお兄様が引き継がれるべきものと推察いたします。従って、この家賃はお兄様にお支払いすべきかと存じますが……」
「確かに、おっしゃる通りですね、全く考えたことがなかった……」
「私も、それでいいです。あそこの店は私の物と思っていましたけど…… 確かに兄が引き継いでいくべきですよね、ありがとうございます。そんなことまで考えて下さって、ほんとに感謝します」
「とんでもないです。お二人とお兄様の了解をいただければ、社長のわがままを聞いていただくことも条件にして話を進めたいと思いますが……」
「お願いします。兄には私から話しておきます」
「お兄様の確認後でなくてもよろしいか?」
「それは大丈夫です」
話が済んで、送ろうとしてくれた秘書を七階のエレベーター口で制した理穂は、来るときに七階まで同行してくれた受付の女性に携帯番号を知らせておこうと思い、一階でエレベーターを降りて受付へいくと、そこで、外国人が何か言っているのだが受付嬢が理解できずに対応に苦慮している場面に出くわしてしまった。
『どうかしましたか?』 『この人達が理解してくれなくて困っています』 『何か、御用ですか?』 『この近くにお好み焼の店があると聞いてきたのですが、わかりません』 『この前の道を左に進んで、三つ目の角を右に曲がると、右側にあります』 『ありがとう、助かりました。日本では私の言葉は理解してもらえなくて困っています。あなたの英語は素晴らしい』 『よろしければ、私の携帯の電話番号を教えましょうか?』 『なぜ?』 『困った時に、電話で通訳できますよ』 『助かります、日本の女性は素晴らしい』 『でも、店は今はしまっています』 『来週の末には開きます。その頃まで近くにいますか?』 『京都に行きたいので、帰りによってみます』 『店が開いたら電話します』 『ありがとう』 『どういたしまして』
この間のやり取りを聞いていた二人の受付嬢は、ただ理穂に見とれていた。 彼女達も決して英語が話せないわけではなかったが、この英語は全く理解できなかった。
「奥様、すごいですね、英語ではなかったのですか?」
「いいえ、英語なんですが、恐らく後進国の方だと思います。文法に頼ると理解しにくくて、ちょっと癖みたいなものがありますね」
「奥様、尊敬します……」
「そんなー、あっ、携帯教えておきますね。虫が付きそうになったらお願いします」
「はい、責任を持って……」
「あの人、なんかすごいね、最初はおどおどして入ってくるから、どこの田舎から出てきたんだろうって思っていたら、社長の奥さんで、あんなおとなしそうな人で大丈夫かって思っていたら、英語ペラペラで、それもあんな訳の分かんない英語理解して…… ギャップがすごいね…… もう少しおしゃれすればいいのに……」
「そうだね、疲れたね」
受付嬢のボヤキだった。
その日の夜、理穂は兄に電話を入れ状況を説明した。
『あそこはお前の物だから、好きにすればいいよ』説明を聞いた兄はそう答えたが
『そういう訳にはいかないって、和也さんも栗山さんも、嫁いで家を出た以上、あそこは家を引き継いでいく兄さんにお返しすべきだって……』
『そうか、まあ月に六万何て、斎藤グループの社長からすればなんてことないか…… じゃあ、ありがたくいただくよ』
『そうして……』
『だけどさあー、そうなるんだったらちょっとお願いがあるんだけど、その六万円、杏子には内緒にしてくれないか?』
『どうして?』
『あいつ、墓を立てるとか言って、節約してさー、俺も小遣減らされて厳しいんだよ……』
『どこの家のお墓?』
『そりゃ、うちの中村の墓だよ……』
『何言っているの、感謝しなさいよ、隠し事なんてしたら罰が当たるわよ……』
『おい、理穂、頼むよ……』
『だめ!』
『やっぱりな、だめか……』
それから一週間後、臨時の取締役会が開催され、会長と、旧社長であるエリカの夫、隆の辞任が承認され和也は正式に代表取締役社長に就任した。  
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