一方、屋敷を追い出された会長秘書の町田は帰社すると、直ぐに専務と常務に状況を報告した。 「まずいことに、息子の和也が屋敷に帰ってきそうです。今日は母親の見舞いに来ただけと言っていましたが、その内には帰ってきそうな感じです」 彼が鋭い目つきで話すと、顔を見合わせた二人は苦笑いした。 「どうしてそれがまずいんだ?」専務が尋ねると 「私は、近いうちにお二人の内、どちらかの方に社長に就任していただくべきだと思っています。いつまでも世襲にこだわるべきではありません。ここまで企業が成長したのに、未だに世襲を考えているなんて、世間の笑いものです。会社の将来のために世襲制は廃止すべきです。私はおそばにお仕えして……」 そこまで言った時に、 「君は何か勘違いをしているね」 専務が滅多には見せない厳しい目つきで彼を睨みつけた。 「えっ、どういうことでしょうか?」 驚いた彼が目を大きく見開いて尋ねると、専務は常務に目配せして、何とかしてくれよ、と言わんばかりに呆れたような仕草をした。 「それは会長の思いかね?」常務が尋ねると 「はい、会長はそう考えているはずです」 「違うだろ、それは君の思いだろ、自分が社長を祭り上げて、自分はその影で好き放題したいんだろ、それができると思っているんだろ?」 常務が厳しく突っ込むと 「いえ、そんなことは……」彼は下を向いて言葉に窮した。 「だいたい、君は何様なんだね、君にどんな力があるのかね……」呆れた専務が口を挟む。 「……」これまでとは異なった様子に彼は驚くばかりで言葉が出ない。
「今、会長秘書の立場にあるだけ、それだけだろ? 会長の意を知りたい皆が大事にしてくれるから、いつの間にか自分が偉い人になったような錯覚を起こして、自分はなんでもできる、そう思っているんだろうが、愚かにもほどがあるぞ…… それに、なんで君が次の社長をシナリオするんだ、それを君に全権委任するほど会長は愚かではないよっ!」 再び常務が蔑んだように話すと
「でも……」言い訳をしようとする秘書に
「それに、別に世襲制を重視しているわけじゃないよ。次期社長は和也さん、誰もがそれを認めているし、望んでいる。銀行の頭取だって、副頭取の時代から和也さんには一目置いている。次期社長は彼をおいてほかにいないって言い続けている。今の社長だって、会長が代表権を維持するし、和也さんが帰ってくるまでの暫定だということで何とか認めてもらっている。そんなことも知らずに、次期社長は私たちのいずれかだなんて、愚かな君の世界でしか通用しない話だよ」 専務が突き刺した。
「それに、お嬢さんにどうやって後悔させるんだよ、もし君が、明日から資料室長になったら、もう誰も君のことなんて相手にしないよ、職位っていうのはそういうものだよ」 エリカから連絡を受けていた常務は彼女に対して暴言を吐いた彼が許せなかった。
「だいたい、私達は社長になりたいなんて考えていないよ。早く跡取りを決めて身を引きたいんだよ……」専務の言葉に町田は俯いてしまった。
「君は、心ここにあらずの会長が全てを君に任せたのだと思ったのかもしれないが、今までの秘書だって、みんな任されてやっていたんだよ。息子さんが家を出てショックを受けた会長が何もやる気がなくなって、君はその隙を突いたように思っているがそれは違うよ。今まで社長秘書、会長秘書って言うのは、全権を任されても、トップの意向を汲んで、会社のために尽くしてきたんだ。君のように道を誤るものは一人としていなかったよっ!」 常務が話すと、驚いた彼は一瞬顔を上げたが再び俯いてしまった。
「君は人事課長を右腕のように思っているらしいが…… 」専務が言いかけたところで彼は顔を上げて 「はい、彼は優秀です。人望もあって頭の切れる男です」 「君は救いようがないね」専務は呆れたように呟いたが 「どういうことでしょうか?」 「二年前にアジアへ転勤になった係長の…… 」 「吉田ですか?」 「そうだ、その吉田係長が何故アジアに飛ばされたか、知っているのかね?」 「はい、彼は全く命令に従わず、注意をすれば仕事を休むような人間で、何度話しても同じことを繰り返すので、困り果てた人事課長が止むなく判断したと聞いています」 「その真偽は確認したのかね?」 「いえ、人事課長の決断ですから、問題はないと……」 「じゃあ、ほんとの理由は知らないんだね?」 「ほんとの理由って言われても……」 「彼はね、仕事中にたばこを買って来いって言ったんだよ、だけどそれに従わなかった吉田君に腹をたてて、アジアに飛ばしたんだよ!」 「まさか…… 」 「人事課の者はみんな知っているよ……」 「……」 「それから、今回の総務課長はどうかね?」 「はい、彼女こそ人望がなく、思い通りにならなければヒステリックになって、総務課の連中も困っている、だから一度海外を経験させてみたいと言うように聞いています」 「はははっ、おもしろいね、彼女には人望がないのかね……」 「はい、そう聞いています」
「ばかなことを言うんじゃないよ、彼女ほど部下から信頼されている人間はいないよ。将来は私の、この席に座る人間だよ!」 「えっー!」 「君たちはそんな人材を放り出すのかね……」 「すいません、直ぐに撤回させます」 「もういいよ、和也さんが帰って来たのなら、何も問題はない…… 彼が直ぐに動くよ」 「でも……」 「もう下がりなさい、今日を限りに君はもう会長秘書ではない、自宅で謹慎していなさい」 「それは会長の意向ですか?」 「私の意向だ」 「それでは会長の意向を確認させてもらいます」 「君はばかなのか、いつまでそんなことを言っているんだ。もう君は会長に会うことも連絡を取ることもできないよ! 」 「……」 「和也さんのことだ、場合によっては君たちのこれまでの悪行の数々を調べ上げて、会社が被った被害について、個人的に損害賠償を請求するかもしれないぞ、覚悟しておくことだな」
うなだれたまま部屋を出た町田は、 (何とかしなければ…… まだ何か手があるはずだ……)
彼は最後の頼みの携帯電話を取り出すと会長に電話を入れた。 『もしもし、町田です』 『何の用なの? その携帯は早く秘書室に返しなさい、いつまで持っているつもりなのっ』 エリカが冷たくあしらうと 『お嬢さん、すいませんでした。一度だけでいいですから会長と話させて下さい、お願いします』 『話したくないらしいわよ』 『そんな……』 『お疲れさま』そう言うと彼女は電話を切った。
頭に来た彼は、その足で社長室に向うと、秘書の制止を押し切って部屋に入り 「社長、あなたの奥さんは不倫してますよ、ご存知ですか?」 「はあー、町田さん、家でのことは家内から連絡を受けましたけど、もう止めた方がいい、あまりに見苦しいですよ」 「いや、あの一家に騙されているあなたが気の毒でならない」 「もう止めて下さい! 彼女はそんなことができる女性じゃないですよ!」 「証拠だってあります、ほら……」 彼は小橋から送られていた写真を彼に見せたが、 「兄じゃないですか…… 馬鹿らしい…… もう止めなさい。人間、引き際って言うのは大切ですよ。落ちた所からさらに落ちるのか、そこで留まって耐えるのか、これ以上は見苦しいですよ」
冷静であれば、とてもできるようなことではなかった。 ただ、わずかの間に崩れ去ったしまった牙城に、彼は我を見失ってしまい、頭が真っ白になった状態で感情に任せて右往左往してしまった。 役員室が並ぶ長い廊下を肩を落としてとぼとぼと歩きながら、もうどうにもならないと思った彼は、最後の愚かな一コマを恥じながら、人事課長の小橋に電話を入れた。 ( せめて彼にも覚悟だけはさせておこう ) 最初はそんな思いだったが
「はい、小橋でございます。お疲れ様です。町田さん、先だってのクラブのあの女の子はいかがでしたか? またどうですか?」 こんなバカなお気楽な話を聞いて
この馬鹿野郎が…… 腹の立った町田は 「お前、アジアへ行かせた吉田は、たばこを買いに行かなかったから飛ばしたのか?」 「えっ、町田さん、どうしたんですか? そんな話は誰かのデマですよ、まさか信じているんじゃないですよね!」 「しゃあ、今回の総務課長はどうなんだ、部下の信頼も厚いそうじゃないか……」 「そんなことはないです、すぐにヒステリックになって……」 「もういい、お前みたいな馬鹿を右腕にしようと考えた俺がばかだった」 「町田さん、何があったんですか?」 「会長の息子が帰ってくるらしい、俺はもう駄目だ、お前も覚悟はしておく方がいい」 「会長の息子って…… あの家出していた息子ですか?」 「そうだ、うちの本社近くにお好み焼屋があって、そこの若旦那をしていたらしい」 「えっー!」小橋は目を見開いたまま固まってしまった。 「おい、どうしたんだ?」 「いや…… その……」 「この分だと、俺の知らない所でお前も好き放題やっていたんだろうな、俺も他人(ひと)のことは言えないけど……」
こんなやり取りの後、町田は静かに家へ帰って行った。
一方、小橋は慌ててお好み焼屋へ出向いてみたが休業になっていた。 落胆した彼は、あいつが社長の息子だったとは…… と顔をしかめた。 帰社した彼は、他の店ではないかというわずかな願いを込めて、皆に聞いて見たが、近くにあるお好み焼の店は、和也の店一件だけであった。  
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