理穂は一瞬目を疑った。突然の鼓動に胸が苦しくなって見つめたその一点から目を反らすことができなかった。
ゴールデンウイーク明けの木曜日、店は休日、朝方、小雨がぱらついたが十時前には太陽が顔を覗かせ暖かくなりそうな一日であった。 和也が出かけたため、理穂が外で昼食を済ませ買い物をしていた時のこと、ふと、顔を上げると店の窓越しに、彼女は高級車の助手席から降りて来る和也を目撃してしまった。 道路の反対側ではあったが、笑顔で片手をあげお礼を言っているのであろう彼は別人のようで、運転していた美しい女性は、歳は自分と同じぐらいなのだろうが、一目で住んでいる世界の違いが痛いほど伝わってきた。 そこは理穂の店からは、二百メートルほど離れた所であった。
( 明かに私に見られないようにしている! 彼女なの? なぜ隠すの? はっきり言ってくれたら私だって気持ちの整理ができるのに…… 彼女の両親に反対されて影でこそこそしているのだろうか? でもそれだったらなぜ私に隠すの? 彼女がいることを知られたら追い出されるって思っているの? いや、そんな人じゃない! 彼女は誰なの……? )
その日から理穂の思いは、想像もできないような速さで膨れ上がっていった。
( 彼はいつか出て行くかもしれない、いやきっと出て行く。 私みたいなお好み焼屋の女が彼に似合うはずがない、もう止めよう。 だんだん辛くなっていく、もう止めようこんな思いは…… 店を手伝ってくれているだけでありがたい、それでいいじゃないの…… )
思いを懸命に打ち消して、諦めようとすればするほど、色を濃くしてくるその思いに、もう身動きが取れなくなってしまった彼女はただ迷路をさまよい続けていた。
その翌週の月曜日、和也が買い出しに出かけた後、午後二時過ぎのことであった。 高級感あふれる明るい紺色のスーツを身にまとった美しい女性の来訪に、理穂は驚いた。 「よろしいですか?」穏やかな笑顔で尋ねる女性に 「はい、どうぞ」 微笑んで応えた理穂ではあったが、その客が先だって和也を送って来た車を運転していた女性に何となく似ているような気がして、彼女は動機が打ち始めていた。
「あの、ソースの臭いが衣服にしみこむかもしれませんが…… 」心配そうに囁(ささや)いた理穂を遮って 「大丈夫です。評判のいいタコ玉が食べたくてやってきたんです」 笑顔がとても素敵な女性であった。
( 和也さんが好きになるわけだ、私なんか足元にも及ばない。でもほんとにあの時の女性なの? ) 「このお店はお一人でされているんですか?」さわやかに尋ねる女性に 「いえ、従兄が手伝ってくれています」理穂は軽く微笑みながら答えた。 「そうですか、とてもきれいにされていますね」あたりを見回しながらその女性が感心したように言うと 「あっ、はい、ありがとうございます」 理穂は、お礼を言ったものの、なにか観察されているよう感覚の中で、 ( あの時の人なんだろうか…… 何しに来たのだろう…… ) そう思って不安が募るばかりだった。
しかし、彼女には尋ねる勇気もなかったし、尋ねてはいけないようにも感じていた。 この不安が連鎖を引き起こし、彼女はますます深いところに沈み込んで、その深いところでいつも、いつかはいなくなる人なんだから…… そう言い聞かせて気持ちに区切りを付けようとしていた。 だが、彼女は決意で打ち切ることができるほど、人の思いが単純でないことをいつも思い知らされて大きくため息をつくのだった。
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