常務は、会長秘書と人事課長に、辞令を受け取りに来なければ賠償請求に踏みきると脅して彼らを来社させた。 その翌日、指示された十時に秘書室で待っていた二人の内、まず会長秘書が社長室に呼ばれた。
入室した彼は、ドアの正面に立っている栗山に目を向けた後、右手奥に座っている新社長の所へ向かおうとしたが 「そこで止まって下さい、私から異動の発令をいたします」彼女に厳しい声で制止された町田は一瞬、鼻で笑ったが、栗山の方へ向き直った。
「本日より資料室長を命じます。幹部協議の中で大半の意見は、あなたに損害賠償の請求をするべきということでしたが、新社長の一声でそれにストップがかかりました。新社長がおっしゃったのは、あなたも最初からあんなではなかったのだろう。彼にも家族がいるだろう。何とか訴訟だけは回避してあげたい、こういうことでした。そのため、幹部全員の意見として、まじめに勤め上げるのであれば良しとするが、今後何かあった場合は直ちに訴訟に踏み切ることを条件として社長の意にそうことといたしました。私自身も個人的な思いはありましたが、決定した以上は止むを得ずと考えています。従って今後は周囲の厳しい目で監視されることになると思いますが、最善を尽くして下さい」 彼女は機械的に話を進めた。
「幹部とは一体誰なんだ?」彼が不機嫌そうに尋ねたが、
「言葉に気を付けなさい、それにあなたがそんなことを知る必要はありません。私は社長の代理としてここに立っています。そのことがわかっていますか。異動初日から平気でそういう発言をされるのであれば私にも考えがありますが……」
「訴訟なんてできる訳ないだろ、何の証拠があるんだよ……」
「この二〜三日調べただけでも見積もりよりも高額で発注させ、そのバックマージンを受け取っているもの等、三億以上が確認できています。そこまでおっしゃるのなら、私も新社長を説得して訴訟の準備を進めますが…… よろしいんですか?」
最後の一言は威圧的であった。
彼は俯いたまましばらく言葉が出なかった。 「わかった、すまなかった…… 私は辞職したいのですが…… その場合はどうなる?」 「新社長の意向は聞いていませんが、社員でなくなった方に温情は必要ありませんので、直ちに訴訟に移らせていただきます。」 「新社長も同じ意見ですか?」彼は右奥に座っている和也に向って尋ねたが、 「私が責任を持って訴訟に踏み切ります。新社長が反対されても徹底的に行きます。個人破産したいのなら、お好きにどうぞ……」 「わかったよ……」 「それから、先日あなたが購入されたマンションには、一億円借り入れの抵当権を設定させていただきますのでご了承下さい」 「それは無茶じゃないか……」 「何が無茶なのよ、私はあなたの自宅や預金だって差し押さえしたいのよ、新社長の温情が解らないの!」彼女が声を荒げた。 「……」 「以上です、退室して下さい」
肩を落として俯いたまま出てきた町田を見た人事課長の小橋は (どうなったんだ、あんなに呆然として…… アジアにでも行かされるのか…… ) そう思って少し恐ろしくなったが、呼ばれるままに社長室に入った。
「そこで止まって下さい」栗山の言葉に彼は立ち止まったが、右奥にいる新社長を見ると俯いてしまった。 「あなたにはアジア支局へ移動していただくことになりました」 驚いた彼は目を見開いて顔を上げると奥にいる新社長に向って 「すいませんでした。あの試食の話はほんの冗談のつもりだったんです。ですから……」 今にも泣き出しそうな表情で訴えようとした彼は 「静かにしなさい……」 栗山によって遮られた。 「あなたはこれを報復人事だと思っているんですか?」 「違うのか……」
「言葉に気を付けなさい、あなたは課長職、部長職の私があなたに『違うのか』などと言われる筋合いはありません、加えて今私は社長の代理としてここに居ます。そのことがわかっていますか」 厳しい目つきで睨み付けると、彼は黙って俯くしかなかった。
「私個人の意見としては、懲戒解雇した上であなた個人に対して賠償請求を行うべきと考えていましたが、新社長は『もう一度あなたにチャンスを与えてくれないか』という思いを口にされました。自分が最も嫌だと思っていたアジア支局で、その嫌だった部分を改革してほしい、彼にはその部分が解っているはず、そしていつかアジアで活躍したいと願う社員が出てくるような支局にして欲しい、一度失った信用を取り戻すのは難しいけど、もし実績を作ることができれば、また一線で活躍できる日が来るのではないか…… あなたにだって家族がいるのだろうし、そのあなたに個人破産させるのは忍びない、こうした社長の思いがあっての異動なんですよ…… あなたは試食を持って来いといった人なのに…… 私には社長のこの優しさがわかりません。しかしながら、これが社長の意向ですから私も今までのことは水に流して忘れます。だからあなたも頑張って下さい! 以上です」
そこまで聞いた彼は涙を流しながら新社長に向って深く頭を下げると退室していった。
「二人への対応が全然違うんですね、聞いていて笑い出しそうでしたよ」
「会長秘書はとてもずる賢い人間です。頭も切れます。場合によってはわが社の傷口を見つけて、それをねたにゆするようなことだって平気でする人間です。ですから彼には何の画策もできないように、退職まで十字架を背負ってもらいます」
「なるほど、あの人を知っていればこそなんですね…… 」
「人事課長につきましては、彼は調子者のバカです。でも昔はやり手の営業マンだったんです。アジア支局がある以上、経費は掛かっていますから、放置しておくのもどうかと思います。もしお調子者の彼が何か実績を残すことができれば会社にとってもありがたい話です。どうせ経費が掛かるのなら、彼に一生懸命やらせてかすかな可能性でも0よりはましかなと思っています」
「あなたはほんとにすごい人ですね! 私は当分楽ができます。でも何かあれば絶対に私を使って下さい、私は死ぬまであなたについて行きますから……」 「社長、よして下さい、絶対に私の方が先に死にますから……」 顔を見合わせて二人は笑った。
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