尿意を感じて目が覚めた。……背中が痛い。ぼんやりしたまま起き上がり、また床で寝ていたことに気付く。空き缶や空瓶、ビニール、プラスチック容器などが散乱する部屋をふらつく足取りで進み抜け、トイレに入り用を足した。 (俺、やっぱ生きてんなあ……) 部屋に戻り、テーブルの上の飲みかけのカップ酒を喉に流し込んだ。次の酒に手を伸ばそうとしたが、どれも中身を飲み干した後だった。ふらふらと台所に行き、冷蔵庫を開ける。あったはずのビールや酎ハイは消えていた。 「はれ? 誰が飲んだ?」 ……いや、わかってる。犯人は俺だ。酒を買ってきてはひたすら飲み、無くなったらまた買って、飲んで、飲み潰れて、それでもまた買ってきて飲んで……。こんな生活が続いてどれくらいだろう? 「買いに行くか……」 手当たり次第部屋の中の物をひっくり返し、財布を探す。 「パパー、ママー! 早く行こうよ!」 「そんなに走らなくても大丈夫よ。ゾウさんもキリンさんもちゃんとコウ君を待ってるから」 同じアパートに住む親子の楽しそうな声と足音が通り過ぎていく。 「佳苗……。椎奈……」 棚の上の二人の写真に目を向ける。俺の家族は、もういない。
「あなたも私も休みって日、なかなか無いよね」 佳苗によく愚痴られた。佳苗はパートで土日が休みだった。俺の会社は規定では日曜と第二・第四土曜が休みとなっているが、実際はノルマ未達成分の仕事や顧客からの呼び出し、トラブル対応などで土日に休めることはほとんどなかった。残業も日常茶飯事だった。それでも手当はきちんと付くので、俺はむしろ喜んでいた。家族の幸せのため、椎奈の将来のため、少しでも稼ぎが増えるのはありがたかった。金の無いことが、貧乏がどれほど辛く惨めか、俺は幼少期の経験から知っていた。 「椎奈がね、パパと遊びたい、家族でお出かけしたいって」 ある日、佳苗に言われた。 「ねえ、たまには一日椎奈の相手をしてあげたら? 最後に三人で出かけたの、いつだった? 娘とスキンシップ出来るのも今のうちだけよ。あっという間に大きくなって、『パパ嫌い』とか『臭い』とか『キモい』とか言われて避けられるようになるんだから」 確かに家族サービスも大切だ。大きな仕事が一段落したこともあり、俺は椎奈に提案した。 「次の日曜日、みんなで水族館に行こうか」 椎奈は飛び上がって喜んだ。 「すいぞくかん、あした?」 まだ時間や曜日の概念を理解し切れていない椎奈は、毎日のように聞いてきた。 しかし、俺が休日出勤を命じられたためこの約束は守られなかった。 「前日に言ってくるなんて急すぎよ。断れなかったの?」 佳苗は不服そうだった。 「うちの会社はいつもこんな感じだろ。断ったら俺の評価が下がる。給料に響く」 「だけど、椎奈がかわいそう。……どこかで埋め合わせしてよ」 俺が仕事で行けないと知った椎奈は大泣きした。 「パパとはまた今度ね。今日はママと二人で行こう」 椎奈をなだめるのに佳苗も苦労したようだった。 翌月の十六日は椎奈の誕生日で、ちょうど日曜だった。挽回のチャンスだと、俺は椎奈が好きなキャラクターのテーマパークに連れていくことにした。椎奈はとても楽しみにしており、俺も今回だけは休日出勤を要請されても拒否するつもりでいた。ところが、当日の朝になって俺が担当している顧客からクレームが入り、緊急に対応しなければならなくなってしまったのだ。 「パパのうそつき! パパきらい!」 あの時の椎奈の顔は忘れられない。佳苗の責めるような困ったような表情も。あれが二人との今生の別れになってしまった。
財布がみつかり、俺は近くのコンビニで酒を買い込んだ。帰宅してちびちび飲んでいると、玄関のチャイムが鳴った。 「郵便でーす」 よろめきながらドアを開けに向かった。 「こちら内容証明ですので、サインをお願いします」 配達員からペンをひったくり、名前を書き殴った。配達員は強張った笑顔で帰って行った。 「退職通知書……?」 会社からだった。……当然か。二人を事故で亡くして以来、俺は一度も出社していない。電話やメールも無視していた。何度か同僚や上司が訪ねてきたが、俺はもう仕事などどうでもよかった。『解雇』ではなく『自然退職』としたのは会社の温情なのか。 「椎奈! パパ、もうお仕事無いよ! 毎日お休みだ! いつでも椎奈とお出かけできるぞ!」 俺は叫んだ。 「やったあ!」 椎奈が大喜びで俺に飛びついて来る。 「どこ行こうか? 動物園? 遊園地?」 佳苗も楽しそうだ。 ……幻影はすぐに消えた。椎奈も佳苗ももういない。棚の上を見遣り、一層喪失感が増す。写真や動画は残っていても、二人の体温や息遣いを感じることはもうできない。 俺は通知書を破り捨て、再び酒を呷った。
※2017年6月に執筆。
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