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作品名:ただ話したいだけなのに 作者:此道一歩

第5回   真 実
 事件から間もなく三年になろうとしていた。

 時は静かに流れ、家庭の中では二歳になった愛娘の未祐が笑いを振りまいていた。
 その日も娘の昼寝に寄り添っていたはずの妻が、一冊の本を持って慌てて彼のもとへやって来た。
「パパ、この本、この本読んで!」
 
 久しぶりの張り詰めた声に驚いた一樹は
「どうしたの? そんなに慌てて、未祐が起きるよ……」
 そう言って差し出された一冊の本を手にして目を見張った。
 その本の帯に奈津子が顔写真付きで載っていた。

【七年の眠りから目覚めた気鋭の才女…… 
  長崎明子が三年の歳月を費やして書き上げた渾身の物語『ただ話したいだけなのに』
  既に映画化も決定!
  あの『地の果てから』をしのぐ物語に、あなたは巡り会える…… 】

「奈津子さんだっ……!」

「えっ」

「この人が奈津子さんだ」彼は唖然(あぜん)としていた。

「この長崎明子が奈津子さんだったの?」

「……」彼は静かに頷いた。

「えっー、驚いたわねー、でもとにかく読んでみて……」

 夕食も取らずに一気に読みほした彼は怒りに唇を震わせていた。
 紛れもなく、奈津子と自分の物語であった。
 それは最後に身代わりを務めたホステスが墓前に報告するところで幕を閉じていた。

「許さない、絶対に許さない……」彼はそう呟きながらかつて見せたことのないような形相で一点を見つめていた。

「あした、北都ホテルでサイン会があるみたい…… 行ってみる?」

「行ってもいいのか?」

「もちろんよ、わたしもついていく……!」


 その夜、ベッドで横になった亜由美は目を閉じたまま思いを巡らしていた。

( あの『地の果てから』はすごい作品だった。あんなにリアルに人の情念を描くことができるものなのかと感銘を受けた。読むたびに情景が瞼に浮かび、まるで瞼の裏で映画を見ているかのようだった。
小説を読んであんなに感激したことはない。
でも、あの物語を創り上げた長崎明子が、私の夫を描いてくれた。彼の思いは痛いほどわかるけど「もう済んだ」と言われていたのに、あの長崎明子が他の女性とのかかわりの中であっても、夫を描いてくれたことはうれしい。
彼の思いがあるから冷静には評価できなかったけど、それでもこの奈津子と夫の物語は、あの『地の果てから』を越えているような気がする…… すごい物語を創ったなー…… 
でもこの人の明日の物語はどうなるのだろう……  )
そう思って彼女は隣のベッドで、眠っているのか、目を閉じたまま何かを思っているのかわからない夫に静かに目を向けた。


 翌日、北都ホテルでサインを求める列に並んだ一樹はじっと明子を見つめていた。
 順番が来て、目を上げた彼女が彼に気付くと、彼女は唇に人差し指を立て、『内緒』と言わんばかりであった。
彼はここでは話せない、しばらく待とうと思って、サインしてくれた本を受け取ると静かに立ち去ったが、すぐに追いかけてきた出版社の人に呼び止められた。
「失礼ですが、真木一樹さんですか?」

「はい、そうですが……」

「長崎がぜひお話ししたいのでお時間をいただきたいとのことですが……」

「私も話したいです」

「三時にはサイン会も終了しますので、それまでお待ちいただくことは可能でしょうか?」

「わかりました。それでは一階のラウンジで待っています」

 ラウンジへ降りると、出版社の者から連絡があったのだろうか、彼らは人目につかないように仕切られた一角へ案内された。


 一方サイン会場で、長崎明子の前に立った最後の一人は、あの一樹と同じ部署で仕事をしているクレオパトラであった。
 今現在も同じ部署なのかどうかはわからなかったが、彼女は三年前と全く変わることなく美しかった。
 彼女に気が付いた明子は
「真木の家内です。主人がいつもお世話になっています」
と立ち上がって深く頭を下げた。

「あっ、いえ、こちらこそ……」
 クレオパトラは冷静に対応したつもりであったが、驚きは隠せなかった。
 再び頭を下げた明子はラウンジへと急いだ。


 出版社の人に案内されて降りてきた明子は、彼の妻を見て少し驚いたが
「奥様もご一緒でしたか…… かわいいお嬢さんもできてお幸せそうで何よりです」
そう微笑んだ。

「あなたは、この物語を創るために私を騙して奈津子さんに成りすまして、事実を湾曲させて、故人を冒涜して恥ずかしくないんですか?」
 突然襲いかかった一樹の言葉は静かであったが、それでも怒りに満ちていた。

「ごめんなさい、奈津子さんに成りすましてあなたを欺いていたことは謝ります。でも彼女を冒涜した等とは全く思っていません」彼女は姿勢を正して彼を見つめた。

「何故そんなことが言えるんですか、奈津子さんが気の毒でならない……」

「私は、五年前、奈津子さんが亡くなった時、彼女と同じ病棟に入院していました。年が近くて、どことなく似ている二人は直ぐに意気投合して時間を共有するようになりました。親しく話すようになると、彼女の口からあなたへの思いが語られるようになって、彼女の真木一樹に対する思いはとても興味深かった」

「おもしろがっていたのかっ……!」彼の言葉は突き刺すようで、その目は鋭く研ぎ澄まされていた。

「パパ、聞いてあげましょうよ」妻が心配そうに彼の背中をさすった。

「奥様、すいません…… 」

「とんでもない、大丈夫です。続けて下さい」

「ありがとうございます。奥様も話は全て聞いていらっしゃるんですよね?」

「はい、聞いています」

 物語を始めようとして出鼻をくじかれた明子は一瞬下を向いたが亜由美の言葉に救われ顔を上げると再び話し始めた。

「彼女は、ご存知のように高校二年の夏、思いを伝えようとしましたが、それはかなわず、終わったと思っても、思いを断ち切ることができず、時々目にするあなたが眩しくて、『いつかあなたとお話しがしたい』その思いを心に閉じ込めたまま大学に進みました。でも体調を崩し、そこからは入退院を繰り返す日々でした。すい臓がんで一度目の手術は成功したかに見えたのですが、三年後再発して、私が彼女に初めて会ったのは再び入院した時でした」

「……」

「入院した彼女のもとにやって来る友人達はかつてのクラスメートの近況を教えてくれたそうです。彼女はそれを聞くのがとても楽しかったって言っていました。その中に時折見え隠れする真木一樹のことを知ることができたから…… 彼女はあなたのことがもっともっと知りたかったから、自らは思うに任せない人生でも、人を羨(うらや)むことなくみんなの話しを懸命に聞いたらしいです」
 一樹に語りかける明子の目には涙が滲(にじ)んでいた。

「嘘じゃなかったのですか?」
 彼女の語りかけに目を伏せていた彼は、驚いて顔を上げた。

「私が彼女を演じたこと以外、偽りなんて全くありません」
 彼女はまっすぐな目で一樹を見つめた。

「……」
 その真実を語る強い眼差しに彼は再び俯いてしまった。

「私は退院してからも、毎日のように彼女のもとへ足を運びました。彼女の生に対するひたむきな思いに触れて、私はいつも生きなければ…… そんな力をくれる彼女が大好きだった。 でも日に日に弱っていく彼女を見るのはとても辛くて、彼女のために何かしてあげたい、死をも考えていた私の迷いを断ち切ってくれた彼女にどうやって恩返ししたらいいの……  そんなことばかり考えていました。 初めて死に直面した人を前にして、それも私と同年代の人、私も気が動転していた。 最期がそこまで来ている彼女には、もうきれいごとを言っても何にもならない、そう思った私は、彼女に
『最後に何がしたいの、もしあなたができないのなら私が代わりにしてあげる、だからお願い、教えて、何がしたいの?』ってそんなことを尋ねてしまったの…… でも彼女はうっすらと目を開けて、かすかに微笑むと
『真木君と話したかった』そう言ったんです」
 そこまで話すと、明子は目を閉じて静かに息を吐いた。

 娘は疲れて母にもたれかかり眠っていたが、一樹と妻は子供のように涙を流しながら俯いていた。

「私は、『真木君と話したかった』そう言った時、彼女の脳裏に浮かんだ真木一樹はどんな表情をしていたのか、それがとても知りたかった。でも悲しいかな、その術はなく、その翌日、彼女は静かに息を引き取りました。 『真木君と話したかった』と言う言葉が彼女の最期の言葉になってしまいました。 そんな小さなたった一つの願いさえかなわなかった。彼女は元気になればきっといつか、そう思って戦ってきたのに、そんな彼女のささやかな願いさえ神様は無視した。あなたに抱かれたいとか、あなたと暮らしたいとか、そんなことじゃないのよ! 二十四歳の女性がただあなたとお話ししたかっただけなのよっ、何でそんなことがかなわないのっ、そんなバカなことがあるはずがない……! 神や仏なんて絶対にいない……! 私は持っていき場のない怒りをどうすることもできなかった。 親友の陽子さんは、彼女の思いを知っていたから、あなたを連れて来るって言ったらしいの、でも彼女は『彼にだけはこんな姿を見られたくない』そう言って断ったらしい。 頑張っても頑張っても、もうどうにもならない、そのことには気づいていたんでしょうね。 あなたのアルバムの中に、その時の自分は残して欲しくなかったんだと思う」
 彼女の願いがかなわなかったことに対する持っていき場のない怒りに明子は感情をむき出しにして話し続けた。

「……」
 一樹は俯いたまま涙をぬぐっていたが、妻は、涙を浮かべながらも懸命に明子を見つめていた。

「私はとても恥ずかしかった。私達元気な者からすれば『お話しがしたい』、たったそれだけのこと、でも生きることがままならない彼女にとっては渾身の思いだったに違いない。 ペンが進まないで悩んでいた自分が愚かに思えて恥ずかしかった」

 言葉に力を宿す天才が創り出す、この長崎明子の世界は、この会話だけでも一つの物語を産みだしてしまいそうな流れの中で二人の心に何かを突き刺してくるようであった。

「私は彼女の遺品として、彼女がいつも肌身離さなかった携帯電話が欲しかった。 でも『さすがに携帯電話は……』って彼女の母親は難色を示したけど、死を考えたこともあった私を彼女が救ってくれたことを話すと、最後には『あの子の分まで生きてね』って言って私にそっと渡してくれたの」

「携帯電話には彼の写真が入っていたんですか?」一樹の妻が尋ねた。

「はい、でもしばらくの間は携帯を開くことができませんでした。何より、彼女の人生を考えていましたから……」

「……」

「小学校の頃からお友達になりたいと思って、お話しがしたいと思って、高校生になってもそれがかなわず、病魔に襲われ、それでもいつかはと思って頑張ってもどうにもならず、そんなたった一つの願いが叶うことなくこの世を去っていった彼女の人生って何だったのだろうって、いつも考えるようになっていました。携帯電話を手にして、奈津子さん教えてって言ってみるけど答えてくれない。だけど、ある時何気なく開いた携帯のカレンダーに一樹さんの誕生日が入っていたのを見て、他にも何かあるかもって思って探したらメモに彼女の歴史が綴ってあったの、日記風に詳細に書かれていた。あなたは肉が嫌いなこと、サッカー部のこと、高校二年夏休み前、思い切って話しかけてみたことも詳細に書いてあった。大学へ進んでからは二人の男性と付き合ったみたい……」
 彼女は自らの過去を思いだすかのように、しばらくの間、一点を見つめると目を閉じて俯いた後、再び話し始めた。

「でも、大学二年の冬の日記には『やっぱり真木君と話さないと次に進めない…… 告白どころか話したこともないのに、どうしてここで止まっているの…… 何にも始めていない…… でも、また無視されたらもう駄目かも……』って記されていた。大学二年の三月は『体調不良で入院 元気になったら真木君と話したい、今度こそ…』、四月になると『一時退院したが、もう駄目かも…… 手術が怖い…… とても彼に会う勇気はない……』 これはほんの一部だけど、私は何度も何度も読み返して、全て覚えてしまうぐらい読み返したの……」
明子も当時を思い出しあふれる涙をぬぐいもせずに、何かにとりつかれたように話し続けた。

「私たちが一緒になったことも知っていたんですか?」心配そうに妻が尋ねた。

「あなた達の結婚もメモに記されていたわ、後半ではこんなメモもあった。『 私はもうだめかもしれない、死ぬまでに一度でいいから真木君とお話しがしたい、結婚している人にこんな願いは駄目かな……』、 最期のメモは、『何とかもう一度退院することができれば、彼と話がしたい、もう時間がないかもしれないけど…… もうそんなことは夢の中の夢、死ぬまでかなわない、勇気をもって二度目のトライができなかった私は、神様に見放されたのかもしれない……』 これが最期のメモ、亡くなる前々日…… 」

「……」

「確かにたったの一歩、彼女にはその一歩を踏み出す勇気がなかったのかもしれない。でも、たったの一歩、ただそれだけのことなのに…… 」
 持っていき場のない悔しさに明子は再び涙をにじませた。

 一樹は相変わらず俯いたまま目を閉じて明子に聞き入っていたがその複雑な胸の内をどうすればいいのかわからないまま、奈津子を思い出そうとするが、どうあがいてみても彼の瞼の裏に浮かび上がるのは明子の笑顔であった。
 一方妻の亜由美は、膝の上に寄りかかっている娘を見つめながら、隣に座っている夫の背中をさすっていた。
彼女は何かを話したい衝動に駆られていたが、この長崎明子が創り出す世界に自分の思いが入ってはいけないような感覚さえあって、なかなか気持ちを挟むことができなかった。

「編集記録を見ると、書き始めたのは最初の入院をした時みたいだった。 恐らく過去のことを思い出しながら打ったのでしょうね…… もし彼女が病魔に侵されていなかったら、何かが変わっていたのかもしれない。でも何がどうあっても彼女は真木一樹と話がしたかった。 それが彼女の最期の願いだったことだけは動かし難い事実。 でも私が彼女に代わってその願いをかなえることなんてできない。私も重苦しい思いを抱えたまま流されるように生きていたんです。 だけど、携帯の中で笑っている彼女が頑張れって言うのよ。私は気を取り直してもう一度一から出発することを決心して、昔のようにホステスのアルバイトを始めたの。でもなかなか彼女の呪縛から逃れることができなくて、時間だけが過ぎて行った。私はもう自分が小説家であることさえ忘れかけていた」

「……」

「あなたがお店に来たのは二年後だった。あなたを一目見た時は心臓が止まるのかと思った。二年前の重苦しさが一気に蘇って来て、目まいがしそうだった。奈津子さんの名前を出すと動揺するあなたがいて、名前は一樹だって言うし、間違いないと思ったけど慌ててロッカールームへ帰って彼女の携帯を取り出して写真をもう一度見てもう確信していた。ここは私が奈津子さんの最期の願いに寄り添わないと…… 何とかしないと…… そう思ったらもう奈津子さんになり切っていた。ここから先は、お二人もご存知の通りです」

 この四人だけの空間に長崎明子が創り出した物語の世界がやっと一区切りついて、しばらく沈黙が続いた。

「でも…… 主人に抱いてみる? って言ったんですよね」妻の亜由美が思い切って尋ねた。

「えっ、そこまで聞いていたんですか…… ごめんなさい」明子は小さく頭を下げた。

「いいえ、責めているわけではないのです。それも奈津子さんの思いだったのですか?」
 目を見開いて明子を見つめる彼女は一瞬自分が一樹の妻であることを忘れていたのかもしれない。

「それは違います。彼に問いかけてみたかったの…… 奈津子さんとのアルバムを汚すのか、大事に保存するのか、彼に尋ねてみたかった。これは私の思いです。 その頃、私自身も彼に魅かれ始めていましたから、もう限界を感じていて、これ以上は、私が彼女の思いを汚してしまうかもしれない…… そんな不安がありましたから彼にかけてみたかったんです」

「でも、もし主人が抱きたいって言ったら……」

「その時は全てを話して終わりにするつもりでした。 でも実際にそうなっていたら、わたしも一緒に泥沼に浸かってしまったかもしれません。 正直言って自信はありませんでした。 しかし彼は彼女のアルバムを汚さなかったから、私ももう少しがんばってみようって思いました。でもやはり限界は来てしまって……」

「それで去ることを考えたのですか? 」妻が呟くようにいうと

「もうここまでって思ってしまったんです。それに奈津子さんに早く報告して自分が楽になりたいという思いもありました。 翌日、彼女の墓前に報告しました。一樹さんに会って彼女の思いを伝えたこと、彼も彼女に思いを寄せていたこと、彼女が彼のことをどんな人だと思っていたのか、結局私にはわからなかったけど、でもやさしくて誠実な人だったこと、あなたも喜んでいるわよねって…… そして彼女ならあんな風にしてアルバムを閉じるって思って……」

「……」 

「立ち昇る香の煙がきれいに一直線に天に向いて、それを見た私は思いが通じた、彼女との約束を果たすことができた、そう思ってやっと心が晴れて行くような気がしました。二年以上かかっしまったけど、すごく気持ちが楽になって……」

「申し訳ない、君がそんな思いでいたなんて……」
 重苦しい世界に沈み込んでいた一樹がやっと顔を上げると穏やかな目で明子を見つめた。

「とんでもない、ある意味、あなたにすればいい迷惑だったかもしれない。あなた自身はちゃんと初恋に区切りをつけて、次の恋愛を始めて、結婚までしていたのに、あなたの知らない所であなたに思いを寄せたまま亡くなった人がいて、その最期の望みを何とかしたいって勝手に思っている女に、あっという間に舞台の上に引っ張り出されて…… でもあなたは奈津子さんとの思い出に寄り添ってくれた」

「そんなかっこいいものじゃなかったんです」

「当時、奥さんとすれ違いが多かったことがあったのかもしれないけど、それでも思い出のページを一枚ずつ丁寧に一緒にめくってくれた。 私はとてもうれしかったし、奈津子さんも絶対に喜んでいると思った。こんな風に二人だけの時間を持てることがわかると男は必ずと言っていい程、愛を求めて来る。それは自分に対する女の深い思いやりであったり、女の身体であったり、物であったり、人それぞれだと思う。でもあなたは私に何も求めず、ただ、私がめくるアルバムに思いをよせてくれた。 実際に奈津子さんがあなたのことをどのような人だと思っていたのかはわからない、でもあなたは私の中の奈津子さんにとっては思っていた通りの人だった」

「そんな…… 」

「話していてあなたという人がよくわかった。だから私も本当はここでピリオッドを打ちたかったの、この物語は書きたくなかったの…… このノンフィクションはあまりに辛すぎる。読む人は必ず奈津子さんの思いを引きずってしまう、だから書きたくはなかった」

「何となくわかります。物語のために何かをしようって思っていた訳じゃないんですものね」
 妻はその思いに納得していた。

「私は、自分が彼女に代わって彼女の最期の願いを叶えたなんて、そんなおこがましいことを言うつもりはないの。ただ、彼女がそこまで思い続けた真木一樹に会って、彼が奈津子さんのことをどう思っていたのか、彼はどんな人だったのか、それをしっかりと受け止めて、彼女に報告したかった。それができないと、私の中の彼女はいつまでもさまよっていて、彼女の物語に終止符を打つことができない、そう思っていたから…… だから、本当はここまでで良かったの!」

「でも、そこで終われなかったんですね」妻が明子の心を察して再び言葉を挟んだ。

「はい…… 真木一樹に会って、そのことを奈津子さんの墓前に報告したことは、ご両親にも伝えたかった。ご両親だって真木一樹の思いは知りたかったはず、そう思って、その足で実家にお邪魔して、一連の事実をお話ししたらご両親はとても喜んでくれた。 一時(いっとき)は当時の悲しみを呼び起こして涙させてしまったけど、それでも気持ちはとても楽になったはず、 携帯の中にあったメモのことは話さずに帰ろうとしたら、突然彼女の母親が話し始めたの……」

 奈津子の母親は、明子がもしペンを取ることができずに悩んでいるのであれば、娘の物語を書いて欲しいと思っていた。 
 彼女が娘の人生に出くわしてしまったのはそのためではないのだろうか、流れは明子が物語を完結すべき位置に立っているような気がしてならなかった。 もしこの物語が完結すれば多くの人が涙して、それでもまた立ち上がって歩こうって思うはず。 あの新人賞をもらった、あの『地の果てから』のような、あんな物語を創り出すことのできる明子なら、それに値する物語にできるはず、だからできることであれば書いてほしいと願っていた。 
 しかし、明子にも読者に負の連鎖を引き起こさせてしまうような物語は書けない、書くべきではないという思いがあって、そのことを知った母親は、明子の中の娘を描いてくれればいい、彼女の思いは親でさえ分からないことが多くて、何故、最期まで一樹さんとお話しがしたかったのか、お話ししてどうしたかったのか、彼女は苦しい中ででもなぜ笑顔を絶やさずにいられたのか、その支えは何だったのか、考えれば考えるほどわからないことばかりで、明子は親友の陽子とはまた違った思いで彼女を見つめていたことを感じていたから、その明子の思う奈津子を、明子が想像する奈津子の人生を完結させて欲しいと願った。
 両親は明子が完結させる彼女の中の奈津子を実の娘だとは思えないかもしれないけど、でも娘の人生と重ねて見ることはできる。 実話に基づく物語ではなくても、明子が創り出した一人の女性を描いてくれれば、それが娘の供養になるし、娘はきっと喜ぶ。できればそれをきっかけに明子が再び羽ばたくことができれば、娘は絶対にうれしいはず…… そう考えていた。

 明子は、この母親の強い思いに押されて決心したことを説明した後で
「ごめんなさい、あなたにも断っておくべきだったかもしれない……」
 静かに一樹に詫びた。

「いいえ、私なんか……」

「でも、なかなかペンを取れなくて、二週間後、ちょうど同窓会のあった翌日らしかったけど、陽子さんを訪ねたの。 話を聞いた彼女はあなたの様子がおかしかったことに納得していた。 ただ私は不思議に思っていたことがあって、そのことを陽子さんに尋ねて見たかったの…… 『八年会っていなくても、本人かどうかわかりそうなものだけどね』って言うと、私の瞳と彼女の瞳ってすごく似ているんですってね」

「瓜二つだよ、私は君の瞳を見て、彼女の昔を思い出したぐらいだから……」

「そうなの、私は全然気づかなかったれど、でもそれを聞いて、あんなに真剣に奈津子さんに向き合ってくれたあなたに奈津子さんを見て欲しい、私が描いた奈津子さんでもあなたは納得してくれるはず、そう思った時、やっと筆を取る決心がついて北海道の実家に帰りました」
 彼女は一気に思いを込めて語った。


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