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作品名:水面(みなも)に落ちた小石 作者:此道一歩

第18回   第五章 社長秘書、栗山奈美 【栗山の思い】
新社長に呼ばれた総務課長の栗山奈美は驚いていた。
常務から「東南アジアへの転勤はなくなったから」と聞いてはいたが、それでも社長直々に呼びだしを受けたことに、不安は否めなかった。

「失礼いたします」奈美は緊張気味にドアをノックした。
「どうぞお入り下さい…… お忙しいのに申し訳ありません」
新社長の何故か聞き覚えのあるようなさわやかな返事に少し救われたよう思いで入室すると、
「初めまして、総務課長の栗山でございます」
つい先日、お好み焼屋で《会長のばか息子》を連発していたこともあり、新社長の耳に入ること等はないにしても、その本人を前にして少し申し訳ないような後ろめたさも手伝って、彼女は新社長の顔を直視していなかった。

「初めてじゃないですよ、何度もお会いしていますよ……」
「えっ」呆然として彼を見つめるが、窓からの明かりが逆光になって栗山は全く分からない。
「えっ、わからないんですか?」驚いたように和也が笑いながら言うと
「申し訳ありません……」
「タコ玉はいかがですか」
「えっ……」目を見開いて驚いた奈美は、やっとお好み焼屋の亭主だと気が付くと、胸の奥から突き上げてくるような嗚咽に、一瞬鼓動が停止するのではないかと思うほど胸が締め付けられ、生まれて初めての冷や汗を経験した。
やや冷静になり、店で本人を前に自分が『バカ息子』を連発していたことが脳裏によみがえると、『参ったー』と言わんばかりに眉間にしわを寄せ、
「申し訳ありませんでした」思わず詫びてしまった。まさに穴があれば入りたいような心境であった。
「謝らないでくださいよ、あなたの言うとおりです。私が逃げている間に、家族だけでなく皆さんにどれ程ご迷惑をおかけしていたのか、よくわかりました。ほんとに申し訳なかったです」
彼が頭を下げると

「やっ、やめて下さい、穴があったら入りたいです」
彼女は顔面を硬直させ静かに顔を左右に振った。

「これまでご迷惑をおかけしたことは十分に認識しています。ここからは本気で頑張りたいと思っていますので、是非、力を貸して下さい」
頭を下げる和也を見つめて
(この人は誠実な人なんだ)そう思った彼女だったが、

「私にできることでしたら何でもいたしますが、所詮、私なんて何の知恵もないし、力もない人間です。先日、お店でお話ししたように、理屈だけしか言えない人間なんです」

「まあ座りませんか……」

テーブルを挟んで向かい合った奈美に向って
「いいじゃないですか、理屈が通っていれば正しいでしょう。理にかなわないことを平気でやる人間が多くいるのに、理屈があれば十分です。それに力はつければいい。社長という後ろ盾があれば何も怖いものはないでしょう」

「でも……」期待されても困る、そんな表情で奈美が返事に窮すると
「とりあえず、あなたには部長相当職の社長秘書をお願いしたい!」
「そんな…… 」
「無理じゃないですよ。とにかくあなたがおかしいと思っていることは、私の名前を使って全て手掛けて下さい。失敗してもかまいません、とにかく手掛けて下さい」
「社長、それは駄目です。一人の権力者を創り上げてしまいます」
「いいじゃないですか。会長秘書だって、力を悪用してしまったからあんなことになってしまいましたが、もし彼がその力を会社のために使っていたら、いい会社になったと思いますよ」
「でも私には……」

「ああした立場の人間は組織には必要だと思うんです。ただ問題はそこに位置する人間なんじゃないですか。あなたは反論に対しても耳を傾けることができる、決して個人的な感情では動かない、冷静に人を見ることができる…… 」

「でもとても自信がありません……」

「自信なんて必要ないですよ、成功しようがしまいが、思ったことをやってくれればいいです。責任は全て私が取ります。それに、あなたの人事案件については、あなたの意見を聞くつもりはありません、既に決定事項ですから……」

「はー 」消え入るような、ため息ともとれるような返事であった。
「あなたの意見を聞きたいのはここからです」
「はい……」彼女は背筋を伸ばして姿勢を正した。

「まず、アジア支局へは人事課長に行っていただきたい、彼についてはこれまでのことを調査して退職勧告することも考えたのですが、彼自身が最悪と考えている部署に彼を異動させるのが適しているのかなと考えました。
次に人事課長には人事課の課長補佐を昇格させたいと思っています。この二件はいかがでしょうか?」

「問題ないと思います」

「はい、では次なんですが、会長秘書をどうするか悩んでいます。単純作業がたっぷりあって、何の力ももてないような部署がありますか?」
「実は、前人事部長は誠実な人だったのですが、会長秘書に意見して、資料室に飛ばされてしまいました。もし発言をお許しいただけるのであれば……」
「言って下さい」
「町田秘書を資料室長へ、資料室長を人事部長に、そして人事部長を会長秘書にと考えられてはいかがでしょうか?」
「わかりました。その他に直ぐにでも何とかしたい人事案件がありますか?」
「その他は、特に急ぐ必要はないと存じますが、アジア支局にいる吉田係長をどういたしますか?」
「どんな人ですか?」

「年齢は三五歳、人事課長から私的な命令をされて、それを拒んだため転勤させられた人です。悪い人間ではないのですが、頑ななところがありまして、譲ればいいようなことでも譲らないんです。ただ頭は切れます」
「以前はどこにいたのですか?」
「人事課です」
「そうですか…… 私的な用事って何だったんですか、ご存知ですか?」
「はい、たばこを買ってきてくれって言われて……」
「人事課長がたばこ買って来いっていったんですか。それで言うこと聞かなかったからアジアにとばされたんですか」

「はい…… 私も彼には事あるごとに話してはいたんです。もっと賢くなりなさい、譲れない部分は仕方ないけど、どうでもいいようなことまで噛みつかなくてもいいでしょうって、でも彼は、あんな奴の下で仕事するくらいなら、アジアでもアフリカでも行きますよって……」

「はははっ、楽しい人ですね」
「はあー、豪快と言えば豪快で、馬鹿と言えば馬鹿なんですかね」
「栗山さんの片腕として育てるつもりはないですか?」
「それはもう、傍に置かせて頂けるのであれば安心ですし、何より頭が切れますから助かります」
「そうですか…… でもそんな人がそばにいてやりにくくはないですか?」
「それは大丈夫です、私の話は小理屈言わずにちゃんと聞きますから……」
「それでは、秘書室で受け入れてくれますか」
「わかりました。」

「大至急臨時役員会を開いて新社長誕生になりますが、私はもう明日からこの部屋に詰めます。この案を明日には、現在の社長名で発令しますので、直ぐに常務と打ち合わせして下さい」

「新社長は既に取締役だったんですよね」
「そうなんです。名前だけですけどね…… 明日からよろしくお願いしますよ」
「はい、精一杯勤めさせていただきます」

常務と栗山が打ち合わせをする中で、
「顔も見たくないのはわかるが、異動辞令は社長室で行うべきだよ、新社長はまだ正式に決定しているわけではないから、彼の立会いのもと、君がやるのが筋だと思うよ……」

「でも、出席するでしょうか?」できれば来てほしくない、そんな思いで彼女が尋ねると、
「私が言い含めるよ…… 」
「そうですか、わかりました」心配そうな彼女に
「何が不安なのかね?」常務が尋ねると

「自分でもよくわからないんです、地獄に落ちろと思ったこともあります、でもそんな個人的な思いはもう薄れています。社長秘書と言う立場でどうすればいいのかよくわからないんです」彼女は胸に絡まっている思いを打ち明けた。

「栗山君らしくないなー」

「常務、昨日まではアジアで何してやろうかと思っていたんです。こんなこと言うと叱られるかもしれませんが、常務や専務が会長の息子さんが帰ってくるのを信じていると聞いて、正直、あり得ないと思っていました。でも帰って来て、突然、社長秘書だって言われて、おかしいと思うところは全て改革してくれって言われて…… 私はまだ頭の整理ができていません。お恥ずかしい話ですが、これが今の私です。恐いもの知らずだった頃の総務課長が懐かしいです」

「はっはっはっー、君がそんなにしおらしいと笑うしかないよ……」
「常務」
「ごめんごめん、今、君がその立場で彼らに何を言いたいかね、思っていることを言ってごらんよ」

「はい、まず人事課長には、報復人事ではない、社長の温情であること、損害賠償をしないと決断した社長に感謝して、自分が最も嫌だと思っていたアジア支局で、その嫌だった部分を改革しなさい、そしていつかアジアで活躍したいと願う社員が出てくるように頑張りなさい。一度失った信用は取り戻すのは難しいけど、もし実績を作ることができれば、また一線で活躍できる日が来るかもしれない。こうした社長の思いがあっての異動なんだということを強調したいです……」

「栗山君…… 」
「はい…… やはりおかしいですか?」
「バカを言うんじゃないよ、二百点だよ」
「常務……」

「君はそういう思いや考えをいつも頭に持っている。社長はどう思うだろうか、専務や常務はどう言うだろうかなんて、そんなことは考えなくてよろしい。今みたいに考えていることを口にして実行していけばいい、私たちはもちろんだが、新社長もそれを望んでいる。
思ったこと、考えたことをどんどん実行しなさい」

「はい、ありがとうございます。」

「それから会長秘書はどうするかね、私はそちらの方が聞きたいんだが……」
「はい、彼はとてもずる賢い人間です。人事課長のようにお調子者のバカではありません。頭も切れます。彼は場合によってはわが社の傷口を見つけて、そこから糸口を見つけるようなことだってやるかもしれません。だから彼には絶対に息を吹き返さすことはさせません。そのため、資料室で真面目に勤めている限りにおいては個人的な損害賠償は控えるが、もし何かあった時には直ちに訴訟に踏み切るということを伝えて、退職まで十字架を背負わせます」

「すごいね…… 人を見る目は確かだね、彼にそんな力がないといって安心することはしない、危険な芽は徹底的に摘み取るかね」
「はい……」
「君を敵にはしたくないね……」
「常務……」


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