「でも三年とは、すごくかかりましたね」 空気を変えたいと思った妻が突然語りかけた。 「自分でも驚いています、でも私にとってはあっという間だったんです。 実家に帰って、北海道の大地で、毎晩夜空に向って彼女に語りかけて、彼女の思いを汚していないか、こんな想像してもいいかとか、一行一行とても大事に創り上げたの…… 一節を綴るのに三カ月かかった所もあった。 奈津子さんのお母さんは私の中の奈津子さんを書けばいいって言ってくれたけど、やはり本当の奈津子さんを想わないと書けないのよね。ただ、最後に読者が彼女の思いを引きずるようなことになってしまえば、その時は断念しなければ…… とも思っていた。全体の骨格は考えずに書き始めたのに、できあがった物語は、見事なまでに洗練されていた。恐らくそれは、彼女の思いが一点の曇りもなかったことを意味しているんだろうなって思ったの。 『地の果てから』を書きあげた時とは全く違って達成感よりは安堵する思いの方がはるかに大きかった。 読み返してみて、私は自らが創り上げた物語に涙して、愚かにも自分が頑張らなくては、って思ってしまって……」
「それは愚かではないですよ。その価値があると思いますよ。あの『地の果てから』は確かにすごい作品でした。小説を読んであんなに感激したのは後にも先にもありませんでした」
「ありがとうございます」彼女はうれしそうだった。
「夫の思いがあるから冷静には読み切れなかったかもしれないけれど、それでもこの奈津子さんと夫の物語は、あの『地の果てから』を越えている…… すごい物語を創り上げたなあって感心する一方で、あの『地の果てから』を創り上げた長崎明子が、私の夫を描いてくれた。夫の思いは痛いほどわかっていたけど、沈黙していたあの長崎明子が他の女性とのかかわりの中ではあるけど夫を描いてくれた…… おかしいかもしれないけど、私はこのことが何よりうれしかった。少なくとも天才、長崎明子の目に夫はこんな風に見えたんだと思ったら、夫には申し訳なかったけど、私はあなたに心からお礼を言いたいです」
「亜由美……」
「あなたごめんなさい……」
「いいよ、俺も長崎さんの話を聞いていて、この物語のエンディングの意味が分かったよ、 本当に申し訳なかったです。あなたの葛藤も知らずに勝手なことを言ってしまって……」
「とんでもないです。 でも真木一樹に納得してもらって、初めて、私の物語は完結したような気がします。ここからは、この物語が読者の方々の力になれることを祈るだけです」
穏やかな空気が流れ、それぞれの思いやわだかまりが不思議なように消え去り、その余韻にしばしうっとりとしていた時 「一つだけ、お伺いしてもよろしいですか?」亜由美が突然切り出した。
「どうぞ、何でも聞いて下さい」
「どうでもいいような話かもしれないんですけど、今回の出版は皆藤社ではないですよね、 あまり聞いたことのないような……」
「そうです、山?書房です」
「編集者は同じなのに…… そこにも何か、思いがあったのですか?」
「奥様はすごいところに気が付くんですね、ご主人からいっしょになった経緯(いきさつ)もお伺いしましたよ」
「えっ、そうなんですか? パパ、何を話したの?」
「えっ、いや、その……」
「あなたなんて何の取り柄もないんだからね、わかっているの? 空を飛べるわけじゃないし、百m十秒で走れるわけじゃないし、あなたの取り柄はたった一つだけ、私と巡り会ったことよ、そのたった一つの取り柄を捨てるつもり? 」明子が微笑みながら言うと
「えっー、恥ずかしい、パパ、もう」妻はそういって軽く彼の背中をポンと叩いた。
「ごめん……」
「あの時、こんな人にかなうわけないって思いましたよ、きっと奈津子さんもそう思ったはず…… 」
「えー、ほめられているんですか?」
「もちろんですよ、真木一樹は、あなたといるから幸せなんですよ。今のお二人を見ていると、奥様と出会ったのが真木一樹の最大の取り柄だって思いますよ」
「何か、不思議な気持ちですけど、うれしいです。天下の長崎先生にそんなに言っていただいて光栄です」 妻はとてもうれしそうだった。
「ごめんなさい、話がそれてしまって…… すごいなと思ったら思い出してしまって!」
「あっ、いえ、大丈夫です」
「物語に納得した私は、彼女のご両親の許可を取ってから出版したかったから直ぐにご両親を訪ねたの。 三年も経っていたから諦めていたのでしょうね、完成の話を聞いてとても喜んでくれたけど、ご両親は『あなたが描いた物語の主人公について私たちが云々言えるものじゃない、私達はできあがったものを読ませていただきます』って……」
「それはそれで何かすごいですね」
「ええ、それを聞いて思ったの、ここまで来てそれでも私には覚悟がなかったのね、ご両親が納得してくれれば安心できるって思っていたのね。でも、何かすべてがすっきりしたような気持になって、さっそく『地の果てから』を出版してくれた皆藤社に連絡したら、当時の編集者は退職していて、『後を引き継いだ方に』ってお願いすると、編集長に軽くあしらわれてしまって…… ただ別の出版社ということになれば、時間がかかるし、編集者のことも心配だし、少し参ったなって思って、携帯に残っていた当時の編集者の加藤さんに祈るような思いで電話を入れたら彼女が電話に出てくれて、私の番号はまだ残していてくれていて、ほんとにうれしかった。この物語はやはりこの人と出版したいと思ったの」
「そんな背景があったのですか……」
「小さな出版社だけど楽しくやっているみたいで、第二作目ができたって言ったら、電話口で泣いて下さって、直ぐに読んでくれて、すごく感激してくれたの。『この物語は一作目をはるかにしのぐ、うちでいいんですか? 皆藤社じゃなくていいんですか?』って聞いてくれて、だけど三年をかけて完成した作品だし、色んな人の思いがこもっているから、人の思いが伝わらない皆藤社では出版したくないと思って彼女にお願いしたの」
「奈津子さんのご両親はこの物語を読んだのでしょうか?」一樹が静かに尋ねた。
「はい、直ぐにお手紙をいただきました」
奈津子の両親から届いた手紙には 『ありがとうございました。素晴らしい主人公に感激しました。娘の死から未だ立ち直れず、ただ老いを生きていましたが、あなた様の完結した奈津子に触れて、また頑張らないとって、ほんとうに思うことができました。ありがとうございました』 とあった。
帰り道 「これで良かったんだよな……」独り言のように呟(つぶや)いた彼の表情は、忘れていたとは言え、心の片隅に残っていたわずかなしこりが消えたのだろうか、とてもさわやかだった。 妻は、三人で歩く姿を遠目に思い浮かべ ( やはり奈津子さんの思いだったんだ。彼女の思いがこの幸せな家族を創ってくれたんだ。感謝しないと…… ) そう思った彼女は微笑んで空を見上げた。
一方、サイン会の翌日、会社でお昼のチャイムが鳴ると、立ち上がったクレオパトラが突然一樹に向って 「あなたの奥さんて、やはり長崎明子だったのね。以前は知らないって言っていたくせに!」と蔑むように言葉を投げ捨てた。
「えっ、どっ、どうしたんだ……!」 突然のことに彼は慌てたが、しばらく考えて静かに微笑んだ。
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