翌日の日曜日、妻がちゃんと話したいと言って彼に向き合ってきた。
( この仕事が済めば、これさえ終わればって、いつもそう思っていたのにずるずるとここまで来てしまった。四年もの長い間、彼にさみしい思いをさせてしまった。彼は私の夫、私が振り向けばいつもそこにいてくれるはず、その安心感が、その身勝手が…… 彼が他の女性に心を奪われても仕方ない…… でもこんなはずじゃなかった、人気のあるうちにできるだけって…… ふたりの家庭のためにと思って頑張ったつもりが家庭を壊してしまった。全て私の責任、でも本当に彼は好きな人ができたの……! ) これまで自信満々に、思いと直感にまかせて生きてきた彼女が、こんなに辛く悲しい苦悩を味わったことはなかった。こんなに時間をかけて考慮したのも初めてのことである。 説明のつかない、言葉では言い表せない、後悔の思いに覆い尽くされてしまった自らの心を鎮(しず)めるために、彼女は頭の中ではっきりと言葉を繰り返しながら冷静さを保とうとしていた。 それでも、彼に対する未練と後悔が、感情をむき出しにさせてしまうのではないか、そんな不安が頭をよぎり ( 絶対に彼を責めたくはない! そんな女にだけはなりたくない…… いや、でも、もしかしたら勘違いかもしれない ) そんな葛藤の中で心は疲れ切ってしまい、これ以上は耐えられない、どちらにしてもはっきりさせなければ…… 彼女は、思いに押しつぶされてしまいそうになれながらも懸命に涙をこらえていた。 「あなたの中で何かが動き出していることは感じていたの…… 私は結婚しても仕事ばかりであなたに何もしてあげられなかった。だから、あなたに好きな人ができたのなら、遠慮しないで言って欲しいの…… 」 今までに見せたことのないような切ない表情で語る妻に彼は目を見開いて驚いた。 彼には奈津子との世界に没頭していく中で、妻を裏切っているとか、浮気をしているなどという感覚は全くなかったが、それでも 「私も気持ちの整理をしたいから…… 悪いのはあなたじゃない、一緒になっておきながら、あなたに独身者のような生活をさせてしまった私に全て責任があると思っている…… だから遠慮しないで話して、私もいつまでもこんな思いを引きずるのは嫌だから……」 そう言いながらも彼女はまだかすかな望みを捨てきれないでいた。 祈るような表情で話してくる妻に彼ははっとしてやっと我に返ると
( 俺は何をしていたんだ……! 亜由美はこんな思いをしていたのか、何も考えていなかった。やはり俺は夢を見ていた訳じゃない、現実にあったことに違いない。でも…… もう全て話そう、信じてもらえなくても話そう……! 俺達ももう終わりにした方がいいのかもしれない )
「ごめん、気づいていたんだな。全て話すよ。君は何も悪くない。結婚しても君が仕事を続けていくことはお互いに納得していたことだよ。こんな生活になることだって覚悟はしていたんだ。それなのに俺は我を忘れて迷ってしまった。信じてもらえないかもしれないけど話すよ」 「……」妻は生唾を飲み込んで静かに夫に見入った。
彼はクラブでの奈津子との出会いから話し始めた。
「八年ぶりに会った初恋の人から、ずっと好きだったって言われて舞い上がってしまって、夢のようだった。最初は上手を言っているだけって思ったんだけど、高校二年の時に彼女に話しかけられたことがあって、俺はとてもうれしかったけど、恥ずかしくて逃げ出してしまったことがあるんだ。だけど彼女はその時、逃げ出した俺に振られたって思ったらしい。それに俺のことを信じられないくらいに知っていて、何かもう訳が分からなくなってしまって二時間ほどがあっという間だった」 「それが最初だったの?」 「そう…… だけど俺はどうしてももう一度会いたくて、翌週に店に行ったら、彼女が飛んできて、お店じゃなくて外で会おうって……」
「それで外で?」妻はいたって冷静に尋ねかけた。 「ごめん、その次の月曜日、電話したらすぐに出て来てくれて、一緒に食事したんだ。俺が肉を嫌いなことまで知っていて、優しい笑顔で語りかけられて、もううれしくて幸せで『この人と結婚したかった』って思ってしまった…… 俺はこんな男だ」 彼は情けなさそうに俯いてしまった。 「いいのよ、ずっと一人にしていたんだからそんな思いにだってなるわよ、仕方ない…… それからどうしたの?」 妻は別れを覚悟したが、ただ、この話の終着点が気になっていた。 「次の月曜日は休みが取れることになっていたから、どこかへ行こうって言ったら、家に誘われて…… 『家だったらゆっくりお話しできる』って言われて、でもその時はやましい気持ちはなかったんだ」 「うん、わかってる」 「家で昼前から夜まで過ごして、そろそろ帰らないとって思った時、突然彼女が『初恋の女、抱いてみる?』って言って、正直、抱いてみたかった。でも抱いてしまうとすべてが終わってしまいそうで…… 恐くて断った」 「彼女はなんて言ったの?」妻は断った夫に驚いていた。 「自分のことを思っていてくれた人だから、望みがあるのならかなえてあげたいって思っただけ、って……」 「そうなの……」妻にはよくわからなかった。 「それからも毎週月曜日は、一緒に夕食を食べて、静かなところで話して、とても穏やかで何か包み込まれているようで、雲の上にでもいるような思いだった。だけど、それから一ヶ月ほどした時に、突然北海道へ行くって言いだして、俺は必至だったよ、彼女との時間は失いたくなかった…… 『結婚しよう、妻とは別れる』って言ってしまった…… ごめん……」 「いいのよ、覚悟はできているから…… 」彼女はもう諦めていた。 「だけど彼女は、自分たちが楽しかったのは思い出の中にいたからで、現実の世界ではこうはいかないって、君と向き合って話しなさい、俺の幸せだけを願っているって…… それでいいのかって聞いたら、俺と話しができたから、何も思い残すことはない、大丈夫って!」 「そうなの? 何かすごい人ね、でもそれで終わったの? 」 妻は、話が思わぬ方向に進んでいったことに驚くとともに、理不尽な温かさがこみあげてくることに気が付いていた。 「どうしてももう一度会いたくて、二週間後の同窓会に行ったんだ。この前の日曜日だよ、彼女も行くって言っていたから…… だけど……」 「来ていなかったの?」 「来ていないだけなら、それでよかったんだけど、幹事が、開会にあたって二年前に亡くなった下山奈津子さんの冥福を祈って黙とうって……」 「えっー、どういうことなの?」彼女はもう覚悟とは別の世界に入ってしまった。 「俺が聞きたいよ。そしたら彼女の親友がやって来て、『奈津子はあなたのことが好きだった』とかなんとか、『亡くなるまであなたと話したがっていた』って…… 俺はからかっているのか、この前まで何度も彼女に会っている、彼女は生きている、俺を騙しているのかって言ったら、奈津子さんの思い出を汚さないで! って、怒ってしまって…… 俺はもう訳がわかんなくなって、だけどどう考えてもおかしくて、昨日、彼女の実家に行ってきたんだ」 「亡くなっていたの?」 「入れなかった、チャイムを押せなかった……」 「そうなの? でもみんなの前で黙とうまでして、亡くなられているのは事実よね…… 」 彼女の思いは覚悟した別れよりも、もうこの不可解な話の終着点に向いてしまっていた。 「俺もそう思う、だけどあれは何だったのか、もう頭がおかしくなりそうで……」 「そうなの、大変だったわねー、だけどあなたから初恋の話なんて一度も聞いたことないわよ」 「そりゃ、そんなことはすっかり忘れていたし、話すような物語なんて何もないし、話すこと自体考えたこともなかったよ」 「そうね、片思いの初恋なんてそんなものかもしれないわね……」 彼女はふっと遠くを見つめて、ため息をついた。
「だけど、所詮、俺はこんな男だよ、もう終わりにしよう……! 別れた方がいいと思う」 彼は彼女に去られて、妻にもこんな思いをさせてしまって、もうそこに結論するしかないと思っていた。 「ちょっと待ってよ、別れてどうするの?」妻の語気が強くなった。 「どうするって言われても…… どうもしないよ、一人で静かに生きて行くよ」 彼の言葉は別れを覚悟したというよりも、夫婦でいることを諦めたというように聞こえた。 「バカなこと言わないで! あなたの気持ちがその人に向いてしまったのなら、もう全くここにないのなら別れるわよっ、それだけの覚悟はしていたの…… だけどひとりぼっちになってどうするのよ、あなたは別れて自己満足かもしれないけど、私はどうなるのよっ!」 彼女の覚悟など何の意味もなさなかった。 思わぬ方向に進んでしまった物語が彼女の感情をむき出しにさせてしまった。 「亜由美…… 」 「あなたが一人ぼっちになるんだったら、私は別れない。 絶対に判はつかないから!」 彼女はむきになって、責めるような口調で強く言い放った。 「亜由美、でも俺は……」 「でもじゃないわよ、あなたをずっと一人して、何もしてあげられなかった私はどうすればいいのよ、どうやって償えばいいのよっ!」 「……」彼には言葉がなかった。 「わかったのよ、この二ヶ月でわかったの…… 思い知らされた。あなたを失いたくない…… あなたが幸せになるのなら仕方ないって思ったけど、一人になるんだったら絶対にいやっ!」 彼は付き合い始めて以来、こんなに心を乱した亜由美を見たことがなかった。 「亜由美…… 許してくれるのか?」 「許すも何も、あなたは何もしていないじゃないの…… 私だってテレビでイケメン俳優見たら抱かれたいって思うことがあるわよっ、どこが違うのよ、そんな思っただけで行動もしていないのにグジグシ言うのは止めなさいよっ!」 彼女はもう引く気はなかった。 「亜由美……」 彼は、結婚前の彼女を思い出していた。 「だいたい考えても見てよ、そんなにあなたのこと知っている人が何の冗談でそんなことするのよ、絶対に舞い降りてきたのよ……」 「えっ、やはりそう思うか?」夫は目を見開いて尋ね返した。 「あなたのこと思ってくれていた彼女が、あなたに、いや私達にちゃんとしなさい、暖かい家庭を創りなさい、そして幸せになりなさいってあの世から舞い降りてきたのよ、あなたの幸せだけ願っているって言ったんでしょっ……!」 彼女は一気にまくしたてた。 「うん…… 」 「きっとそうよ、それ以外考えられない。やり直しましょう、私は仕事を半分にする。そして子供も作りましょう、そうじゃないと次に舞い降りて来られたら罰が当たるわよ!次はすごい形相でやって来るわよ!」 彼女はそんなことを信じてはいなかったが、しかし絶対に夫から離れない、そんな強い気持ちで懸命に話した。 「そうなのか?」 彼は決して霊的な存在を否定している人間ではなかったので、この一連の不可解な出来事の説明がつかない中にあっては、妻の言葉にも信憑性があると思った。 ( 霊だったのか、でも何か実感あったけどなー…… ) 彼はこの不可解な思いを当分引きずってしまった。
その一年後二人は子供を授かり、幸せな時間が流れていた。 不思議なことに仕事を減らした彼女の収入は、以前とほとんどかわらなかった。彼女が仕事を減らしたことで、彼女のデザインするドレスは希少価値が高まり、彼女のデザインを求める需要はますます高まっていた。 しかし、彼女は、土日は絶対に仕事を休み、平日もよほどのことがない限り夫の帰宅時間に合わせて仕事を切り上げていた。 夫の数倍の収入があったが、彼女はそれには手を付けなかった。いつか、家を建てて…… と思っていた。 
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