「ここからは、新旧人事部長と、新人事課長ですので社長から一言お願いできますか?」 「はい、それはいいですが、吉田係長は?」 「彼は係長職ですから私の方で済ませます」 「できれば吉田さんにもお会いしたいのですが…… 」 「解りました、それでは新人事課長の後でお願いします」 新旧人事部長は、新社長の誕生をとても喜び気持ちよく社長からの辞令を受け取り退室していった。 人事課課長補佐の岡野が入室してくると、何も知らされていなかった彼は、人事課長に任命されて、 「とんでもないです。それはお受けできません。私は人事課の課長補佐でありながら、課長を止めるどころか、進言することさえできなかった。ほんとに恥ずかしいと思っています。できることでしたら、前人事部長がいらっしゃる資料室に行かせて下さい」 彼はここまで自分を責め続けてきたのだろうか、懇願するように話した。
「岡野さん、あなたはご立派だと思いますよ…… 家族がいるから仕方なかった…… 当然のことじゃないですか、家族をおろそかにするような人にいい仕事ができる訳がない。あの厳しいやりきれない人事課で、あなたが懸命にできることをしようとしていたことは皆さんが知っています。自腹を切って、お好み焼屋に頭まで下げて、それでも何とかなるものは何とかしたいと頑張っていたあなたは立派だと思いますよ」
「えっ……」 それを聞いた岡野は顔を上げて新社長を見つめると気が付いたのか目を丸めて 「社長、お好み焼の……」
「黙っていてすいませんでした。決して探っていたわけではないのです。私自身、できることならあの店で生きて行きたいと考えていたのですが、栗山さんに何度も『ばか野郎』って罵倒されまして目が覚めました」
「社長……」彼女は恥ずかしそうに俯いた。
「私はあの時のあなたの行動にはほんとに感激しました。人事はひとごと、文字を変えれば他人事、そう言う人もいますが、私は人事は心事、心のことだと思っています。苦悩や悲しみを知っていればこそ、心の籠った人事ができると信じています。あの人事課長のもとで苦悩に耐えてきたあなただからこそ、皆が納得できる人事ができると思っています。それに資料室長はここで人事部長に戻りますから……」 「えっ……」 「新しい人事課長があなただと言ったらとても喜んでいましたよ」
( 若いのにこの社長はすごい人だ、やはり血筋なのか…… この人のために頑張ろう、この人に恥をかかせるようなことだけは絶対にできない…… )そう思った彼は 「はい、そんなに言っていただいて光栄です。精一杯勤めさせていただきます」 心で強く決意していた。
彼が退室するとアジアから急遽呼び戻され、一時間前に本社に到着したばかりの吉田が入って来た。 何がどうなっているのかわからない彼はさすがに不安を隠せなかったが、それでも入室して直ぐに栗山に気が付くと、ほっとして微笑んだ。
「長い間、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」 和也が席を立って彼の方へ歩き始めると 「新社長です」栗山が唖然(あぜん)としている吉田に紹介した。 「あっ、いえ、とんでもないです…… 訳の分かんない奴がいない中で平和にしていましたから……」思わず本音の出た彼に 「馬鹿ッ」栗山が小さな声でいうと、 (しまった)と言うように彼は首をすぼめた。 「ここに座りませんか?」 「社長、それは……」栗山が言いかけたが 「いいじゃないですか、栗山さんもどうぞ……」 と彼に遮られた。 「それでは、失礼します」吉田も栗山に目配せされて彼女の隣に座った。
「私が愚かなばかりにご迷惑をおかけして、本当に申し訳なかったです。栗山さんに『バカ息子』と連発され、やっと重い腰を上げる決心ができました。でも所詮素人の私があがいても空回りするだけです。ここからは全てを栗山さんに一任して、彼女には影のドンになってもらいます。ただ彼女にも右腕が必要です。彼女はあなたを右腕にと申しでてきました。ぜひ彼女の力になって上げて下さい」
「えっ、私がですか?」 「ええ、彼女はあなたを一番買っているみたいですよ……」 「ほんとですか……」彼は栗山に目を向けたが、彼女は腕組みをしたまま目を閉じていた。 「本当ですよ、でもそれをあなたに伝えると、あなたが調子にのってしまうって思って、今怒っていますよ」 「えー、栗山さん、社長に腹立ててどうするんですか、だめですよ……」 「社長、こんな奴なんですよ、おだてたらだめですよ……」 「ははははっ、でも、良い人なのはわかります」 「はっ、恐縮です」 「ちょっと待ってください」彼はそう言うと秘書室に電話を入れて 「コーヒーを三つお願いします、一つは砂糖とミルクたっぷりで、後の二つはブラックで」 「……」 「はい、それでお願いします」 「ところで吉田さん、一つだけお願いと言うか、確認しておきたいことがあります」 「はい、なんでしょうか?」 「今後、栗山さんのもとで動いていただくことになりますが、そうした中で彼女の行動や発言の一部に納得できないことや、おかしいと思うことがあるかもしれません」 「はい……」 「そうした時、そこで意を唱えるか、聞き流すか、その差は何だと思われますか?」 「私は直ぐに口に出してしまいますが…… 普通の場合、信頼しているかどうかということじゃないでしょうか」
「私もおっしゃる通りだと思います。今後、もしそうした場面に出くわしてしまった時に、あなたが栗山さんを信頼しているのであれば、彼女を信じて上げて欲しいんです。彼女は今後多様な課題に取り組んでいくこととなります。彼女は、物事を点で見ることはしません、ある時は線で、時によっては面で事実をとらえていく人です。一点だけ見つめれば他にもっといい案があるように見えても、線で見た場合は、全く別の考え方を求められる場合もあります。今後彼女にとって何が一番つらいかと言えば、あなたに異をとなえられることだろうと思います。相手側が言うのであれば、何を言われても何てことはないと思いますが、右腕のあなたに異をとなえられると、立ち止まってあなたを理解させなければならない、相手があなたであればその労力は相当なものです。疑問が生じてもとりあえず彼女を信じて上げて欲しい。彼女はそれに値する人だと思っています」
「申し訳ないです、私の性格を知っておられて、やんわりとご指導いただいて、ほんとにありがたいです。おっしゃることはよくわかります。心してかかります。ほんとにありがとうございます」
「とんでもない、こちらがお願しているのですから……」
その時、秘書がコーヒーを運んできた。
「その甘いのは吉田さんに……」和也が言うと 「えっ、どうしてご存知なんですか?」栗山が驚いて尋ねた。 「いや、なんとなくそんな気がしたんですが……」 「えっー、社長、やっぱり変ですね、以前もわたしを総務課長だって言い当てましたよね……」 「そうでしたか、思いつきで言ったことはあまり覚えていないんですよ」 事実は、英語が話せる理穂に頼んで、現地事務所の女性に聞いて、彼についての情報を入手していただけのことである。
彼が退室した後、 「とりあえずスタートラインには立ちましたね。これから色々大変だと思いますよ、でも身体だけは大事にしてくださいよ」 和也が微笑んだ。
「社長……」何かを口にしようとしたが栗山は黙って俯いてしまった。 「どうしたんですか? 何かまだ気になることがありますか?」 「いえ、そうじゃないんですけど……」どうも煮え切らない。 「どうしたんですか、あなたらしくない……」 「全く失礼な話で申し訳ないんですけど…… 社長は大学を出て、修士、博士と進んで二七歳で家を出られて、そこからはずっーとお好み焼屋をされていたんですよね?」 「その通りですよ……」和也は栗山の疑問が解らなかった。 「今日の社長の話は、彼らの心に突き刺さったっていうか、彼らを感激させてしまったって言うか、彼らは『この人のためなら死ぬ気で頑張る』、みんなそんな思いで帰って行きましたよ……」 「そうだといいですね、もちろん町田と小橋は別でしょうが…… 」 「不思議なのは社長の言葉なんですよね……」彼女は真剣に言葉にした 「どういうことですか?」 「特に吉田への話はありがたかったです。あんなことまで気を使っていただいて涙が出そうでした。でもよく考えたら、わたしだけでなく、新旧人事部長も、岡野人事課長も…… あの吉田でさえ感激してかえっていきました。もう社長に心酔していますよ」 「そうなんですか?」 「社長は、どこかの企業で経験積んだわけじゃないですよね…… なのにどうしてあんな人を心酔させてしまうようなことが言えるんですか?それもタイミングよく…… どこで勉強したんですか? 私はそれが不思議でなりません」
「そんな所にまで頭が回るんですね…… 驚きました。お話ししますが、あなたの胸に留めておいて下さいよ…… 」 前のめりになり、さも話してはいけないことを話すような雰囲気で彼がそう言うと 「はい、もちろんです。やはり何か見えるんですか……?」 栗山もその雰囲気に、つい思っていたことを口に出してしまった。 「ははははっはっ、栗山さんがそんなこと言うなんて…… お腹がいたい」 和也が大笑いしたが 「いや、でも、どう考えても結論がでないですから……」栗山はいたって真面目であった。 「違いますよ…… 私の博士論文は大したことないんですよ、適当にやりましたから…… でも修士論文は性根入れてやったんですよ、それが『企業における人材とその活用』というタイトルなんです…… 今の私はその論文に乗っ取って動いています」
「はー そういうことですか……」彼女は気が抜けたように呟いた。 「そういうことなんです」彼は少し誇らしげであった。 
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