そして翌日の夜、最後の客が出て行った直後であった。 「遅くにごめんなさい、いいかしら?」 総務課長の栗山がやって来た。いつになく物悲しく重苦しい雰囲気を醸し出し、相当に疲れているようである。
「どうぞ、直ぐに火をつけますから……」 和也はそう答えると、彼女の様子を見ながら鉄板に火を入れたが、いつもとは違う空気に少し不安を覚えていた。 「ほんとにごめんなさいね……」傍に来た彼女は深々と頭を下げた。 「えっ、どうしたんですか?」 和也が不思議そうに尋ね返すと 「人事課長が訳の分からないこと、言ったんでしょ…… 私のせいでほんとにごめんなさい」 自責の念にかられている彼女は小さくため息をつくと、顔を上げて和也に目を向けた。 「いいえ、そんな…… 栗山さんに謝っていただくようなことじゃないですよ」
確かにあの日以来、斎藤グループの社員は誰一人として店には来ていないが、彼にはその事実よりも、たかが人事課長になぜそんな力があるのか、そのことの方がはるかに不思議でならなかった。 会社の中で何かが狂い始めていることを感じて彼は胸が苦しくなっていた。
「でもね、同じ企業で働く者としてね、ほんとに恥ずかしい…… 会社の恥をさらしているようで情けなくて……」 そこまで言うと彼女は目を伏せて、やるせない思いに深く沈み込んでいくようであった。 「そんな……」 ( この人は会社を愛しているんだなー ) そんなことを感じながら和也はそばを焼き始めた。 「えっ、どうしたの? タコ玉を食べようかって思ったんだけど……」 不思議そうに彼女が言うと 「いいじゃないですか、焼きそばで……」彼はそう言って奥からビールを出してきた。 「えー、ビールなんておいてたの?」 「売りものじゃないですよ、客商売していると嫌な客もいるんですよ」 「そりゃそうでしょうね」 「そんな日は、夫婦で飲んで、こんかぎり悪口言って、最後は笑いながら寝るんですよ」 「そうなの? そんな風にしてはけ口にしているんだ、すごいね」 「すごくはないですけど、腹にため込んで嫌な思いを継続してもねー……」 「そうねー」感心したように彼女が頷く。 「知らないうちにこんなことになってましたよ……」
「あなたはすごいと思うわ、奥さんと店を切り盛りして、かわいいお嬢ちゃんもいて、まろやかな客対応して、しっかりとこのお城を守っている…… 客商売の世界では一級品ね」 彼女は自らの境遇を嘆くかのように彼を褒めたたえた。
「できましたよ、つまみには焼きそばの方がいいでしょ、さあ、召し上がって下さい」 「ありがとう」 「乾杯しますか?」 向かいに座った和也も缶ビールを開け彼女の目の前につき出した。 「えっ、付き合ってくれるの?」 「もちろんですよ、栗山さんが暗いのは嫌ですよ」彼が笑いながら言うと 「上手ね……」にこっと笑った彼女の笑顔が寂しそうで彼は辛かった。 「いや、本心ですよ!」 「ありがとう、乾杯!」 「美味い」一口飲んだ和也が明るく呟くと 「来月には東南アジアに行くことになったの……」 栗山も苦笑いしながら軽く流すように言った。 「えっ、人事異動ですか?」 「そう、馬鹿人事課長にやられたの……」 「えっ」和也が驚くと 「あっ、ごめんなさい、つい出てしまった、ほんとにだめねー」 「とんでもないです。栗山さんがそんなこと言うなんて、よほどなんでしょうね。何となくわかりますけどね……」 「そうだったわね、あなたも被害者だものね」 「……」和也は彼女の目を見つめながら軽く頷くとしばらく沈黙した後 「一つだけお伺いしてもいいですか?」思い切って口にした。 「何かしら……」 「あの人事課長はどうしてそんなに権力をもっているんですか?」 彼は静かに言葉を確認するように尋ねた。 「えっ」思いもよらない質問に困惑した栗山はしばらく考えたが
「あなたには知る権利があるわよね……」 納得したように、そして自らに言い聞かせるように彼を見つめた。 「できることならお伺いしたいです」 会社の中でこんなことがまかり通っていることを思うと、彼は自分だけがここで幸せに暮らしていることに罪の意識を感じずにはいられなかった。
「彼は会長秘書の腰ぎんちゃくなのよ!」吐き捨てるように彼女が言うと 「えっ、でも会長秘書ってそんなにすごいんですか?」 彼の驚きようは尋常ではなかった。 「食いついてくるわねー」彼女は少し楽しそうだった。 「すいません、でもあまりの仕打ちだったもので……」 何とか聞き出したい和也は懸命に被害者を装い訴えかけた。 「そうね、会社の恥になるけど仕方ないわね」 「お願いします。絶対に他言はしませんので……」
しばらく沈黙があった。 栗山はどう切り出そうか、頭の中で整理しているようだった。
「会長がね…… 息子さんが家を出て以来、腑抜(ふぬ)けになってしまったのよ、それを良いことに秘書が全て仕切って、好き放題しているのよ……」 力なく彼女が切り出すと 「えー、でも社長だっているでしょ」 「社長も気の毒なのよね、会長の娘婿なんだけど、研究者なのについ最近社長にされて…… 頑張っているけどどうにもならないわね、この前も国会議員の町野が来て、偉そうに言われたらしい、会長秘書は町野ともつながっているらしくてもう大変よ」彼女は諦めているようだった。 「だけど、何とかしようとする人はいないんですか?」 しばらく考えた和也がすがるような思いで尋ねると
「ほんとにね、私もそう思うわよ…… 専務や常務は人格者よ、でも今回のことは見守っている…… さすがにとんでもないことになりそうな時は手を回しているけど、音無しの構えで待っているのよ」 「えっ、何をですか、会長がやる気になるのを待っているんですか?」
「いいえ、違うわ、彼らが待っているのは息子よ……」 彼女が吐き捨てるように言うと和也はどきっとしたが、思いこんだように床の一点を見つめながら話している栗山はその表情に気が付かなかった。
幼い頃から和也を見てきた専務と常務は、彼が父親との意見の食い違いから家を出たことを知っていたし、本社近くのお好み焼屋の娘と結婚し、そこで暮らしていることも知っていた。 だが何よりも彼らが理解していたのは和也の人間性であった。 ( 彼は必ず帰ってくる、逃げ出すような人間じゃない、それまでは下手な露払いなどせず、あるがままの所へ帰ってもらい、そこから手腕を発揮してもらえばいい ) 彼らはそう考えていたので、会長秘書の日常の悪行を一時的に抑え込むようなことはしなかった。
「息子さんてそんなに優秀なんですか?」
「それは知らない、だけど、あの二人は馬鹿よ! 逃げ出した息子を待っているなんて、私には考えられない…… 帰ってくるかどうかわからないバカ息子を待っているなんて信じられないわよ、だいたい息子は無責任よ、逃げたのよ!」 息子の話になると、彼女の怒りがどんどん増してくる、それに伴って和也も申し訳なさから息苦しくなっていった。
「でも喧嘩でもして、家を出たんじゃないんですか?」 自分の行為を正当化したくて彼は尋ねてみたが 「何があろうと無責任よ! 斎藤の長男に生まれたんだから責任があるでしょ、扇の要(かなめ)が逃げ出したらレースにならないわよ」 少し酔いが回っているのか、彼女の本音が次から次へと飛び出してきた。
(俺はこんな風に思われているのか…… ) そう思った彼は矛先を変えようと思い 「なんか、難しいですね」と話を遠ざけようとしたが
「難しくないわよ、座るべきものが要の位置に座らないと、周りの者達の中に野心が生まれてくるのよ。扇の美しい図柄は要があって初めてきれいに開くのよ、要がしっかりしていないと扇はばらばらになって美しい図柄なんて意味がない。企業なんてそんなものなのよ。みんな扇の図柄の美しさに目を奪われても、その要を見る人なんていないでしょ。だけどその美しい図柄は要があってこそ……なのよ」
「なるほど、いいお話しですね。息子が馬鹿でも優秀でも関係ない、息子が要に座れば全て上手くいくということですか……」
「そのとおりよ、まあ時にはばかやる奴もいるかもしれないけど、あれだけの大企業になると要がしっかりしていればそんなことはなんでもない…… 企業がぐらつくようなことには絶対にならない。でも正直、今のこの状況は大きな亀裂の第一歩のような気がしてならない…… 」
彼女は既に三本目のビールに口を付けていた。
「あなたはサラリーマンにならなくて良かったわね。私なんか疲れてしまってもうこの会社にも愛想が尽きたわ、誰もあの秘書と、馬鹿人事課長を止めることができない…… もういつでも辞めてやるわよ!」 「栗山さん……」 「あっ、ごめんなさい、愚痴になってしまった…… 私ももうだめねー、部外者にこんなこと話してしまって、管理者失格ね、アジアがにあっているのかもね」 「でも、栗山さんは絶対に投げ出さないでしょ、最後まで筋を通して戦うでしょ」 「そうしたいわよ、でもね、理屈だけこねたって力がないのよ、後ろ盾があるわけじゃなし、株持っているわけでもないし……」 「そんな悲しいこと言わないで下さいよ、会社のこと愛しているでしょ、伝わってきますよ」
「そりゃ、確かに四年前までは愛していたし、この企業の一員であることに誇りを持っていた。仕事が楽しくて、結婚なんて考えたこともなかった。女性でも四0歳を前に課長にしてもらって、毎日がすごく充実していた。でも当時社長だった会長がおかしくなって、とんでもないことがまかり通るようになって、あがいてみたけどどうにもならない、心ある者が次々排除されて、それでも誰も動かない、馬鹿ばかりよ、私に社長させたらいい会社にしてあげるのに……」
「おっ、言いましたね」
「言うわよ、もうやけくそよ…… でもね、常務に呼ばれて言われたのよ、『辞表出してくれ』って、『危ない子会社があるからそこを立て直してくれ、息子が帰ってきたらすぐに呼び戻すから』って、だけど断ったわ」
「えっ、どうしてですか?」
「最後まで見届けてやろうって思っているの、専務と常務が言うように、彼らが待っているバカ息子がほんとに帰ってくるのかどうか、もし帰って来たとしたら、何かやるのかどうか、それともあのバカ秘書に丸められてバカ丸出しで生きていくのかどうか、絶対に最後まで見届けてやろうって思っているの……」
「誰が一番悪いんですか?」 「そりゃーバカ息子よ!」 「やっぱり、そうですよね」和也はその言葉に苦笑いした。 「この店には何か潜んでいるんじゃないの? 私はこんなこと外で話す人間じゃないのよ、何かべらべら話をさせられたような気がする……」 「栗山さん、心霊スポットじゃないんですから……」 「そりゃそうね、でもすっきりした。帰るわよ、いくら?」 「今日はいいお話しを聞くことができましたので結構です」 「そうなの? ごちそう様……」
彼女が帰ると 「栗山さん、相当参っている感じね……」厨房から出てきた理穂が心配そうに呟いた。 「そうだなー、サラリーマンは大変だよね」 「和也さん、社長してあげればいいのに……」 「おもしろいねー、でも俺が社長になったら、社長夫人の君は、この店をどうするの?」 「そりゃー一人で頑張るわよ」 「すごいね、その内に『味を求める客のためにお好みを焼き続ける社長夫人』とかなんとか、週刊誌に出たりして……」 「ばからしい、もうお風呂入るわよ」 「おいおい、理穂が言い出したんだろう……」 「だめだめ」 そう言いながら奥へ歩いていくその背中が 「あなたの冗談に付き合ってはあげるけど、私だって忙しいんだからいつまでもという訳には行かないわよ」と語っているようで、彼はもう少し盛り上がってみたかったが静かに腰を上げた。
( 結婚を申し込んだあの日、泣きながら抱き着いてきたあの女性は、子どもを産んで母になって、こんなにたくましくなって、それでも自分に対する細やかな心遣いは絶対におろそかにしない…… よくも理穂に巡り会えたものだ…… 親父が勘当してくれたおかげかな……)
そんなことを思いながらも、『バカ息子』といい切った栗山の言葉は、彼の心に突き刺さっていた。
( もう帰るしかないな…… )
栗山の話にそう思った彼は、愚かな理論武装を考えるのは止めて、理穂に話し始めた。
「理穂、明日の休みなんだけど一緒に行ってほしいところがあるんだ……」 「どこなの?」 「……」 「えっ、どうしたの?」 「ごめん……」 「どうしたの? 何か困っているの? 何を迷っているの?」 「ごめん、何から話せばいいのか、まだ頭の整理ができてないんだけど…… ほんとは家族がいるんだ……」 「えっ、家族はいないって…… 天涯孤独なんだって、言ってたのに…… 」 「ごめん、両親と妹が居る……」 「えっー、挨拶もしていないのに! 結婚して子供までいるのに…… 」 「ごめん、親父から勘当されているんだ…… ただ、母さんの調子がよくないみたいで…… 」 「えっ、それは大変じゃないっ、病気なの?」 「わからない……」 「じゃあ早く行かないと!」 「うん、明日一緒に行ってくれないか?」 「もちろん行くわよ、綾だって早く会わせないと……」
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