その日以来、彼はいつも奈津子のことを考えていた。 ( 彼女の家はかなり裕福だったのに、どうしてホステスなんかしているんだろう。今はどんな生活しているんだろうか、もう一度店に行ったら笑われるだろか…… )
会社へ出向くと、課長を入れて十人しかいない総務課には、三名の女性がいた。その内の一人目は彼の隣に席のあるお局(つぼね)様(さま)であったが、この人は若い男が嫌いなのか、いつもちくちくと小言をいう人であった。二人目は向かいの二つ奥に席のある三十歳の女性であったが、奈津子の二人分ぐらいある体格のいい女性で、良い人なのだがちょっと一樹のタイプではなかった。そして三人目は、彼の同期の女性で、身長は百七十p近くあるのだが、スリムで色白の美しい女性であった。鼻筋がきれいに通っていて、やや吊り上がった瞳が大きく、クレオパトラを思わすような髪形は、総務課ではやや不釣合いのようにも思えたが、それでも社内には彼女のファンがかなりいるらしい。 ただ、この人は生(なま)の男性には興味が無いらしく、時間さえあれば小説を読んでいる。カバーでタイトルが見えないため、「何を読んでいるの?」と一度訪ねたことがあるが怖い目つきでしばらくにらまれた後 「関係ないでしょ、仕事以外で絡まないでくれる!」 彼は冷たくあしらわれ、その後は意識して関わらないようにしていた。
彼の日常はこうした女性達と関わっていたため、先日訪れたクラブはあまりにも衝撃的で、夜は奈津子を思い浮かべ、職場へ行くと現実に引き戻され、また家でただ一人奈津子を思う…… そんな繰り返しの中で、その翌週の火曜日、耐えられなくなった彼は、再び店を訪ねた。
慌てて席にやって来た奈津子は 「ありがとう、今日は指名が入っているからあまりここに居られないの、ごめんなさい。でも、もうお店に来るのは止めて、名刺の裏に携帯番号書いていたでしょ。月曜日はお休みだから外で会いましょう。私も時間を気にしないでもっとお話しがしたいから…… 電話して……!」彼女は囁(ささや)くように言うと寂しそうに微笑んで席を立った。
帰宅すると、ゆっくり話ができなかったことにいくらかの不満は残ったが、それでも外で会おうと言ってくれた彼女の思いが途方もなくうれしくて、彼はベッドに横たわり一人で微笑んでいた。 ( 早めに電話して月曜日の約束をしようか、でもほんとに会ってくれるのか? やはり月曜日まで待つか ) そう思ってはみるものの、翌日もまた彼は同じことを考えていた。 一日一日がとても長く、まるで来週に迫った修学旅行を待つ子供のような思いであった。
その日曜日、久しぶりに休みの取れた妻が昼前に起きてくると 「ねえ、どこかに出かけない?」と声をかけてきた。 実は疲れがピークに達していた彼女は家でゆっくりしたいと思っていたのだが、あまりにも夫をないがしろにしていることに罪悪感を覚え、彼を誘ったのである。
だが……
「ごめん、ちょっと今日中に整理したいものがあるんだ、遠慮しないで出かけて」 パソコンに向かったまま、振り向きもしないで答える夫に 「そう……」彼女は何か違和感を持ったが、再びベッドに入った。 彼は奈津子との時間が流れようとしているこの川に、妻との時間を交錯させたくはなかった。
翌日の月曜日、物欲しそうに見えるかもしれないと思ったが、逃げた高校時代を思い出して、遠慮はしない……そう決意していた彼は、会社が終わると直ぐに奈津子に電話を入れた。 「真木です。会いたいから遠慮しないで電話しました。店の外でも会ってくれますか?」
「もちろんです。とてもうれしい!」彼女の笑顔が目に浮かぶようであった。
奈津子がお気に入りの和食の店『彩(いろどり)』の小さな座敷で向き合った二人は、まだぎこちなさを否めなかったが、それでも静かに思い出のページをめくり始めた。
「ここのお勧めはね、カレイのから揚げ、お肉は嫌いでも、お魚は大丈夫でしょ」 ごく自然に話す彼女だったが
「どうして知っているの? 不思議なことばかりだよ」
「そりゃー初恋の人なんだから、何でも知っているわよ」奈津子が微笑むと
「でもどうしてマドンナの君が俺のことなんか……」 彼はそのことが不思議でならなかった。
「マドンナはよしてよ、中学の頃までは漠然とした思いだったの、でも高校生になってサッカー部に入ったあなたは試合に出ることができなくても一生懸命に仲間を応援していた。そのあなたが一番かっこよかった。だからとにかくあなたとお話しがしたかったの。あなたが何を考え、何を思うのか知りたかったの。恋だとか、愛だとかとは少し違っていたように思うけど、とにかくお話がしたかったのよ」
「そうなの……」彼は少し照れくさそうだった。
「あなたは、どうして?」奈津子が尋ね返した。
「何がって聞かれても困るけど、見ているだけで幸せだった」
「そうなの、でもうれしい! あの時、終わったって思った私がばかだったのね。男の子があんな場面で恥ずかしがるなんてこと、考えたこともないから…… 二人とも初心(うぶ)だったのね」
優しく語りかけてくる心地よさに ( この人と一緒になりたかったなー ) どうにもならない九年前を思いだして、彼は今さらながらに逃げ出したことを悔やんでいた。
「神様がいるのかどうか知らないけど、でも、もしいるんだったら性格悪いよね」 彼は思いを口にしてしまった。
「逃げ出したこと、後悔しているの?」彼女が悲しそうに尋ねると
「今、こんな幸せをくれるんだったら、あの時に欲しかった……」 彼女の気持ちを知ってしまった今、この時間を楽しむことよりも、逃げ出した過去を悔やむ思いの方が大きくなろうとしていた。
「奥様と上手くいっていないの?」 そう尋ねる彼女の表情から、彼はその心を読み取ることはできなかったが
「上手くいっているのかどうかさえ、わからない」 少し吐き捨てるような感じの中で、彼は俯きがちに答えた。
「今日、奥様は大丈夫なの?」
「ほとんど家にはいないんだよ。夜は遅いし、帰ってこないこともある。結婚しているって言ってもただ一緒の所に住んでいるだけだよ」
「そう、みんな大変なのね」 彼女の言葉は、同情的にも思えるし、事務的な感じに取ることもできた。
「でもね、あの時、つながらなかった糸だから、今、こうしてアルバムの前に二人でいるのかもしれないよ。もしあの時、糸がつながっていたら、お互いに幻滅して、この歳になって再会しても、何でもなかったのかもしれないよ」
諭すように話す彼女の瞳がとてもさわやかで、昔、陰から見ていた彼女もこんな瞳をしていたことを思い出すと 「すごいこと言うね、何か小説の一節に出てきそうな表現だね。昔の君がいるように感じてしまう…… いつも陰から見る君は、笑顔がいっぱいで太陽みたいだった」 彼は微笑んではっきりと思いを言葉にした。
「ありがとう、あなたがそんな思いで見ていてくれたなんて、それを知っただけで私は幸せ! だから昔を悔やむのはよしましょうよ、幻のアルバムが色あせてしまうよ」
「そうだね、今、君とこうしていられるのが夢みたいなことなんだから、この時間を無駄にしたくないよね」 彼が優しく微笑むと彼女はうれしくなって彼を見つめ続けた。
その瞳に耐えられなくなった彼が 「高校二年の夏休み、どこへ行こうと思っていたの?」と尋ねると
「ホテル」彼女は笑顔で答えた。
「えっー!」彼が驚くと
「嘘よ、どこでもよかったの、ただお話しする時間が欲しかったの、だから映画以外ならどこでもよかったの」
「おもしろいね、映画館では話ができないから?」
「そう、大当たり」
「来週の月曜日は休みなんだ、どこかへ行かない?」意を決した彼の言葉であった。
「うーん、休みだったら家に来る?」違和感なく誘ってくる彼女に驚いたが
「いいの?」彼は心が躍り出していた。
「いいわよ、家だったら、ゆっくりお話しできるじゃないの……」
そして、また長い一週間が始まった。 結婚して以来、衣服のこと等は考えたこともなかった彼が ( どんな格好で行こうか、スーツなら簡単だけど、まさかスーツという訳にはいかないよな…… )懸命に悩んでいた。 しかし、自分が妻よりも先に出社することを考えれば、スーツで出かけるしか道がないと悟った彼は、先日買った新しいスーツを着ることにした。
そしてようやくやって来た月曜日の朝、新品のスーツを出している夫を見て、妻は、おっ、今日はおニューだ! その時はそう思っただけであったが 「今日は取引先に行くから、遅くなるかもしれない」そう言って出かけた夫に何か不安を感じた。 彼がそんなことを言って出かけたのは結婚以来、初めてのことであった。
彼は、二軒の喫茶店を廻り、十一時になったのを確認すると、彼女のアパートを訪ねた。
「じゃあ、お昼前に来てね」 そう言って別れた先週の月曜日から彼は『昼前』の意味を考えていたが、少しでも早く彼女のもとへ行きたい彼は、それを十一時と結論していた。 彼女の住まいは、ごく普通のアパートで、店で見る彼女の華やかさからすればやや違和感があったが、そんなことはどうでもよかった。 ドアフォンを鳴らすと、彼女の明るい声に迎えられ彼は部屋に入って行ったが、彼の妻は実家暮らしであったため、彼が一人住まいの独身女性を訪れるのは初めてであった。 広々とした一LDKの住まいは、女性の部屋にしてはシンプルであったが、清潔感にあふれ、一目見ただけで心が穏やかになっていった。 彼が部屋の奥にあるソファーへ促され、スーツの上着を脱ごうとするとそれを手伝った彼女は、それをクローゼットにしまってくれた。女性にこんなことをしてもらったのは初めてで、こんな心地よさからスタートした一日は彼にとっては夢のようであった。 それは、かつての憧れの女性と二人きりで時間を過ごしているということもあったが、その折々に垣間見ることのできる彼女の心遣いが、彼にとってこの一室を異質空間にしてしまった。
「コーヒーはモカがいいんでしょ」微笑みながら語りかけてくる彼女に
「えっ、そんなこと知っている人なんていないと思うけど……」
「高校の時、自販機の前で言っていたわよ、この酸味が何とも言えないって」
「えー、そんなこと言っていたのっ、渋い高校生だったんだなー」 そんなことを言っていた自分にも驚いたが、それを未だに覚えている彼女にも不思議さを感じないわけにはいかなかった。
「私、なんかストーカーみたいね」
「君にストーカーされるんだったら、いつまでもして欲しいよ」
昼は近くに有名なラーメン店があることを知っていた一樹があらかじめリクエストしていたので二人で出かけた。 店に入るとカウンターに座った二人はメニューに目を向けたが、一樹が「俺は醤油チャーシューメン、ネギをトッピングするけど……」それを聞いた奈津子は驚いた。
「えっ、私は醤油ラーメンにコーンをトッピングで……」
彼が注文した後 「チャーシューは大丈夫なの?」不思議そうに奈津子が尋ねた。
「確かに肉は駄目なんだけど、肉の臭いがしなければ大丈夫なんだ」
「そうなの!」彼女は目を見開いて彼を見つめた。
「奈津子さんは、嫌いなものはないの?」
「私はシイタケだけはだめですね、特に炊いた時のあの臭いが……」
「えっー、俺も同じ、ちょっとあの匂いは勘弁してよっていう感じだよね」 彼が笑いながら言うと
「それも知らなかったけど、同じものが嫌いでうれしい、私たちって本当はよく似ているのかもしれないですね」 彼女が優しく覗き込むと
「全然似ていないよ、月とスッポンだよ」 彼は奈津子がいない日常では何かを諦めているように生きていた。
「やっぱりねー、私はスッポンよねー」彼女が微笑んだ。
「何言っているの、逆だよ」
「いいのよ、でもずーっと一樹さんを見つめてスッポンみたいだったから……」
「そんな意味じゃないよ」
「いいの、それでいいの!」 彼女が笑顔で話すと周囲がぱっと明るくなる。一樹はそれが不思議だった。
店を出ると、春のさわやかな風が一時の幸福に身を任せるふたりを優しく包み込んでいるかのようだった。 緩やかに歩む一樹の右腕に、彼女は左手を絡めると「幸せ……」そう言って彼の右肩に頬を預けた。 彼は初めての経験に一瞬驚いたが、この上ない幸せに酔いしれていた。 その光景はまるで結婚を前にしたカップルのようで、すれ違う人達の目にも全く違和感はなかったが、その時、ふとタクシーに乗り込もうとしている一人の女性と目が合った。丸菱商事総務課のクレオパトラであった。 ( なんで彼女がここにいるんだ! ) 彼はとっさに目を背けて別人を装ったが、奈津子は気づいていた。
「きれいな人だったわね、知り合いなの? 大丈夫かな?」
「同じ職場の同期……」
「えっ、やばいでしょ、奥さんに伝わらない?」
「いや、別人と思ったかもしれないし、妻は会ったことないから大丈夫だと思う」
「えっ、じゃあ奥さんだって思われたかもね」
「確かに、勘違いされたかも、ごめん」
「全然、むしろ私はうれしいくらい。今度会ったら真木の家内です、主人がいつもお世話になっていますって、挨拶してみようか?」
「けっこう楽しいかもね」
「でもほんとにきれいな人、クレオパトラかと思った」
「会社ではみんな、そう呼んでいるよ」
「やっぱりね…… 恋人はいるのかな?」
「生身の男には興味ないらしくて、いつも本を読んでいるよ」
「そうなの……」
「一度、何を読んでいるのって聞いたら、にらまれて『関係ないでしょ、仕事以外で絡まないでくれる!』って叱られて……」
「そうなの、何かエキゾチックな感じがするわね」
部屋に戻った二人はコーヒーを飲みながら再び穏やかに流れる時間に身を任せていた。 一方的に話す風変わりな同級生や、生徒に目を合わすことなく授業をしていた教師等、一樹が話すその思い出話に彼女は微笑みながら聞き入っていた。
「君のことも教えて、俺は陰から見ていただけで実のところよく知らないんだ」
「先週の月曜日にね、どうして好きになったのかって聞かれて、『試合に出ることができなくても一生懸命仲間を応援していたあなたが一番かっこよかった』って言ったでしょ」
「うん」彼は彼女を見つめたまま頷いた。
「でもね、思い出して考えていたら、やはり色々なことがあって気持ちがそこまで膨れ上がっていたのよね…… 六年生の時、泣いている友達の横に座ると、その子をいじめた男子から偽善者って言われて涙が出そうになったの。でも真木君が『やめろ!』って言って彼を睨んだの、私にはその『やめろ』の後に『彼女はそんな人じゃない』って言うあなたの心の声が聞こえたような気がしたの、そんなわけないけど……」
「田中だろ!」
「えっ、そう、確か田中君だった、覚えているの? 」
「よく覚えているよ、ただ心の声はちょっと違うけど…… 」
「えっ、何か思っていたの? 教えて、お願い!」
「恥ずかしいよ」
「いいじゃない、もう十四〜十五年前のことよ、お願い、絶対知りたい!」
「やめろ、俺の女神に何言っているんだ! って言いたかったんだ」 彼は恥ずかしそうに答えた。
「ええっー、ありがとう、もっとすごいじゃない、私が思っていたことよりすごいじゃないの、うれしい、ほんとにうれしい、ありがとう! 」 驚いて、一瞬両手を軽く顔の前で合わせ目を見開いた彼女は少女のように微笑んで、過去のことをまるで現実のようにはしゃぎ、一樹もまた彼女の過去の思いを現実のように錯覚し、重なり合った過去の影と影が明かりの中に溶け込もうとしていた。
「それにね、中学三年の秋だったかな、本屋でどちらの本にしようか悩んでいたらあなたは『そんな時は両方買うだよ』そう言ってくれたの…… うれしかった。あなたはそんな風に考えるんだって思って、とてもうれしかった」
「本屋で声をかけたのは覚えているよ、俺も話がしたくて……」
「ありがとう、ほんとによかった! あなたに再会できて、ほんとに良かった」
「俺の方こそ」
「だけどね、今、記憶をたどっていて、あなたのことを何となく暗く感じたり、恐く感じたりしたことがあるの、あなたはいつも一人だったでしょ、何かあったの? 話したくなければいいのよ、だけどちょっと気になったの……」
「そうだよね、あまり人と関わるのが好きじゃなかった。何人かで友達の家へ遊びに行った時、そこの母親が何故か俺だけに冷たくて、俺より遠くから来ている奴だっていたのに『一樹君は遠いからもう帰ったら……』なんて言われて…… 他の連中はみんな金持ちで、うちの家は貧しくて、父親がパチンコ好きで仕事は休んでばかり、母親も働いていて、いつも金のことで喧嘩をしていた。だからその母親からすれば、俺には来て欲しくなかったんだろうなって思ったよ」
「ひどい! もういいよ、ごめんなさい、いやなこと思い出させて……」
「いや、君には聞いて欲しい、そんな家が結構あったし、友達もだんだんと絡んでこなくなって…… でも貧乏だから仕方ないって本気で思っていたんだよ」
「……」
「だんだんと人と話したくなくなって、一人でいる時が、一番気が楽だった。親父も高校の頃には少し真面目になって、お袋も頑張ってくれたから何とか大学へ行くことはできたけど…… 大学へ行っても、あまり人と話す気にはなれなかった。こんな人生なんだよ、だから、特におふくろは大事にしたいって思っているんだけど……」
「けど、どうしたの?」
「いや、何でもない……」
夕食後、片付けを済ませた彼女が、彼の横に座ると突然 「ねえ、初恋の女、抱いてみる?」彼の目を見ずに静かに囁(ささや)いた。 切なそうな彼女の思いに、逃げたくない、 彼はそう思ったが即答はできなかった。ここまでの彼女との夢のような時間が終わってしまいそうな不安を感じて 「いや、止めておく、ごめん」彼は俯いて答えた。 しばらく沈黙の時が流れたが
「いいのよ、私のことを思っていてくれたあなただから、もしそんな思いがあるのならかなえてあげたい、そう思っただけだから気にしないで……」 安堵した彼女が優しくささやいた。
「何か、君を抱いたら全て終わってしまいそうで…… ごめん」
「謝らないで……! 嫌われたとは思っていないから……」
「……」
「むしろ、うれしい、あなたはやはり思っていた通り誠実な人……」
「そんな大したものじゃないよ、臆病なだけだよ」 彼は過去の中で深く沈み込んでしまいそうになっていた。
時計は既に八時を回っていた。
彼女は「抱いてみる?」と尋ねたことで二人の過去に現実を交錯させてしまったことを少し後悔していた。決して抱かれたいと思っていたわけではなかったが、彼という人間をもっと知りたいという思いが緩やかに流れる時間の中で自然に言葉にのってしまったのであった。 しかし彼が現実を選択してしまえば、彼女にはそれを拒む自信はなかった。 結果は彼女の想像した通り彼はそれを拒んだのだが、そのことが彼自身の過去に影を落とし始めていることに気が付いた彼女は 「あのさ、一つだけ聞きたいんだけど……」と切り出した。
「いいよ、何でも聞いて」
「私はね、何度も言うけど小学校の頃からあなたにあこがれていて、ずっとお話ししたいって思っていたのに、男性に対しては奥手というか、勇気が出せないって言うか、思い切って話しかけた高二の時だって、逃げようとするあなたの背中に尋ねればよかったのよ、『私は嫌われているの?』って、でもできなかったし、その後も二度目のトライのチャンスだっていくらでもあったのに、やはりできなかった。そんな私としては、あなたが奥さんとどのようにして付き合い始めたのか、そのことがとても気になるの……」 彼女の最も知りたい部分であったが、二人の時間に彼が妻を思い出してしまうのが不安だった彼女は、ここまで耐えていた。 しかし、過去の中で彼が沈み込んでしまうことを恐れた彼女は彼の妻の話を切り出した。
「いいけど、聞いたら笑ってしまうよ」ふと、我に返った一樹は微笑んで答えた。
「えっ、そんなに面白いことがあったの?」
「おもしろいというか、馬鹿みたいって言うか……」
「教えて、お願い」彼女は彼を引き戻すことに懸命だった。
「内の大学は、専攻は三年からで、入学時は文学部でみんな同じなんだよ。だから芸術学科志望の彼女と英文学志望の俺だったけど、同じゼミになったんだ。一年の後期あたりから彼女が絡んでくるようになって…… 」 彼は当時を思い出しているようだった。
「絡んでくるって?」彼女も食いついていく。
「例えば、食堂で飯食っていると俺の前に座って、俺の食事を勝手につまんで食って『これおいしい、私もこれにしよっ』っていうような感じで…… カフェでコーヒー飲んでいても、やっぱり俺の前に来て、勝手に俺のコーヒー飲んで『うわっ、甘っ』とか言って、ブラック注文して、とにかく俺の前によく現れて、最初は『何だこいつ』って思っていたんだけど、話しているとおもしろくて、その内にはアパートに押しかけて来て勝手に泊まるし、洗面道具や茶わんなんかも持って来て…… ある日、授業の合間に眠りたいから鍵よこせって言われて、彼女は自宅から通っていたのでけっこう遠くて、仕方なく貸したら勝手に合鍵作られて、もう滅茶苦茶な女だった」 そこまで話すと、彼は何かを思ったのか、俯いてしまった。
「すごく楽しい人なのね、何故かあこがれてしまうわ」 彼女も瞼に光景を思い浮かべているかのように微笑んでいた。
「でも、その頃からドレスのデザインでいくらかの収入を得ていることを知って、ちょっと見方が変わってきて、そのまま付き合っていって、四年の中頃だったかな、『卒業したらすぐに結婚するわよ』って言われて……」
「そのまま結婚したの?」
「そうなんだけど、なんか…… 強姦されたって言うか、押さえつけられて身動きできない感じ?」 彼は表現に苦しんだ。
「えっ、どういうこと? 女性なのに力では勝てないでしょ、力づくで抑え込まれたわけじゃないでしょ?」
「力づくって言うか、言葉づく?」
「何、それ?」
「彼女が『あなたなんて何の取り柄もないんだからね、わかっているの? 空を飛べるわけじゃないし、百m十秒で走れるわけじゃないし、あなたの取り柄はたった一つだけ、私と巡り会ったことよ、そのたった一つの取り柄を捨てるつもり?』って言うんだ」
「ははははっ、お腹が痛い、おもしろい!」奈津子は涙を流して笑ってしまった。
「もう滅茶苦茶だろ?」彼も笑っていた。
「すごい人なのね、やはりそういう人じゃないとあなたを射止めることはできないのね、 でも楽しい人ね」 ( かなうわけがない、そんなすごい人に勝てるわけがない、大事に思われているんだ…… ) 彼女はそう思うと、複雑な思いの中でふっと遠くを見つめて小さく息を吐いたが、それでも、笑顔を取り戻した彼がうれしくて、その夜は満面の笑みで彼を送り出した。
その翌日、昼休みになるとすぐにクレオパトラに話しかけられた彼は驚いた。 「ねえ、長崎明子って知っている?」
「えっ、誰? それ……」
「あっ、そう。やっぱりね……」
「どうしたの?」
「もういいわ!」 不可解な質問に彼は頭を傾(かし)げたが、そのことよりも彼女に話しかけられたことの方が謎であった。 
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